其の十
彼女は薄闇の中に身を起こした。
傍らにある目覚まし時計を手にとり見る。
6時30分を回ったところ。
いつもどおりに目が覚めたようだ。
夜が明けて間もない時間。
外はまだ灰色に閉ざされている。
彼女は身を起こすと、階下に降りた。
「おかあさん、いないの?」
食堂のテーブルには、彼女の朝食が用意されていた。
ひとの気配はない。
彼女の母親は、どこかに出かけたのだろうか。
テレビだけがつけられており、ひとの声を聞こえている。
彼女はテレビの音声を聞き流しながら、食事をはじめた。
『20世紀のはじめまで、ひとは光を伝達するエーテルという存在を仮定していたのですが。
今では、エーテルというものは意味を成さなくなっています。
けれども光は波ではなかったのでしょうか?
アインシュタインは、光は波であると同時に粒子であると定義しています。
これはとても奇妙なことです。
波は空間の中に偏在しますが、粒子は極所にしか存在しえません。
コペンハーゲン解釈に基づけば、波である光が粒子に変換される瞬間、それは観測した瞬間であるとされます』
彼女はぼんやりと、夢で見たことを思い出す。
奇妙な高揚感のある、けれど殺伐とした夢。
彼女はメイドふうの衣装に身を包んで、なぜか銃を撃っていた。
誰と戦っていたのか、なぜ戦っていたのかは、記憶が霞の中にあるように思い出すことができない。
『では観測される以前の状態は、粒子が何箇所かに潜在しており、観測されると同時に一箇所に収縮したというのでしょうか。
これが有名な、シュレディンガーの猫のパラドックスを生み出す概念です。
わたしたちが意識して世界を観た瞬間に、世界は一意の状態に決定される。
観測されるまで猫は生きているのと死んでいるのが重なり合った状態ですが、観測される、つまりわたしたちが意識し、思考の対象とした瞬間に生か死か一意に決定されるのです。
これはエヴァレットの多世界解釈で説明すると、重なり合った並行宇宙から、ひとつの宇宙が選択されるというべきなのでしょう』
彼女は、まだ夢の中にいているかのようだ。
現実感が希薄だ。
あたりは霧につつまれているように、ぼんやりとしている。
まだ彼女はどこかで、メイド服を着て戦っているのかもしれない。
それは多元宇宙の重なり合った状態。
そして目覚めれば、どこかのあたしか、ここにいるあたしが、どれかに意識は収縮する。
その突拍子もない考えに、彼女はくすりと笑う。
『さて、光に話をもどしましょう。
波の状態にある光はまだ実在しているとはいえません。
それは、場の性質として波動関数で現される、虚構の存在です。
私たちがものを見るときには、網膜で光を波から粒子に変換しています。
哲学者のベルクソンは、目とは光という問題の解であると語っていました。
目とは、ある意味では波動関数の収縮装置であるといえます。
そして、世界を実在にいたらしめる装置であるともいえます。
生物の進化が爆発的に進むのは先カンブリア代であると言われますが、そのときに起こったできごとが何かといいますと、目を持った生物の出現なのです。
生物が目を持たなかった時代は、まだ進化の流れは起きていなかった。
目を持った生物が出現したとたん、世界は始まりわたしたちのところへと至る流れへと収縮していくのです。
目を得たとき。
生物は夢から目覚めたのです』
彼女は食事を終えると席を立つ。
学校についた。
それほど早くついたはずではないのだが、教室には誰もいなかった。
いや、ひとりだけ先客がいる。
黒い制服を着た男の子だ。
彼女はその男の子に声をかける。
「亜川くん、おはよう」
亜川は、ゆっくりと彼女のほうを振り向く。
整った顔立ちであるが、特徴はなくどちらかといえば影が薄いほうである。
何も言わず、亜川はただ会釈を返した。
「ねえ、亜川くん。あたし、とてもへんな夢を見たの」
教室の中もみょうに薄暗かった。
天気が悪いのだろうか。
すべて靄がかかっているような。
左目の奥で何かが渦巻いているような気がする。
ここではないどこかの現実と、この教室のできごとが。
左目の奥で結びついているかのような。
彼女は少し困惑しながら、言葉を重ねる。
「あたしね。メイド服を着て銃を撃っているの。あたしはロボットに改造させられたのよ。可笑しいでしょ」
彼女はあははと笑ったが、亜川は無表情のまま彼女を見ている。
「それでさ、変な事にね」
世界は薄闇の中でマーブル上に溶けていっている気がした。
この教室の外は、色々なものが重なり合った廃墟のような場所になっていて、全てが混ざり合ってゆくような。
不思議な感覚。
「あたしが戦っている相手が亜川くんなの」
亜川はゆっくりと頷く。
「その夢はまだ終わっていない」
「え?」
意外な亜川の言葉に彼女は問い返す。
「夢はまだ続いている。どこかに収縮することを求めながら」
彼女は眩暈を感じ、膝をつく。
そう。
ここは、まだ夢の中。
百鬼はメイドロボットが立ち上がるのを見た。
自分に向かってゆっくりと歩いてくる。
百鬼は身を起こし、膝をつく。
手の中には錐刀がある。
一投で決めなければならない。
ふわりと重力を失ったようにメイドロボットが宙に舞う。
着地すると同時に、錐刀を投じた。
左目に突き刺さる。
メイドロボットの動きが止まった。
幾度か痙攣し、そして再び口を開く。
「亜川くん」
百鬼はなぜかその言葉に戦慄を覚える。
まるで、現実が溶解し流れさってゆくかのような恐怖。
「夢は終わるのかしら。これが夢なのかしら」
メイドロボットの手に、左目から抜いた錐刀がある。
メイドロボットは構えた。
避けなければと、百鬼は思うが。
メイドロボットの速度よりはやく逃れられるとは思わない。
「亜川くん、おはよう」
そう言ったとき、メイドロボットは唐突に停止した。
百鬼は溜息をつく。
なぜか生き延びることができた。
あと10秒動いていれば、間違いなく百鬼は死んでいた。
「活動限界です」
ヴォルグの声に、大佐は頷く。
「ニンジャボーイは10分生き延びたのか?」
「MD1から送られた最後の識別信号では、対象は生きていることになっています」
「悪運が強いな、ニンジャボーイ」
大佐は溜息をついた。