【たった一人の生存者 中編】
少女は恭一郎の想像以上に空腹だったのか、おかゆを作ってきた土鍋から直接貪るように食べ始めた。少女の表情はとても幸せそうで、食事を作ってきた恭一郎も一安心である。
元気に食事を口に運ぶ少女の姿を見たことで、心理的な余裕を取り戻した恭一郎は、改めて少女の姿を見守りながら観察を行った。
先ずは、最も目に留まる少女の獣耳だ。人の耳よりも高い位置にあった獣耳は、少し肉厚で丸みを帯びた大福のような形をしていた。色は頭髪と同じ淡い茶色の混じった黄色、小麦色が最も似ているだろう。獣耳の裏側には、黒く色味が濃くなっている部分がある。子供の頃に動物園で、こんな形の耳を持つ動物を見たような気がするのだが、今は思い出せそうにない。
少女の顔はなかなかに整っていて、美少女と呼んでも差し支えない。しかしながら栄養状態がよろしくなかったため、その造形は完全に失われている状態だ。今は食事に意識を集中しているらしく、かなり野性的におかゆを胃袋へと投入している。口の周りがおかゆの汁気で汚れてしまっているので、未使用だったタオルを布巾代わりにして口の周りを綺麗にしておく。
「うぅっ、こんぷりー……」
食事に夢中で己の醜態にまで気が回っていなかった少女が、口元を汚さないように赤面しつつ丁寧に食事を続ける。なかなか可愛らしい反応だったので、恭一郎は思わず少女の頭を優しく撫でてしまう。栄養状態のせいで毛質が悪いようだが、それでもなかなかの撫で心地だ。少女が健康を取り戻したら、さぞや極上の触り心地になるのだろう。
それにしても、動物のパーツと少女の取り合わせは、驚くべき相性である。獣耳のカチューシャが売られている理由が分かったような気分だ。サブカルチャーでは比較的メジャーな存在であるから、恭一郎でもその存在を受け入れることが簡単だ。だが、どうにも引っ掛かるものがある。つい最近、似たようなことを想った気がするのだ。しかし、ここ数日の驚天動地の異世界転移の経験が強烈で、それまでの記憶のサルベージが上手く行かなくなっている。
そんなことを想像していると、撫でられている少女が茹蛸のように真っ赤になってしまった。
許可を得ずに頭を撫でてしまっていたため、恭一郎は慌てて少女の頭から手を離した。少女は一瞬だけ恭一郎に向けて非難するような視線を送り、少し不満そうに獣耳を垂れさせた。だがそれも束の間、少女は再び意識を食事へと振り向けた。
恭一郎は再び少女を観察する。少女の体の構造は、耳と成長前の背中の翼と腰の尻尾の存在を別にすれば、性別の差を考慮しても恭一郎と同じ人間と瓜二つであった。特別に体毛が濃いわけでもなく、肌も緑や青のような異星人風のモノでもない。全体的にやや色素が薄く見えるため、比較的緯度の高い地域の出身かもしれない。
少女の背中にあった小さな翼は、肩甲骨と背骨の間から生えていた。しかし、その周囲には翼を動かすための筋肉や骨格などの特別な構造が確認できなかったため、あの翼では満足に羽ばたくことすら叶わないだろう。あの翼では飛行しようにも、翼を支えるだけの力すら満足に出せないはずだ。蛇の後ろ足のように退化している途上である可能性も考えられる。
腰の尻尾も同様に、構造的には満足に動かすことはできないだろう。基本的に尻尾は背骨の延長線上に存在していて、主な役割は身体の重心位置などを調整することだ。しかし、直立二足歩行する人間に尻尾はない。もし今の人間に尻尾があれば、重心を狂わせない程度の短いモノか、逆に上半身と釣り合いの取れる大きさのモノが備わっていることだろう。
恭一郎が少女を観察している短い間に、当の少女は土鍋の中身を平らげて、ハチミツ入りの生姜湯を飲んでほっこりとしていた。そして満腹になったことで緊張が解けたのか、少女は不意に口元に手を当てて大きな欠伸を始めた。
どうやらこのお嬢さんは、おねむのようだ。このままでは土鍋を抱えたまま寝落ちされそうなので、恭一郎は空になった食器を回収した。それからアルミの温熱シートを回収してベッドを整え、少女がいつでも眠れるように準備を整えた。食後にすぐ横になるのは逆流性食道炎を引き起こすため避けるべきだが、今の少女にそれを求めるのは酷だというものだ。
「食器を洗ってくるから、君はゆっくり休んでおくように」
言葉の意味が通じなくとも、行動の意味は通じるモノだ。恭一郎は少女の頭を優しく一撫でした後、宣言通りに食器を持って部屋を出た。
食器の洗い物を済ませて戻ってくるまでの短い時間に、少女はまた眠りに落ちていた。今度は満腹になった影響か、満ち足りた表情で寝息を立てている。その眠りを覚まさないように注意しつつ、風呂桶と使用済みタオルを回収した。使用済みタオルはお湯で汚れを一度洗い流してから、洗濯機に掛けた。
タオルを洗濯している間に自分の部屋へ戻り、今度は今夜の着替えを持ち出した。自分のベッドだからといって、勝手に少女と同衾して寝るわけにはいかない。紳士の嗜みだと心得よ。である。
今夜は隣の父の部屋で寝ることに決め、取り敢えずベッドの周りだけ綺麗に掃除した。隣の部屋で眠っている少女の睡眠の妨げにならないように気を遣い、大きな音を立てずにベッドメイキングを完了させる。
一通りの片付けが済んだ恭一郎は、ふと気になった。もしも自分が寝ている間に、少女が催したら手洗いを使えるだろうか?
自宅の手洗いには、日本の一般的な温水洗浄便座が取り付けられている。便器と一体型の便座でないのは、万が一故障した場合、予備の便座とすぐに交換することができるためだ。予備の便座は、物置に大切に保管されている。
烏丸邸は東京都内とはいえ、山中深くの森の中に建っていた。業者を呼ぶにも都市部とは違い、離島並みに不便だったのだ。
父の部屋を出て、トイレへと向かう。自宅には現在、一階と二階の住居スペースにトイレが設けられている。現在の地下一階である旧一階にトイレがないのは、食料貯蔵庫や仕事部屋から、水場を遠ざけたためだ。どちらも水濡れが大敵となるため、万が一に備えて災害用の簡易トイレを備えておくという徹底ぶりだ。
ここで、手洗いで用を足す行為の手順を思い浮かべる。
先ず第一に、壁に据え付けられているコントローラーのボタンを押して、便座の蓋を開く。 続く第二に、便座の座面に腰かけ、用を足す。
第三に、終わったら、温水で洗浄する。
第四に、トイレットペーパーで尻に残った汚れと水分を綺麗に拭き取り、便器の中に捨てる。
最後に、水を流して、便器の中を処理をする。
大まかに、五つの行程が必要だ。そこで、しばし黙考する。
恭一郎は静かに自分の部屋へ戻り、紙とサインペンと蛍光色の付箋を持ち出した。言葉同様、文字も通じないと考え、アラビア数字を振ったピクトグラムを紙に書いていく。
ピクトグラムとは、言葉や文化の違いがあっても困らないように、簡潔な絵で情報を伝える手段だ。日本で初めて開催された五輪で採用され、世界中に広まったそうだ。
絵心に自信のない恭一郎だが、温水洗浄便座のコントローラーに描かれていた絵を参考に、それっぽいピクトグラムを書き上げることができた。
蛍光色の付箋に数字を書き、行程順に解りやすい場所へ張り付けていく。
「おっと、温水を停止する。手を洗ってタオルで拭く。の工程が抜けていた」
紙の余白に数字とピクトグラムを追加して、数字を書いた付箋を追加で張り付ける。最後に行程を記した紙をコントローラーの上に、付箋の糊で四隅を壁に張り付けた。これで手洗いの使い方は、なんとか理解できるはずだ。たぶん。
念のため、二階の部屋の扉を全て閉じ、手洗いの扉だけ電気を付けたまま開放しておく。
最後に、ハチミツ入り生姜湯に使ったマグカップに水を入れ、コースターを蓋代わりにして少女の眠るベッド脇の机の上に置いておいた。
◇◆◇◆
夜になって恭一郎は、ようやくガレージに向かうことができた。
『あの子のお世話、お疲れ様でした。今は、どのような具合ですか?』
ミズキもあの少女のことが、やはり気になっていたようだ。
「そのことを連絡しにきた」
斯く斯く然々(かくかくしかじか)。恭一郎が、ミズキに少女の容体を説明した。
『それは、一安心ですね』
「そうだな。言葉は通じなかったから内心焦ったが、俺に害意がないことは理解してくれたと思っている」
単に、空腹の少女を餌付けしただけ。などとは思いたくない。
『ちなみにあの子は、どのような種族の亜人なのでしょうか?』
「それなんだが、ライオン系の獣人だということは間違いなさそうだ」
ミズキも気になる少女の種族は獣人で、ライオンの特徴があることがはっきりしていた。あの丸い獣耳だけでは、イヌ科やネコ科だけでなく、ネズミを始めとするげっ歯類等も候補に含まれるので判断が付かなかった。
それが少女と正面から目が合った瞬間に、恭一郎の記憶と知識が、ライオンの姿を導き出した。少女のハチミツ色の瞳には、大型ネコ科動物の持つ丸い瞳孔があり、幼いながらも捕食者としての風格を宿していた。毛足の短い頭髪も見方によっては、若い雄ライオンの鬣のように見えなくもない。
「ただ、腰の小さな尻尾は別としても、背中に小さな翼があるみたいだから、正確なところは断言できない。あまりにも未熟な状態だったから、退化した名残のようなものかもしれないが……」
『翼がある亜人というと、鳥類、翼手類、昆虫類の三種が、真っ先に思い浮かびますが……』
「一応見た目は、鶏の手羽先に似ていた。恐らく鳥類だろう」
『それでは、あの子はライオンと鳥類の混血である可能性があると?』
「現状では、そうだろうな。詳しくは、本人から聞くのが一番確実なんだが。どうにも異世界の言葉には、頼りになる辞書すらない。父の蔵書の中にも、さすがに異世界言語の辞書は含まれていないからな」
『相互理解の道は、長く険しそうですね』
二人そろって、諦め半分の溜息を吐いた。
気を取り直し、本題の虎追撃戦の結果報告を行う。
『今回の戦闘結果を報告します。敵ボールドタイガーの駆除に成功。襲われていた亜人の少女を一名、救助しました』
機体のログを確認し、ミズキも虎の死亡を確信した。
『こちらの損耗は、非常に軽微でした。戦闘時間が非常に短く、一方的に攻撃ができたことが、主な要因となります。損耗は、牽制射撃に使用したガトリングガンの弾一二九発。プラズマミサイル二発のみとなります』
ガトリングガンの残弾数は、二八七一発。プラズマミサイルの残弾数は、一八発。まだまだ問題なく使えそうだ。
『機体を分解確認していますが、消耗は最低限で止まっています。次も今回の様に負担が少なくなるよう、機体を扱うことをお勧めします』
メンテナンスハンガーで五体バラバラにされているミッテの姿を確認して、恭一郎はミズキの意見に同意した。
こうして異世界生活四日目は、静かに更けていった。
◇◆◇◆
――異世界生活五日目。
セットしておいた目覚ましが、けたたましく音を立てていた。新しい朝である。
恭一郎は目覚ましを止めようと、寝ぼけた頭で手を伸ばす。伸ばした手の先には、温かくてしっとりでありながら、さらさらとした手触りの何かがあった。 高級な絨毯のような極上の触り心地に、手を無意識に動かして、そのモフモフした感触を堪能する。
はて、家に高級絨毯なんて、あっただろうか?
そんな益体もないことを考えながら、手に触れた柔らかい塊を軽く摘まんでみた。
「みゃうっ!」
思いがけず、色っぽい声がした。
三秒間停止した恭一郎は、急激に思考が巡りだした。寝ぼけた勢いで触れているのは……瞼を開けて、触れているモノの正体を確かめる。
果たしてそこにいたのは、頭を撫で回されたうえに耳まで摘ままれてしまい、恥ずかしそうに身悶えている獣耳亜人の少女だった。
あの色っぽいのは、少女の声で間違いない。恭一郎は朝からセクハラを働いてしまった。
「おはよう。よく眠れたか?」
何事もない体を装い、目覚ましを止めてから、父のベッドから抜け出す。それから、わざとらしく大きな伸びをする。
少女は顔を赤くしながら、恭一郎の顔を見上げている。その手には、空のマグカップが握られていた。何とも食い意地の張った、可愛らしい催促だ。
「それじゃあ、朝ご飯にしようか」
少女からマグカップを受け取り、もう一度その頭をモフモフ撫でてから、手を繋いで一階の食堂へ向かった。
ちらりと、少女の身体に視線を移す。昨日の段階で、数カ所の打撲痕があった。恭一郎であれば、動かすことに支障をきたしかねないダメージだったはずだ。それが一晩で、かなり回復していた。皮下組織の腫れも、痛々しく変色している範囲が縮小しているようだ。
そういえば昔、何かのテレビ番組で、ライオンはかなり頑丈な身体をしていると聞いたことがあった。もっとも、ラーテルという動物には敵わないそうだが。それに子供だから、怪我の回復が早いのかもしれない。
少女と連れ立って、廊下に出る。昨日、恭一郎が気になった二階の手洗いは、扉が閉じられていた。少女のために昨夜は敢えて、手洗いの明かりを付けっ放しにして扉を開けておいたのだ。きちんと明かりも消してあることから、自分一人でなんとかなったのだろう。この少女の学習能力は、なかなか高いようだ。
食堂に到着すると、台所の様子が窺える席に少女を座らせてから、朝食の準備に取り掛かる。朝食の献立は、フレンチトースト、レタスとトマトとキュウリのサラダ、インスタントのコーンスープの三点。献立の理由は、消費期限が近い生鮮食材の消費である。
食堂から少女の期待の籠った眼差しが向けられるなか、手早くフレンチトースト用のフレンチ液を作る。食パンを牛乳、卵、砂糖を混ぜたフレンチ液に漬けている間に、レタスを一口サイズに手で千切り、ヘタを取ったトマトを切って、一緒に小鉢に盛り付ける。キュウリを斜めに細かく輪切りにして、これも小鉢に盛り付ける。完成したサラダに胡麻ドレッシングを掛けてから、食堂に持って行く。
このままでは少女の口から、涎が滝のように流れ落ちかねない。そんな雰囲気だったため、サラダは前菜ということで、一足先に供してみた。
少女にフォークを渡すと、待ちきれないとばかりに、サラダを一口食べた。その後の反応は、推して知るべし。
台所に戻り、フレンチ液を十分に吸った食パンを、熱して薄くバターを引いたフライパンに乗せて焼き上げる。焼き過ぎると焦がしてしまうので、そこは注意が必要だ。
フレンチトーストが焼き上がり、食べやすいように九等分に細かくカットする。最後に粉末のコーンスープに電気ケトルで沸かしたお湯を注いで、朝食の完成である。
食堂に戻ると、口の周りをドレッシングで汚して、サラダを食べ終えようとしている少女の様子が見て取れた。フレンチトーストとコーンスープを与え、汚れている口の周りを布巾で優しく拭く。
昨日と同じように食事に夢中であった少女は、大人しくされるがままだった。ちょっと恥ずかしそうにしている様子から、行儀の悪さを自覚して大人しくなっているのかもしれない。
恭一郎も一緒に朝食を食べ始めると、少女も一緒にフレンチトーストを口に運んだ。この料理もとても気に入ったようで、フォークには常に、次に食べるフレンチトーストを刺して待機させている。
「誰も横取りはしないから、ゆっくりしっかり、噛んでから食べなさい」
「う? むぅ……」
恭一郎の指摘に、一瞬だけ何かを測りかねたような表情となった。やがて、ゆっくり食べている恭一郎の動きをまねて、自らもゆっくりと食事を再開した。
その様子に、恭一郎は微笑んで、静かに頷いたのだった。