其の一
世界は紅い光の中に沈みつつあった。
廃墟のようなビルが並ぶ向こうに、真紅に燃え盛る夕日が沈みつつある。
彼は、この場所が好きだ。
駅周辺の再開発が進む中、西側のこの地区だけは色々な事情から取り残されていた。
しかし、ようやくこの西地区にも再開発が着手され、ビルの取り壊しが進みつつある。
古めかしいといっても、歴史的価値があるほどには古くなく、単に古びただけののビルの多くは居住者の移転が完了しており、廃屋となっていた。
そのビルも一つづつ取り壊しが行なわれてゆき、この地区は本当に廃墟のようなビルの屍が晒される場所となっている。
ここを少し南に下ると、大きな規模の風俗街と飲屋街が一体化した夜の繁華街があった。
陽が沈みきり、夜の中に街が沈みきると、そこから流れてくるひとびとでこの地区にもそれなりに人通りがある。
彼はその中で歌を歌う。
酔客の一部が時折立ち止まり、耳を傾ける。
彼はそうしたひとびと相手に歌うことで、満足していた。
金が無くなればバイトで稼ぎ、金ができればこの廃墟のような街の片隅で歌う。
そんな生活であった。
ギターひとつを抱え、華やかなネオンが輝く街から少し離れたこの場所で、枯れた声で歌い続ける。
そんな日々を過ごしていた。
彼のいる高架下の小さな広場は、かつてはホームレスのテントが並んでいるような場所だったが、ビルの取り壊し工事が進につれホームレスたちも移動してゆき、今でもここに残っているのは彼くらいのものだ。
血のように紅い夕日の輝きをあびて、彼はゆっくりとギターを取り出す。
まだ、酔客が流れてくるには早い時間だったが、彼は気にせず歌うことにする。
聞くものがいなければ、それでいいし。
聞くものがいるならそれでもいい。
そんな歌い手であった。
彼が、その男に気づいたのは空が半ば藍色の闇に沈みこんだころだ。
その男は、今時のサラリーマンにしては珍しくきちんとビジネススーツを着込んでおり、大きなキャスター付きのバッグを持っていた。
営業畑の人間にしては覇気がなく地味であったから、技術職なのかもしれないがそれにしても影が薄い。
まるで夕闇から這い出してきた、幽鬼のようでもある。
その男はゴルフクラブを入れる細長い革のケースを肩から下げ、リストラされたサラリーマンのように呆けた顔で歌をきいていた。
陽が沈みきり街灯が光始めたころ、彼は歌い終わる。
幽鬼のように影が薄いその男は、突然狼のように凶悪な笑みをもらした。
彼は少しぞっとして、口を歪める。
「いい歌だったな。あんたの作った曲なのか?」
その男の言葉に、彼は苦笑を浮かべた。
「カート・コバーンも知らねぇのかよ」
「知らないね」
「スメル・ライク・ティーンズ・スピリットだ」
「会ってみたいね。そのカート・コバーンに」
「無理だな」
彼の言葉に、男は少し眉を上げてみせる。
「なぜ?」
「あんたあ、地獄に堕ちるタイプにはみえねぇ」
「いや」
男は、ネクタイを外し、上着を脱ぎ去る。
そのまま、手際よくスムーズにビジネススーツを脱ぎ去った。
彼は、あきれてその様を見ていたが、男は今度は手際よく黒いコンバットスーツをバッグから取り出すと身につけた。
特に急いでいるように見えなかったが、着替えるのに数十秒しかかかっていない。
そして呆れたことに、男は革靴を脱ぎ捨てると変わりに地下足袋を履いた。
「まあ、おれは地獄に行くのは行くんだろうが」
男はそう呟くと、革ケースの中身を取り出す。
抜き身の刀が姿を現した。
彼は日本刀のことはよく知らなかったが、とても無骨な鉄の塊に見える日本刀だ。
「行くのは後、千人ほど斬ってからになるだろうな」
「あんたいったい」
男は切っ先を彼に向けた。
不思議と彼は、恐怖を感じない。
殺気がなかったせいだろうか。
「えらく、無骨な刀だね」
彼の言葉に男は苦笑する。
「判るのか。戦場刀だ。胴田貫という。それに白研ぎだからな」
「白研ぎ?」
「観賞用ではなく、人斬り用ということだ。よかったな、あんた」
男の少し獰猛な笑みに、彼は鼻白む。
「なんだよ」
「あんたを斬るつもりだったんだが」
彼は、目を見開く。
「冗談だろ、なんでだよ」
「刀を研ぎ上げたところなんでな。ひとり斬って刀身に血脂を馴染ませておいたほうが、斬りやすい。しかし」
「ふざけんな、てめぇ」
彼は足が震えた。男は、笑みを浮かべたままだ。
「その気が無くなった。いい歌だったからな。つまらない歌なら斬っていた。カート・コバーンに感謝することだ」
「馬鹿いえ。なんでそんなくだらねぇことで斬られないといけねぇんだよ」
「ペテルブルクではもっとくだらない理由でひとが死ぬ。それに、殺そうというんじゃない。手足を斬り落とすつもりだった。巧く斬るから綺麗につながるさ。それと、もうひとついいことを教えておいてやる」
「なんだよ」
男はもう彼のほうを見ていなかった。
バッグの中から銃を取り出す。
ライフルの銃身とショルダーストックを切り落としてコンパクトにした銃だ。
ただ、コンパクトにしたといっても、普通の拳銃の数倍の大きさはある。
「このまま、ここにいたら確実に死ぬよ、あんた」
彼はギターをケースに戻すと、それを担いで立ち去ることにした。
視界の端に、大きなドイツ車のリムジンが見える。
彼は、最後に一言だけ発した。
「あんたの名は?」
「百鬼だ。亜川百鬼」