1の1 −春風−
桃井 星花は、大学の食堂でうどんを啜っていた。スープの中に沈むうどんに意識を集中させ、視線は極力上げないようにしている。テーブルの下で、美帆が横から星花の足を小突いて助けを求めていたが、無視を決め込んでいた。
「えっと……緒方さんのご趣味は」
星花に助けを求めることを諦めた美帆が、普段の快活な性格からは想像できない消え入りそうな声で、見合いの決まり文句のような質問をした。星花は、口に運ぼうとしていたレンゲを取り落としそうになる。
「俺……ぼ、僕は、スポーツ全般が好きで、特にサッカーをよくしています」
「そうなんですか。サッカーですか。とてもいいですね」
美帆に負けず劣らず震える声で、美帆の前に座る緒方 剛が答えた。ぎこちない会話は途切れ途切れで、なんともいえない沈黙が流れる。
緒方の前に置かれたカレーはほとんど減っておらず、水の入ったグラスにばかり手をかけているのが、さっきからずっと気になっていた。手が震えているのか、グラスを持つ度にカタカタと音がし、いつか握りつぶしてしまうのではないかと心配だ。
くく、と押し殺し切れていない笑いが聞こえた。星花はちらりと正面に視線を向ける。スプーンを持ったまま顔を上げず、肩を震わす青年がいた。天然なのか、栗色の髪にはパーマがかかっており、柔らかそうだ。
彼の名前は、草薙 春琉といったか。さきほど、気まずい沈黙を埋めるために自己紹介をしあった時にそう名乗っていた。それから彼は顔を上げていないので、目の前にいるのにどんな顔だったのかはっきりとは思い出せない。
しかし、美帆と緒方を見ていると、春琉が顔を上げられないのも星花には分かる気がした。それほど二人はぎこちなく、見ているこっちのほうが恥ずかしくなるのだ。
向かい合う男女は、互いに面識がない。テーブルを囲む四人を包んでいる空気は異様だ。特に、美帆と緒方は、俯いてもじもじとしていて、ここがどこかを完全に忘れているようでもある。
先ほどからちらちらと好奇の視線が向けられていて、痛い。それすらも気付かないほどに、美帆と緒方は緊張しているのだろうか。
星花は小さく溜息を吐き、うどんを美味しくいただくことに専念することにした。
ファッションデザイナーを目指している星花は、R美術大学に進学することができ、浮かれていた。廊下に並べられた作品に感動し、有名なデザイナーの先生とすれ違った時には、挨拶を交わしただけでも嬉しかった。絶対に夢を叶えよう、と心意気も新たに授業に取り組んでいる。
大学での生活が始まって二か月が経った。大学の構造もようやく覚え、授業にも慣れてきた。友人も出来、生活に余裕がでてきたので、アルバイトでも始めようと考えていた頃だった。
風呂から上がった星花は、携帯電話に二件の着信があることに気付いた。一つは幼馴染の加賀見 誠治からで、留守電が残されていた。再生すると、また掛け直すとのことだった。
どうせ大した用事でもないんだろうな、と星花は思う。急用であれば、星花の家を訪ねてきた方が早いし確実だ。誠治の家は星花の家の前の道路を挟んで、真向かいにある。徒歩十秒圏内だ。
もう一件が、野々村 美帆だった。美帆は高等学校からの友人で、学科は違うが、星花と同じ大学に進んでいる。星花は服飾学科で、美帆は造形学科で油絵を専攻していた。
首にかけたタオルで髪を拭きながら、携帯を操作する。
「ごめん、お風呂入ってた」
「別にいいよ。それよりさ、なんでお昼は助けてくれなかったのよ。もうちょっと横から助け舟出してくれてもいいじゃない。何度も言うようだけどさ」
調子を取り戻している美帆は姦しく、食堂の隣の席でもじもじとしていた人と同一人物だとはとても思えない。りすのような小さな口を尖らせて、電話の向こうで伝わらない身振り手振りをしているのが目に浮かぶ。美帆は初めて会った時から変わらず、動作が大きいのだ。
しかし、責めるような言葉の割に、声は上機嫌だ。何かあったに違いない。
「わがままに付き合ってあげただけ感謝してよね。それより、なにがあったの? いい報告でもあるんでしょ」
「え、どうしてわかるの」
「声にそのまま出てるの」
呆れる星花に、何よそれ、と返事をしながらも、早く聞いてほしくて仕方ない様子だ。電話だって、何も昼のことを掘り返して星花を責めるために掛けてきたわけではないだろう。星花は黙って続きを待つ。
「実はさ、今ね、緒方さんとメールしてるの」
「アドレス知ってたんだ?」
「ううん。春琉君に後から教えてもらったんだ」
美帆と春琉は、専攻は違うが同じ学科で、友達同士だそうだ。緒方剛の事も、彼に紹介してもらったらしい。
美帆は惚れやすく、飽きやすい。愛らしい容姿のおかげで、告白成功率は今のところ百パーセント。付き合って、飽きて、振る。そしてまた新たに恋をする。その流れが、短いスパンでもう何度も繰り返されている。
今回は、何故美術大学を選んだのか不思議で仕方ないほど不器用な緒方が、風景とキャンバスを交互に見ながら、真剣に筆を動かしていたところに一目惚れしたそうだ。
それを聞いたのが確か三日前で、今日にはもうメールを交換しているぐらいだから、この友人の行動力にはいつも驚かされる。
しかし、星花にとっては「またか」となんとなく思うぐらいで、恋する友人を温かく見守る以上のことはできないのだった。
その時、壊れかけのインターフォンが、間の抜けた音で鳴った。延々と語られる緒方についての情報を半ば聞き流していた星花は、適当なところで口を挟んだ。
「緒方さんって、すごい人なのね。美帆が好きになったのもよくわかるわ。ところで、私と電話していたら、緒方さんのメール返せないんじゃない?」
少しの間があったのち、「あ、そうか」と衝撃を受けたかのような美帆の声が、電話の向こうから零れてきた。
「また、進展したら教えてね」
もう一押しすると、「うん。星花ごめんね、また話聞いて! じゃあ、また明日」と美帆は急かされたように電話を切った。
一息ついて、ツーツーと機械音を流し続ける携帯電話を見つめる。星花は時々、この友人の将来が心配になった。
携帯電話を閉じて、ポケットに押し込んだ。椅子にかけてあったパーカーを羽織り、玄関に向かう。
「遅い」
扉を開けるなり、短いが鋭い言葉が飛んできた。星花は何も見なかったことにして、扉をそのまま閉めたくなる。
鼻をすすりながら、背中を丸めてジーンズのポケットに両手を入れている青年は、星花の予想通り加賀見誠治だった。
溜息を吐く星花の横をすり抜けて、誠治はまるで自宅に帰った時のような躊躇いのなさで靴を脱いでリビングに向かった。テレビの向かいに置いてあるソファにどっかりと座ったのが、床の軋む音でわかった。
星花は再度溜息を吐きながら扉を閉めた。キッチンで、自分の分に紅茶を、誠治の分にコーヒーを淹れる。砂糖抜きのミルクたっぷり。それが誠治のお気に入りだ。紺色のマグカップは、昔、星花が誠治にあげたものだった。
誠治の前にカップを置きながら、彼が砂糖を必要としなくなったのは、いつからだっただろうか、と考えた。しかし、はっきりと記憶にない。星花が一人で暮らし始めた三年前には、まだ甘党だったような気がするのだが、それも定かではなかった。
いつの間にか誠治の顔から幼さは消え、体つきはしっかりし、すっかり大人になった。毎日のように顔を合わせていたことも全ては思い出になり、星花と誠治の距離は遠くなってしまった。
紅茶に口をつけながら、時の流れは早いものだ、と星花は思う。
「ここ、寒くないか?」
ソファの上で、誠治は体育座りをしながら体を丸めた誠治が、貧乏揺すりをしながら文句を言う。
「そんな薄いTシャツ一枚でいるからじゃない。まだ五月よ?」
何度洗濯機に回されたのか訊きたくなるような、くたびれた青いシャツを横目に言う。
「俺の家は暑いぐらいだったんだけどな……」
「だからあったかいコーヒー入れたでしょ。寒いのが嫌なら帰れば?」
突き放したような言い方も、喧嘩を売っているわけではない。昔からこうだったから、星花はついそう言い方になってしまうのだった。
昔はよく口喧嘩をするような相手だったから、反論がないと逆にむっとする。自分だけが大人になれていない焦燥感のようなものがもやもやと沸き上がってきて、誠治と話しているとなんだかやるせなくなるのだ。
一人になってしまった3LDKの一軒家は広すぎて、本当は誰かといた方があったかくていいに決まっている。
星花は、ぐい、と紅茶を飲み、「で、今日はどうしたの? こんな時間に」と、できるだけ抑揚なく問うた。
「ああ、そうそう」
誠治はげっそりとした顔で、腹をさすった。
「俺、腹減って死にそうなんだ。なんか作って」
きゅるきゅる、と切なくなるような音がリビングに響く。誠治は、くてりとソファに首を預けた。星花は呆れて首を振る。
冷蔵庫に残っていた食材を適当に放り込んで炒めただけの炒飯でも、ここまでがっついてくれると嬉しいものだ。
お皿に盛られた炒飯を、ほとんど一瞬といってもいい速度で食べ終えた誠治は、御満悦の表情で腹をさすっている。
「いやあ、母さんは二日前から旅行に行ってるし、親父もいねえしで、今俺一人なんだよ。なんか作る元気もなかったんだけど、さすがにこれ以上は死ぬと思って」
「コンビニかスーパーかで、出来合いのものでも買ってこればいいじゃない」
「なんか面倒でさ。星花の料理の方が美味いし」
「あっそ。褒めても何もでないからね」
こういう時にだけ飄々《ひょうひょう》と相手をおだてて利益を蒙るのは、誠治の常套手段だ。
「お父さん、帰ってこないの?」
「ああ。夜も遅くまでやってるみたいで、なんか忙しいみたい。帰ろうと思えば帰れるけど、何も用事がないのに帰るには、ちょっと遠いしな」
誠治の父親は歯科医で、本島を離れた小さな島で、診療所を営んでいる。誠治も父親の後を継ぐため、医科大学で必死に勉強をしているのだった。
「星花のとこは、親父さんたち帰ってこないのか?」
「そうね。お正月ぐらいは帰ってくるけど、それ以外ではなかなか。交通費もばかにならないし」
星花の父親は考古学者で、世界を転々としていた。時々ふらりと家に帰ってきては、奇妙なお土産を残して、また音信不通の地へ旅立っていくのだった。
だから、星花には父親と一緒に暮らした記憶がない。顔も、写真を見なければはっきりと思い出せないほどだ。
母親も放任主義で、星花と、星花の弟の月夜が小学校に入ったぐらいからは、昼間に家にいた例がなかった。星花たちが布団に入るほんの少し前に帰ってきて、ほんの二、三言を交わすだけだった。
星花たちは、昔でいう鍵っ子で、星花が家事全般を卒なくこなせるのは、幼少期のこの暮らしがあったせいだろう。
ただ、金銭面にだけは困ったことがなかった。両親に会えずとも、毎朝食卓の上には、一日を過ごすには充分なお金が置いてあった。
星花の目から見ても謎多き両親だが、星花は特に不満に思っていなかった。月夜と家事を分担すれば、慣れてしまえばどうということもない量だったし、不思議なことに、寂しいと感じたこともなかった。自由奔放な生活を愛するのは、桃井家の血なのかもしれない。
「連絡さえ寄こしてこないからね。私のことなんて、忘れてるのかもしれない」
星花は苦笑交じりにこぼす。
三年前、父親がノルウェーに居を構えたといった。星花は詳しく訊かなかったが、研究対象が一つに定まったらしい。それに伴い、家族は暫くノルウェーで暮らすという方針に決まった。
星花は日本に残りたいと希望したので、今ここにいる。母親と月夜は父親と一緒にノルウェーの自宅で住んでいるはずだ。
ただ、星花が一人で暮らすにあたって、一応母親としての自覚はあったのか、昔よく遊んでいたこの幼馴染に、星花のことを託したのだった。
律儀な誠治は、こうして時々様子を見にくる。しかしこれでは、星花の方が誠治の面倒を見ているようなものだ。
本当に、余計なことをしてくれたものだと、星花は今でも思う。
「星花ー」
ぼんやりとテレビを眺めながら、誠治が間延びした声で星花を呼んだ。大口を開けて長い欠伸をしたのち、潤んだ瞳で星花を見つめる。星花の言葉なんて、一つも聞いていなかったに違いない。
「今日、泊まっていってもいい?」
「コーヒー飲んで、さっさと帰って」