みいちゃんと山田さんのアニメ化
みいやまの話、世間では賛否両論になってるけど、自分は普通に楽しく読んでる。というか自分の中であれは倫理的にアウトな内容をやるブラックジョーク系の作品という扱いで、障害者への想いとか向き合い方とか、そういう真面目な軸で読んでいない。ヤニねことかウシジマくんとかと同じ次元で読んでいる。
アニメ化については心底どうでもいい。なってもならなくても特に。読んでて面白いとは思うけど、動いてるところが見たくてたまらんというほどハマってはいないので。
で、外野として賛否の応酬を眺めてて引っかかってることがある。
反対する理由自体は分かるんだよ。内容が内容だし。「みいちゃん」って呼び方が現実でレッテルとして使われ始めてる、っていうのが怖いというのも、まあそりゃ怖いだろうなと思う。身内が似たようなことで笑われる場面を想像したら平静でいられない、というのも分かる。ここまでは全然おかしくない。反対も意見表明なんだから、やればいいと思う。
分からないのは、「でも表現の自由に反対してるわけじゃない」となる理屈だ。
気に食わないもの、問題がありそうなものを抑止するよう動くのは俺からしたら普通に表現の自由に反しているようにしか見えない。
反対の理由をさんざん語って、不安を正当化して、作り手に態度を改めろと言って、最後に「ただし表現の自由には反対しない」と付けるのはどうなのかなと。
別に反対派に黙れと言いたいわけじゃない。むしろ逆で、言うなら言えばいいと思ってる。この作品は倫理的にまずいから世に出すべきじゃない、って正面から書けばいい。それは表現の自由への反対だけど、そう名乗ったからって悪人になるわけでもないだろう。表現より優先されるものがあると考える立場なんて普通にあるんだから、堂々と掲げてくれたほうが議論になる。
言えばいいし、叫べばいいじゃないか。
「私は表現の自由に反対します。みいちゃんと山田さんは世に出すべきではない、アニメ化なんて言語道断だ!」
と。
そこまで腹をくくらずに半端に批判しているから、どうにも薄っぺらくというか、偽善的に聞こえるんだよな。
みいやまを嫌っている人のポストで一番納得できたのはこんなかんじだった。
『みいちゃんと山田さんのアニメ化には反対しない。でも嫌いだから観ない』
みたいなかんじのやつ。
これなら筋が通ってるし納得できる。




