『地下室からの報告書』
『地下室からの報告書』
恐らく君は、一度深い眠りにつき、今再び眼を覚ますという過程のなかで、悲しい世界を感得した。永久の孤独、といった言葉を小説などでよく目にするが、私は今日までの自分が何一つ言葉の深遠を知らず、ただ表層に酔い、表層を味わい、表層に溺れていたことを知る。つまり、何を隠そう私は君が深い眠りから覚めたとたん、まさにそこに永久の孤独を感じていることを目の当たりにしているからだ。しかし、話はもういい、私は君によって与えられたこの地下室の世界から享受した世界の真理なるものを此処に報告しようと思う。すべてが反転した世界には、全ての価値観が反転しているだけであった。つまり、日本にいたあの詩人、萩原朔太郎が言うところの、坂を越えた向こう側の世界であった。
一、心細さゆえ、何から何を語り始めていいやら、検討もつかぬ。辻褄を合わせあうことの業に、美徳があるのなら、辻褄を破壊しあうことの先に、何物があろう。けれども、私は時間の連続性と言う問題が、地下室と地上の最も極限的に異なった問題だと感じる。言語、それは意識と同一である限り、一貫性を保たれ、無意識と同一である以上、刹那的である。小説と詩といった異なり、私は地下室でなんども地上を信じようとする。昔地上に居た頃、私は地下を信じて止まなかった。小説的世界は、幼児性と結びつき、詩的世界が、大人性であるならば、私は悪を信じざるを得なくなるだろう。なぜなら、詩とは真理を裏切ることだから。そして、小説を破壊することだから。さて、私は未だに心細い。なにやら、昔ロシアで書かれたあの『地下室の手記』すら、自意識の上に成り立つ世界に思われるからだ。だとすれば、私の描く報告書は、何やら無意識の上にあるようで怖い。描く、そう、私は報告とはいえ、未だにこの言葉の内実の不義に気づいているのだ。また描いているのだ。
二、言語の内実が、丁度蜃気楼見たく揺れる。無意識と意識の狭間で、私は倫理を保持し、倫理を裏切る。欲によって悪がなされ、私の倫理は裏切られるが、その結果に対し、私は倫理を見て、何やら安心するのである。ところで、私が幼い頃、人に裏切りを感じ、その結果自身の存在を正当化するためにとった行動は、模写であった。すべてを模写すれば、私はその対象に否定されぬことを無意識に感じていた。結果、私のこの二十年間は惨めなものであった。つまり、なんら精神が成長していなかったのだ。地上にはありとあらゆる美があったが、それは私に内在する美神が感じている美という観念に適合する象徴のみであり、私はその美を感じることで、内在する美に酔っていた。しかし、地下室から過去の自分を眺めると、どうやらその美は穢れのように見える。マクベスにおいてシェークスピアが言うところの、綺麗は汚い汚いは綺麗、が頭を循環する。そう、紛れもなく、私は汚れることによって、そこに美的演技が生ずること、そして、その層によって人が触れ合うことを知らなかったのだ。故、地上の私は醜悪な裸体によって人と関係し、層のない世界で赤子のままで生活していたのだといえる。つまり、小説世界が壊れ、徐々に汚れていったかに見える過程の先で、私は詩によってそこに継ぎ接ぎする中で、逆に私を構築する方法を知ったのだ。




