短編 シール (再)
昨日掲載したものの、終わり部分を書き直した上で流れを変えてあります。長さは約1.5倍になってしまいました。
「起きろ、俺!」
励ます為に、目を閉じたままの自分を鼓舞するように叫んだ。
いつまでも寝ている訳にはいかない。休日だからと何もしないでいたらあっという間に夜になってしまう。ゆっくりとベッドの縁に座り、何度かまばたきして目を慣らす。冷蔵庫の奥で冷やしていたペットボトル入りの水道水を取り出し、ドアを閉めた。マヨネーズの賞味期限はとっくに切れているので捨てないとな。無音では寂しいのでテレビを点ける。
旅のプロいわく、「あればあるだけ楽しめるという訳ではないんです。入場料を取らない場所だって素晴らしい思い出になってくれます」だそうだ。そう言っているのを聞きながら鼻で笑う。はっ、全く金が無い者の娯楽というものを教えてやろう。テレビに出ているような人間があんな事を言っていても説得力がない。興味の無くなったテレビに黙れと信号を送りながら、郵便受けを確認する。新聞はもちろん入っていないが、たまに面白いビラが入っている事もある。
封筒が入っていた。差出人どころか家の住所も書いていない。ただ、中央に俺の名前が一列並んでいるだけだ。名前の最後に"様"の字がついていないところから、礼儀知らずの犯行らしい。くそ、最近のガキはこんないたずらまでするのか、手が込んでやがる。
部屋の中央のちゃぶ台に封筒を置き、もう一度眺める。分厚さからすると何かしらは入っているが、振った時の軽い音は便箋なんかより小さいものが入っているような、かさかさという音だ。裏面には〆のみ、本人以外には開けてもらいたくない……。
もしや、金か。
あまりにも給料日前でひもじい思いをしていた俺へ、親切な誰かからのサプライズプレゼントかもしれない。
空き瓶に挿した文房具の中からカッターを取り出して封を切る。好奇心と期待に胸が躍る。逆さにしてちゃぶ台の上へと落とすと、数枚の小さなものと、トランプぐらいのサイズの紙がぱさりと広がった。
「はってください」と書かれた、新品のTシャツなんかによく貼ってあるサイズ表記のようなシールが五枚。
それと、よく分からない事の書かれた紙だ。
「五人に貼って下さい。死にます。 消費期限○○月○○日」
今日じゃん。最近は一日置きぐらいで郵便受けを見ていたけど、それを抜きにしたって唐突すぎるだろ。
しかし、ちゃんとシールに印刷してあるし、このふざけた手紙もわざわざプリントアウトしてカットしたような感じだ。
角も直角に見えるから、意外と律儀ないたずら野郎なのかもしれない。
――こんなものが原因で死ぬ訳にはいかない、まだ俺はちゃんとあいつに答えてないしな。
もし、仮にこれが本当だったとしたら?と考える。まさかそんな事あるはずがない、シールを貼らなきゃ死んでしまうなんて聞いたことも無いし、そんな物がよりにもよって俺の所に届くなんてありえない。
もう一度表と裏を見直す。今の俺でも楽しめるような娯楽を、なんかしらんヤツが与えてくれたのか。
じゃあ、それに乗ってやろう。好意なのか悪意なのかは知らんが、今日はバイトも予定も無いしな。
俺はシャツのポケットに五枚のシールを入れ、安アパートのドアを開けた。
高級マンションのすぐ横に公園がある。よくボール遊びをしようとして周辺の主婦に怒られているガキンチョを見かける。
目の前に突然、空き缶を置かれて、「おっさん鬼な」と言ってくるやつもたまに居る。最近はヒーローのように飛び蹴りしてくるようになった。恐らくそのヒーローの技名も多分正確に言えてないし、うろ覚えで気合いが入ってない。すまんが、俺はその時間帯にはまだ起きていない、と言ったら、もう三十分早起きしろよおっさんなんて言われる。
そのガキも今日は来ていない。ここのところ毎週土曜日は新技披露をしてくれていたのに、今日に限って――こんな面白そうな物があるってのに。ぐるりとあたりを見渡して、遊び相手が居ないかもう一度確認する。
「あれ、先輩?」
公園の入り口から声を掛けられた。この声には聞き覚えがあるけれど、誰だったかまでは思い出せない。
答え合わせをするように、もう少しで思い出せそうなのにとゆっくり時間を稼ぎながら振り返った。
「おー、尾形。そうそう、尾形だよな!」
ひと目で思い出せるその天然パーマが、俺の頭を瞬時に高校時代へと切り替えた。
「そっすよ先輩!覚えてくれてたんすね」
驚きよりも喜びの方が大きいのか、両手の人差し指を俺に向けて大当たりだと示してくれた。
「いやー、合ってた!というか何でここに居るんだ。それに俺だってよく分かったな」
「まぁ、落ち着いてくださいよ。そこのベンチでもどうですか」
ちょうど木陰になっているあたりのベンチを指差しながら、ゆっくり座りましょうと提案してくる。
「ん?ああ、つい嬉しくなっちまってさ。座るか」
「あ。ちょっとだけ待ってくださいね」
後ろに連れていた女の子に何か話しかけると、元気よく……うっかり発射された弾丸のようにガキの群れへと突っ走っていく。あれは絶対にブレーキを考えてない、ほら、やっぱり転んだ。
「それで、どうしたの。え?一体いつの間に結婚してたんだよ」
「まずはソコからっすよねー。5年前の今ぐらいに招待状送ったんですけど、実家に送っちゃったのがマズかったみたいで」
「あー、確かにその頃はいろんな所に住んでたし。祝えなくってゴメンな」
尾形は両手を空中に挙げながら、薄ら笑いを浮かべて。
「あ、別に大丈夫っす。先輩以外にもたくさん来てくれたんで」
「おい、もうちょっと惜しかったなとかさ、来てくれなくて悲しかったんですー的なのは無いの」
「もちろん、冗談っすよ」
「変わってねえなぁオマエ」
「先輩こそ、見た目含めて変わってないっすよ」
二人で子どもたちの集団を眺める。
楽しそうに遊んでいる女の子を指差しながら「あの一番可愛い子が、うちのサカナっす」と紹介してくれた。さっき入り口で話しかけていた子で間違いない。しかし名前は聞き間違えたようなのでもう一度聞く。
「おいおい、子供にサカナなんて名前付けるやつ、ほんとに居るんだな」
「いやー、親からは断固拒否されたんすけどね、最近は変えられるらしいし、ちゃんと意味も込めてつけてるんで」
「あのさぁ、絶対いじられるからやめとけ? 二人目の予定があるんなら尚更」
「……まさか先輩に名前で叱られるとは思わなかったんですけど。すっごく効きましたそれ」
少しだけ凹んだ後輩にサカナちゃんが近寄ってくる。おとーさんと呼びかける声は確かに可愛らしい。
「へえ、可愛いな」
「そうですよね!やっぱり可愛いって、サカナ。ほら、可愛いからご挨拶もちゃんとしようねー」
可愛いと挨拶が出来るはイコールじゃねえよ、と心の中でツッコミを入れながらも、こちらを向いた少女へと顔を向け、姿勢を正す。
「たかやま サカナです!よんさいです!」
「そうかー、おっさんはおっさんでいいよ。おっさんです。さんじゅうごさいです!」
「きっつ」
「うるせえなオメー、シメるぞ」
全く予想していないタイミングで、幸せそうな後輩と会えるなんて。今日はラッキーな一日なのかもしれない。
サカナちゃんから、近所の幼稚園に通っている事、最近は幼児向け……女児向けアニメにハマっている事なんかも教えてもらった
いや、教えてもらうまでもない。来月に発売されるであろう新商品も欠かさずにチェックしているし、毎週日曜の朝には同じものを見ている。
「先輩、どうかしたんすか」
「ああ、アニメってなんで面白いんだろうなって。テレビでやってると見ちゃう魔力が詰まってる」
「頭と言動がファンタジーですからね。卒業する時の夢をまだ追ってるみたいですし」
「おめえ、いっぺんシメるぞ」
ケンカのように見えたのか、心配そうにサカナちゃんが間に入ってきた。止めてくれようとしているのか。
ポシェットから見覚えのあるキャラクターの、ラメが入ったシールを取り出している。
「おっさんちゃん、これどーぞ」
「おお、ありがとうねー」
頭をなでたくなったが、隣がうるさそうなので止めておく。
代わりにアメでもあげようか、とシャツを叩いてみると、先程のシールしか入っていない。
「じゃあ代わりにこれを」
「ありがと!これにはって!」
ポシェットを目の前に突き出される。ちょっと抵抗はあったが、裏側の台紙をぺり、と剥がして目立たない所に貼ってやった。
「おっさんちゃんもはってあげる!」
手の甲をぱしぱしとちいさく叩かれて、俺の右手が女児向けになった。
あーあ、肌に貼ったらかぶれちゃうって教えてないんだ。というか分泌されるおっさん油ですぐに剥がれるから。
「あ、すんません。嫁さんから電話来てたみたいで。すぐ戻りますんで」
尾形パパはベンチからさっと立ち上がると入り口の方まで歩いていった。
急に残されて何を話すべきか悩んでいると、サカナちゃんから話しかけてきた。
「サカナね、しょうらいはおひめさまになるの!」
「うーん、成れると良いね!」
「おっさんちゃんはなにになるの?」
「おっさんはね、おっさんにしかならないの。歳くってじいさんになるまではおっさんなの」
「むずかしくて、わかんなーい」
「おっさんもどうなるか分かんなーい、困っちゃーう」
「子供相手というか、うちの子に変な事を教えないでもらえますか」
後輩ではなく一人のちゃんとした親として、説教された。
しばらくはベンチで話していたが、特に話題も無くなり退散することにした。ノロケ話は独身の耳には凶器でしかない。
「あ、じゃあウチそこなんで。近いうちに連絡しますよ」
隣接する高級マンションの、結構高い位置を指差しながら説明してくれたが、結構いい職業に就いたみたいだな。心の中でおめでとうと素直に祝福する。
「そか、来月飲もうぜ」
「いいっすねぇ、じゃあまた今度」
「おう」
公園から出て、何をするか考える。今日のテーマは無料で楽しむ事だから、近所でも適当に歩いて戻るか。
ふと、財布の中身を見た。数枚の紙幣に挟まれたチケットを見る。
以前バーで知り合った人に誘われて通い始めた、囲碁将棋センターのチケットだ。まだあと三回分残っているし、これも消化してしまおう。余裕のあるタイミングで買っておいて良かったな、チケットに変えてしまえばお札の人も玩具の購入に回される事はない。
サカナちゃんに貼ってもらったシールをゆっくりと剥がして、さっきの「はってください」シールの台紙へと貼り、大事に財布に入れておく。流石にあの人に見せたらいじられるに違いない。
バーで聞くまでは、住んでいる場所からこんなにも近いところに、将棋を指せる場所があると全く知らなかった。
雑居ビルの一室へと入り、見知った顔を探す。おお、やはり居た。
対局相手を待っていたのか、盤の前で詰将棋の本をいつものように読んでいる。
「磯山さーん」
「おお、来たか。はよ座れ」
店員さんにチケットを渡して、残りを財布へとしまう。早く指そうぜと言わんばかりに手で呼ぶ磯山さんへ、分かったと頷いてみせた。
「いやー、誰も指してくれなくてさー。丁度ヒマしてたのよ」
詰将棋の本をぽんとテーブルへと置き、手首の関節を鳴らして準備運動を開始している。
「お強いですからねぇ。じゃあ今日も早速やりますか」
こちらも負けじと右肩を、ぜんまいを巻くようにぐるぐると回して威圧する。
「急すぎるて、もっとなんか喋りたい時ってあるだろ。ほら」
「何かあるんですか、喋りたいこと」
「いや、無い」
無いのなら何故止める。まさか心理戦はここから始まっているのか?
「ほんと、適当な人だなぁ」
やれやれと首を振ってリセットしつつ、ちらりとシャツのポケットを見る。
喋りたいこと、これの話をしてみたいという気持ちはあった。
「え、何。彼女の写真でも持ってきてくれたん?」
視線に気付かれたのか、以前から言っていた話をまた持ち出してきたな。
「違いますよ、それに見せませんってば」
「じゃあ何さ。ほれ見せい」
「分かりましたって、引っ張ったらポケット破けるんで。これですって」
観念して離してくれた手のひらに、シールを一枚載せる。
載せられたシールをまじまじと、不思議そうに両面を見ながら。
「……は?」
短すぎる感想を頂いた。
「ええ、そう来ると思いましたよ。朝起きたらこれが郵便受けに入ってて、人に貼れって手紙が」
「こっわ、でもこれ何? 貼ったら強くなったりするんかな?」
「逆に弱くなったりして。磯山さん、ちょっと試してくださいよ」
「ははぁん? いいのか貼っちゃって。こんな物があろうと無かろうと倒せるはずが無いって事を思い知らせてやろう!」
そこまで言われたら、ダメ元で貼ってみたくなってしまう。
椅子から立ち上がって磯山さんの肩の部分に、ぺん!と強めに貼りつけた。
「っしゃあ、じゃあやるか!」
「気合い十分ってとこですね、やりましょう」
そして俺が先手を打つと、磯山さんが打たない。
「どうしたんですか、投了なんて早すぎますよ」
「いや、なんか。右手が動かん。駒を持てん」
「五十肩じゃないんですか」
「んなわけあるか、さっきまで本も読めてた」
確かに、そうだ。少なくとも顔に近づけて読んでいたから、そこまでは上がるはずだ。
「えー、斬新な敗北宣言ですね」
「ぬううううう!」
額に血管を浮かせながら、必死に右手を動かそうとしているようだが、一向に動く気配がない。
「左手は」
「おなじじゃああああああ!」
ぷるぷると震えているところから、本当に力を込めているようだが、やはり動かない。
「……俺、もう帰ります。ちょっと行くところがあるんで」
「勝ち逃げは許さねえ、来週までには治しておくからな!」
手を動かす事を諦めたのか、両腕を脱力させながらも、口調は変わらず強気なままだった。
店員に軽く礼を告げてから足早に立ち去る。
両腕が、しかも同時に五十肩になるなんてことがあるのか。
医学的に考えてあり得ないんじゃないだろうか。別に病気やケガに詳しい訳ではないが、聞いたことは無い。
ふと、整体師の顔が思い浮かんだ。お店のWEBサイトの改修やポスター作りをちょこちょこ手伝った、あのスペシャリストに聞いてみれば分かるかもしれない。
駅から徒歩五分という微妙な遠さが客足を鈍らせている、ほぼ常連しか来ない店のドアをくぐる。
「いらっしゃいませ。なんだ、君か」
「うぃっす。今日は客としてじゃなく相談が」
今日のテーマを死守するため、ではなく単純に財布の中身が心配だった。
「猫背、治しなさい。肩こりの相談じゃなくて?」
「いえ、実は……」
先程の事を全て話した。神妙な面持ちで途中まで聞いてくれたが、途中からにやにやと、最後には大笑いしていた。
「ひー、それで、全部シールのせいだって言いたいの。馬鹿いうんじゃないよ」
「それしか思いつかないんですって。んで、これなんですけど」
「えー本当?どれどれ。両腕が上がらなくなるシールなんて、皆に貼ればウチも大盛況間違いなしじゃん」
「発想が金の亡者じゃないですか」
「店を開けるにも畳むにもカネがいるんだよぅ、こーの若造がぁ!」
「わかりましたって、次は客として来ますから」
軽く一喝されてしまった。その声には真剣さが含まれているものの、ジョークめいているからまだ大丈夫だろう。先程ゲラゲラ笑っていた時よりも少しだけ真顔に近くなっているように見えた。
しかし、本当に腕が上がらなくなるのか。貼る場所によって効果が違うんじゃない?という提案を受けて、先生の背中に貼り付けて検証することになった。
人体実験のようで非常に後ろめたい気分ではあるものの、有効活用する事が出来るシロモノならば、大学や医療機関に預けてみても良いかも知れない。
「ほんと、何があっても恨まないでくださいね」
「わかってるって。ささ、早く」
「……じゃあ」
背中に指で優しくシールを押し付けると、先生が椅子から崩れ落ちる。
「え、何してるんですか。ちょっと、冗談にしてはキツいですって」
「それが、急に座ってられなくなって。ちょっと起こしてくれない?」
「は、はい」
何度か起こそうとしても、またぐにゃりと床に倒れ込む。二度繰り返した所で。
「ちょっと剥がしてみてもらっていい?」
「あ、はい。分かりました。」
そうか、剥がしたら変わるのかも知れない。起き上がろうとしているのかぐねぐねと動く先生に「止まってください」と静かに告げて、背中からシールを剥がす。
両腕を地面へと付けて、勢いよく立ち上がる姿を見てから、指に張り付いたシールと先生の顔を見比べた。
「なんなの、それ」
「なんなん、でしょうね」
不思議な体験、というよりも怖くなってきた。
こんなものを誰が何の目的で、なぜ俺なんかに送ったのか。
階段を降りながら雑居ビルのガラスを開けると、丁度入ろうとしていた男性とぶつかってしまった。
直前に避けようとしたものの、軽く左手で……あ。
鍛え上げられた胸筋のあたりに、シールが付いてしまっていた。
「すみません」
「ああ、大丈夫ですよ」
言いながらも息を大きく吸い込み、背筋を伸ばし、そのタフさをアピールしているようだ。三階にあるフィットネスジムのユーザーかも知れないな。きっとこんなおっさん一人がぶつかったくらいでは屁でもないのだろう。
彼は俺を押しのけて、先程入ってきたガラス扉を再び開けながら外へと出ていった。いや、何のために来てたんだよ。
付いてしまったシールを剥がそうと追いかけようとしたが、見つけることは出来なかった。
「あのシール、大丈夫なのか?」
呟きながら考える。今の人物には特に効果は無かったように思えるし、個人差か時間差があるのかも知れない。もし仮に不思議なパワーがあるのなら、安易に貼らないほうがいいんじゃないか。
尻のポケットが震えて考えるのを止めさせた。
「もしもーし、お昼一緒に食べない?」
「ああ、いいけど。どこ?」
明るい声を聞いて心の底から安心する。頭の中の不気味な空気を換気してくれるような、ハキハキとした彼女の声が、今はただ嬉しい。
「いつもの店ー。てか声がちょっと暗くない? 大丈夫?」
「ああ、ちょっと……色々あってさ」
店のホールには彼女と数人の客が座っているだけで、軽く手を挙げると向こうもこちらに気付いたようだ。
シールの件を全て話すと、今までに見たことのない真剣な表情で、俺に言った。
「貼らないと死ぬ、って書いてあったんだよね。紙に」
「ああ」
先に紙の方の話をするのか。
「シールが本物、というか、何かしら効き目があるんなら。その紙の方も……」
「おいおい、やめてくれよ。内心、そう思い始めてんだからさ」
「私に貼って」
「……本気か?」「本気」
即答され、断る事の出来ない雰囲気があたりを包んでいる。
「でもさ」
「でもさ、じゃない。貼って何かあったら剥がせばいいんでしょ? ほら」
白い腕だな、そして細い。傷一つないこの腕に、貼ってしまってもいいのだろうか。
四枚目のシールを台紙から剥がし、彼女の腕へと貼った。もし貼る部位で変わるなら、彼女の腕が上がらなくなるはずだ。
「っしゃ!」
鼓膜を直撃した衝撃波が脳の芯を揺さぶる。反響したものが反対の耳から聞こえたのか、左から右へと貫通してしまったのかは分からない。
「ええと……大丈夫?」
「――――」
左耳の音が消えているので、右耳で聞き取る。
「ごめん、本当にごめん。なぜか叩かないとって思って。ごめん」
「……いや、いいよ。段々聞こえるようになってきたし、たぶん鼓膜も大丈夫」
急ではあったけれど、そこまで痛くはない。突然だったから驚いただけだ。
「それより、なんでそう思ったんだろうな」
じんじんと痛む左耳をさすりながら、申し訳なさそうな表情のままの彼女へと聞く。
「なんでかな、人を叩いた事なんて本当に何回かしかないのに」
表情が段々と、お化け屋敷に入る時に見た顔へと変わっていく。怖がりではあるものの、自分でも信じられない行動に出たのだから当然なのかもしれない。
腕に貼っていたシールを剥がし、丸めてテーブルの上に置くのを黙って見ていた。。
「今日は……ちょっと帰っておこうよ」
「そうだな。そうしておこう」
変な空気のまま、精算を済ませてもらって二人で店を出た。
ずっと謝っているのも疲れるだろうし、見ていて辛いので駅前で解散した。変な物を貼ったのは俺なんだし、後で詫びのメールを入れる。あんな事のあった直後だから、今はゆっくりと落ち着かせた方が良い。
アパートのドアを開け、ちゃぶ台の前へと座る。シャツのポケットから最後のシールを取り出してちゃぶ台へと置いた。
これは一体、何なんだ。
壁掛け時計を見ると、制限時間はあと11時間しかない。
これを他の人に貼るべきなのだろうか。
いや、そもそも何なのかも分かっていないのだから貼るべきではない。
嘘かデタラメ、みんなして悪ノリしてくれただけかもしれないじゃないか。
だが、死ぬという部分が本当ならば?
思考を切り替えようと、普段どおりの生活を無理やり実演する。
冷蔵庫を開けて、何も取り出さずに閉める。テレビをつけっぱなしにして、洗濯機を……そういえば、干してなかった。
ベランダの外を見ながら、まだ間に合うだろうかと考える。
洗濯機の中身をカゴに入れてベランダに向かおうとした時に、白い物が足元に落ちた。
「ん?」
それは、今日一日を引っ掻き回してくれたシールだ。洗濯カゴを置いてちゃぶ台の上のものと見比べると、サイズも文言も全く同じだ。
「どういうことだ……?」
増えた、のではない。
もし、誰かに貼りつけられていたのだとしたら。
着信音。尾形……嫌な予感がする。
「先輩、ども。うちに変なもの入れませんでした?」
ああ……そういうことか。
「てか、うちの住所教えてないのに良く分かりましたね。うちの娘の漢字だってどう書くか伝えてないのに。どうやったんですか」
「俺じゃない」
「じゃあ、誰だって言うんですか。ふざけるのもここまでにしましょうよ。今なら無かった事にしますから」
イライラとした声の原因は、おそらく封筒だろう。
「俺じゃ、ない」
「あーそう、そう来るんなら別に良いですよ。警察に不審物扱いで持っていってみますから。死にますって書いてあるから脅迫にでもなるんじゃないですか」
「勝手にしてくれ、俺じゃないんだ」
「わかりました」
久しぶりに人の怒鳴り声を聞いた。何もかもが分からなくなってきた。もう、どうにでもしろってんだ。
最後の一枚をもう一度見つめた。もし予想が正しいなら、これは……。
彼女へとメールを送る。
「嫌いなヤツか関係ないヤツに貼ってくれ。意味は多分わかるだろうけど、俺は送ってない」
死んでほしくない。彼女を死なせる訳にはいかない。
俺にこれを貼ったヤツも、仕方なくやったに違いない。
今なら誰だか知らないお前の気持ちも分かる。死にたくないか、死なせたくないんだろ。
一人でも、こんな目に遭う人間を減らせるのなら。
台紙からシールを剥がし、胸ポケットに貼った。
視界がゆっくりと暗くなり、床に倒れ込む音を聞く。
何でこんな物が届いたのか。恐らく貼られた人間の元にあの封筒は届く。
最初のサカナちゃんはポシェットに貼り付けた。シールを貼ってもらった。
次の磯山さんは腕に。そして、手番を八手分くれたのだろう。
先生は床を這っていた。
そしてあのガタイの良い男は胸を張った。
彼女は……彼女は?急に叩いた――そうか、張り手の張るか。
だとすれば、ちゃんと五人に貼っている。一枚は剥がして再利用だとカウントするのなら、このポケットに貼ったもので五枚目。
彼女の為に命を張る、だって?冗談じゃない。変な事に巻き込んだだけじゃないか。
こんなしょうもない命を、どうなるかも分からないのに腕を差し出して、救ってくれようとした。
動かない腕を動かす。
死んでたまるかよ。
胸ポケットへと寄せた手で、シールを剥がそうとする。
死ねないんだよ、まだ。
指先の感覚も無くなってきた。
ちゃんとした人間になって、プロポーズして。
腕に何かが引っかかるのを感じる。
幸せかは分からないけど、一緒に居てやりてえんだよ。
肩の力を振り絞り、それを引きちぎる。
視界が段々と明るくなり、腕、指へと感覚が戻ってくる。
周囲の音が耳へと飛び込み、まだ生きているんだと実感する。
鉛のように重い体を、起こした。
ちぎれたシャツのポケットが、床に落ちている。シールごと引きちぎったそれが恨めしそうに見ているように思えた。
だん、と踏みつける。こんな事をしたって何も意味は無いのかもしれない。
これは送ってきたヤツへの宣戦布告だ。
人の命をなんだと思ってやがる、人を死なせてもなんとも思わないのか、オマエは。
ちゃぶ台の上に置いたままだった紙を、乱暴に丸める。
「なにが、死にます、だよ、この野郎!」
いや、死にますって書いてあったんだよな。
もう一度、紙を広げる。そこには確かにこう書いてある。
「五人に貼って下さい。死にます。 消費期限○○月○○日」
勘違い野郎は、俺だったのか。確かに死ぬとは書いてあるが、貼らないと死ぬなんてどこに書いてある。
俺は間違いなく、自分を含めて五人に貼った。剥がしたらノーカンなら、彼女の腕に貼った分はテーブルの上に載っていたはずだ。 もし、このクソ野郎がとてつもなく嫌なヤツなら、どうする。
生き延びたくて他人を犠牲にしようとする、人間の醜い部分をあざ笑うようなヤツなら。
「五人に貼って下さい。死にます。 消費期限○○月○○日」
こんな賞味期限のような……消費期限……使い切るまでの日数。効果を保証するための制限時間。
残り10時間、もし考えが正しければ……俺は死なない。違ったら違ったで、運か頭が悪かっただけだ。
送ったメールに追加で、もう一回。
「嫌いなヤツか関係ないヤツに貼ってくれ。意味は多分わかるだろうけど、俺は送ってない」
「すまん、さっきのは間違いだ」
送り終えて数秒で、手元のスマホが震える。
「もしもし、あのメールどういうこと?」
「紙がさ……同封されてたヤツの話をしただろ。もしかしたら、"使い切れ"じゃなくて"使い切ったら"じゃないかと」
「えーと、ちょっと待って。見るから」
――やはり、届いてしまったのか。
巻き込んでしまった、全くの無関係であったのに。好奇心なんか言い訳にならないのは分かっている。いつのまにか下唇を噛み締めていたのか、口の中に血生臭さが広がっている。
「確かに、そうとも読めるよね」
「誰かに貼ったか?」
「気味が悪いからそのまんま。シールの件も封筒の件もお店で聞いてたから、中身を確認しただけ」
「なら、一つ頼みがある」
「何?」
一呼吸してから、静かに伝えた。
「俺が明日死んだら、メールで送った通りにして欲しい」
数秒の沈黙の後に、ようやく次の言葉が返ってくる。
「それって、シールを貼られた人……被害者を増やすってことだよね」
「ああ、そうだ」
「そんなことするぐらいなら、私も死ぬ。一日違いの命日になっちゃうけど」
「させない。死んでてもそれだけはさせない。何かしらで貼らせる」
「言ってる事が無茶苦茶じゃん。とにかく、もう一回店で話を整理したいんだけど」
「わかった、すぐ行く」
店の前で彼女と合流する。今にも泣きそうな顔で、俺を待っていた。
「とりあえず、一旦落ち着いて。何があったのか説明して」
「何もなかったよ」
精一杯のアピールも、引きちぎられたポケットの跡がそうはさせてくれなかった。
「それで、自分に貼り付けたのね。ほんと何にも考えてないというか」
「すまない。それ以外にいい手段が思い浮かばなくってさ」
駅で別れた後の事、紙に書いてあることの考察を伝えた。
少なくとも明日……俺が居なくなったとしても行動が出来るように。
「でも、さっきの話なら」
五人に貼り付けずにタイムリミットを迎えるか、五人目に貼り付けた時点か。
どちらかで、死ぬ。
「私に貼った分は捨てられちゃったとしたら、五人目は自分にならないよね」
「そうだな」
「洗濯物に紛れ込んでた分は捨てたんだよね」
「捨てた」
「じゃあ……」
昼過ぎに座っていたテーブルには誰も居ない。店員にあの席に移動出来るか確認すると問題ないと返ってきた。
二人で綺麗になっているテーブルの上を探し、床に落ちていないか確認する。
「あのう、いかがされましたか?」
先程確認した店員が心配そうに声を掛けてくる。二人同時に「シールが」と言い出すと、店員の表情が変わる。
「もしかして、大事なものでしたか……?」
「ええ、少し探してまして」
「それ、貼って下さいって書いてあったので……同僚の背中にいたずらで」
「その方はどちらへ?」
「まだ裏に居ると思います」
エプロンの腰紐の部分に、確かに付いていた。誰かの元に届いた物を他人に貼った場合、郵送されてくるかは分からない。
念の為、二人の店員に封筒が届くかも知れないことを伝える。
「ちょっと、俺のアパートで待っててくれるか。寄らないといけないところがあってさ」
「……わかった。じゃあ、待ってる」
彼女と別れ、先生と磯山さんの元へと急いだ。二人に事情を説明しつつ、封筒が来ても明日まで開けずに居て欲しいと頼み込んだ。「にわかには信じがたい話だが、腕が上がらなかったのは確かだし、オマエが帰ったら上がるようになったし。信じてやるよ」
一人には背中をばしんと叩かれながら、大丈夫なんとかなる、と励まされ。
「お店に封筒が届いてて、中身を見たらシールが入ってたから、貼ってみたかったけど……そういうことなら」
もう一人には、死んだらマッサージ出来ないから、今後も売上に貢献してくれと軽く流された。
「もしもし、尾形か」
「なんですか。さっきの話の続きでもしようとしてるんですか」
イライラは少し収まっているようだが、電話越しにでも分かる、この嫌悪感は。
「ああ、そうだ。あの封筒、俺が入れた。すまん。だから、あのシールは明日まで持っててくれ」
「なんであんな気味の悪い物を……いたずらにしても限度がありますよね、しかも子供に対してやることじゃない」
「すまない。それに関しては、また今度謝罪させてくれ」
「わざわざ電話で、しかも今日のうちに話す気になったのは、なんでですか」
「……笑わないで聞いて欲しいんだが」
「早く言ってもらえますか、先輩と違ってヒマじゃないんで」
言うべきか。今ならあのシールが本物で、変な事が起きるなんて知らないのに。
言わなければ、もし貼らなければ。
「もし、子供が大変な目に遭うって分かったら、何が何でも助けようとするよな」
「当たり前じゃないですか。現に、さっき先輩にブチギレ電話かましたのだって、突然だったからビックリして」
他人の運命を他人が決めるなんて、そんな事は出来るはずがない。あの子の分まで背負うなんて出来ない。
でも、巻き込んだのは俺だ。俺が責任を取らないと。俺が決めるんだ。
「疑われても何されても文句は言えないんだが」
「何ですか、急に。らしくないじゃないですか」
「俺は明日、もっと正確に言うと、あと8時間で、死ぬかもしれない」
「冗談は抜きにしましょうよ。飲みに行くっていいましたよね。言い出しっぺがそんな……そこまで追い詰められてたなんて」
「違う。あの封筒の話なんだ」
正直に、全部言おう。
説明を終えると、尾形は言葉に詰まりながらも話してくれた。
「別に無視してもいいのに、そういうとこだけ格好つけますよね」
「昔っからな」
「うちの子のために、わざわざ。死んじゃうかもしれないんでしょ? 先輩」
「まだ分からない。だから、救えるかもしれない」
「生きてたら、約束は守ってもらいますからね」
「金欠だからお前の奢りになるがな」
「そんくらい、払えますよ。電話、かけますから」
「ああ、待ってる」
これで、一通り説明は終えた。雑居ビルの入り口で見失った男性には申し訳無いことをしてしまった。彼さえ見つけられれば……。
探す手段が無い。先生に聞いてもそんな体型の男性客は居ないと言っていたし、ジムでも、「もう少し特徴があれば分かるかもしれませんが、うちはそういう方ばかりなので」と分からずじまいだった。
アパートのドアを開けて、一通り説明してきたと報告した。
「もう、あんまり時間が無いね」
「ああ、そうだな。不思議な気分だけれど、最後に顔を見られてよかったよ」
「縁起でも無いこと、言わないでよ」
「あのさ、一生に一度のお願いをしてみても、いいか?」
日付の変わるタイミングまで、見守っていて欲しい。
あと5分で、日付が変わる。隣で手を握ってもらいながらのプロポーズは、明日になったら返事を貰える。
長い文章で申し訳ありません。そしてもし読んで下さったのであれば、ありがとうございます。