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私は冷静に言葉を続けた。びっくりするほど冷たい声に、ああ思っていたより自分は怒っているのだなとどこか他人事に感じる。
「人前で異性を家名でなく名前で呼ぶなんて……はしたない」
「お前に責められる理由は無い。そもそも彼女とは先ほど、夜会の始まりに婚約を発表している。名前で呼び合う事に私の新しい婚約者だ、何も問題は無い」
「な……?! ヴィクトル様、やはり最初からそこの女と通じて……!」
「謀反人リュシール、お前こそもう婚約者ではないのだから、勝手に私の名を口に出す事は許されない立場だと理解できないのか」
聖女である私に勝手に貴族のルールを色々押し付けてきていたのはそちらなのに、今だけは随分都合が良い事。
時には修行の内容にまで口を出されて……いえ、もういいわ。出て行く国の事なんて。
「教会が養っていた孤児院と救貧院はどうなさるおつもりですか」
「養っていた? 搾取していた、の間違いだろう。今頃騎士団が解放している。今後の運営にはお前達教会と違って良識のあるレイラの家の分家が携わるから何も心配はしなくていい。ああ、お前達が国を出て行くのは自由だが、本人の了承なしに連れて行く事は許さないからな」
「搾取? 何の話ですか。私達は彼等に金銭を稼ぐ手段を教えて自活の道をひもといていただけです。貴方達こそ彼等に何をしたのですか?!」
「……おぞましい。教会の人間に話が通じないのは相変わらずだな」
吐き捨てるように告げたヴィクトル様。会話ができないとはこちらの言葉だ。私達は無力な孤児や、行くあてのない女性達を匿っていたのに、何故それを搾取などと言われないとならないのか。確かに労働はさせているが、自分達の生活費を作るついでに金銭の稼ぎ方を教えただけだ。それの何が悪いのか。
「今までにも再三にわたり間違いは指摘してきた。まだ自分達の過ちを認めないのか?」
「私達は過ちなど犯していません!」
「そう思いたいのなら結構。我々は我々の国の未来のために選択をするだけだ。……今ここに、聖女と名乗り、その背後にいた教会と共に我が国に巣食い甘い蜜を吸っていた謀反人と決別する事を宣言する!」
しん、と一瞬静まった夜会のホールの中央で、私は聖女の衣の裾を握りしめてこの屈辱に耐えた。
「……私との……聖女との婚約破棄を、本当に、後悔されませんね?」
「くどい。国庫から不当に金を引き出し再三の勧告にも是正しなかった謀反人との決別だ。もうその聖女という張りぼての称号は我が国には不必要だ、後悔などしない」
私はあまりにもやるせなくなってしまい、涙が出そうになった。なぜ分かってくれないのか、きっとそんなもの失敗してしまうに決まってるのに。
「提示した条件で契約を結び直し、これからはまっとうな運営を行うと教会が誓うのなら再考してやるが?」
「……結構です。私達の結界が不要だとおっしゃるのでしたら望み通りに立ち去って差し上げます」
何がまっとう、だ。教会の聖女と神官を飼い殺したいだけだろう。あんな僅かな報酬、奴隷にされるようなものだ。
この国を出ても私達は何も困らない。結界を張る事の出来る我々教会の一族を諸外国は放っておかないだろう。その時に泣いて謝っても、婚約破棄の撤回を申し入れてももう遅い。せいぜい後悔すると良いわ。
「不当に高額な報酬をせしめた悪辣な組織ではあるが、今まで結界を張り国を守っていた事は一応の事実。今までの年棒を返せとは言わない。私財はそのまま持ち出す事を許そう」
何故私たちの財産に口を出されなきゃならないの……! 怒りに任せて声を出しかけて踏みとどまった。こんな人とこれ以上言葉を交わす意味なんて無いわね、早く家に帰ってお父様にこの国を出る相談をしないと。
「気分が悪くなりました。それでは、私はこの場を辞しますわ。……聖女を追い出したこの国に! 禍が訪れるだろう!」
私が最後高らかに宣言すると、周りにいた着飾った男女が僅かに恐れ慄いた。
「こけおどしだ! 名だけの力の無い女の戯言に踊らされるな! ……さぁこの国の正しき夜明けだ! 悪しき教会が去った祝福を告げよう、乾杯だ!」
ざわめく貴族達をヴィクトル殿下が宥めている。その喧騒に背を向けて、私は一人で煌びやかな夜会の中から走り出た。
「オリバー! 馬車を出して!」
「……? 聖女様、まだ夜会の最中では……何がございましたか?」
私の姿を視認してから慌てて御者台に登る御者を無視して、今日従者として連れてきたオリバーと一緒に馬車のキャリッジに乗り込んだ。
走り出した馬車の中で、私は先ほどの夜会で起きた事をオリバーに伝えていく。
「なるほど、そのような事が起きたのですね」
普通の人ならかなりの衝撃を受けて顔を歪めただろう、自分達の崇める教会の聖女がこんな辱めを受けたのだから。一見冷静に見えるほど表情の変わらないオリバーだが、これは元々だ。彼は驚きも、笑顔も怒りも悲しみもその顔に浮かばない。私は付き合いが長いし深く心を通わせ合っているからなんとなく感情は分かるけどね。
「ならば、枢機卿にお伝えしなくては」
「ええ、そうね。お父様にお話しして対応を考えていただかないと。国から出る事は確実だけど」
涼しげな目元で静かにそう答えるオリバーに、私の目は釘付けになっていた。ヴィクトル様にはがっかりしたけど、でもよく考えるとあんな男、私には相応しくなかったと言うことなのだろう。
私は気持ちを切り替えると、この国を出てから何をしようと楽しい考えに頭を巡らせた。そんな私の横顔を、何か考えている様子のオリバーが見ている事には気付いていたけどわざと無視をする。もしかしたら聖女に懸想していた従者とのロマンスが始まるかもしれないし、また違う素敵な人と恋に落ちるかもしれない。
少しの傷を胸に残した苦い初恋を捨てて、私は楽しい予感に意識を向けた。……最初に顔を合わせた時は、こんなに素敵な人と結婚できるのかしらって胸を高鳴らせたのだけど。そんな淡い思い出今では擦り切れてしまった。貴方と過ごす幸せな未来も考えた事があったのに。
……さよならヴィクトル様。
「お父様!」
「ああ、リュシール……可哀想に! 婚約破棄の話は聞いたよ……まったく、分を弁えない愚かな王太子だ。我々がどれだけこの国の平和に貢献しているか理解していない!」
「ええ、ええ。そうなのですお父様……私つらくて……」
「だからあんな場に行かずとも良いと言っただろう」
「でも今まで散々馬鹿にされたからせめて直接何か言ってやりたくて……結果的に最後にお別れを自分の口で言ってやれたから良かったわ。これでもう心残りが無いもの」
健気に笑って見せた私を、お父様は眩しいものを見るように目を細めて頬を撫でてくれる。
「こんな国にはもう見切りをつけた。すでに帝国とは渡りをつけてあるからすぐに出よう」
お父様の言葉に従って、私達家族は二つ国を挟んだ帝国へと居を移した。実力主義で有名なかの国は、私達の張る結界を正しく評価してくれている。
「帝国の第三皇子、ケント・ニエル・シューベンバッハと申します。お見知り置きを、聖なる姫君」
「聖なる姫君だなんて、もったいないお言葉を……こちらこそ、よろしくお願いしますケント様」
帝国の生活に慣れるまでの案内にと、私に紹介されたのはなんとも見目麗しい皇子様だった。雄々しく立派な体、強い眼差し。ちょっと鋭いお顔つきだけどそこもまた素敵で、私に跪いて手の甲に口付ける姿に惚れ惚れしてしまう。
私は新しい出会いにほんの少し胸をときめかせていた。良いわよね、ヴィクトル様にあんなに傷付けられたんだもの、新天地で幸せになったって。
お父様もここでは伸び伸び仕事ができると喜んでいたし。むしろ追放されて良かったんじゃないかしら、と私は思い始めていた。
また1/1719時に次話が更新されますー