#2 悪夢
「サチ」
うーん、もう少し……。少女の切なる願いも虚しく、体を揺すられてサチは微睡みの中から現実に引っぱりだされた。
「サチ、起きてください」
「んにゃーぁ?」
布団の上からサチの体を揺すっていたのはムツミであった。
サチは寝ぼけた目をこすり、上半身を起こす。
「外の様子が変です」
「外ぉ?」
ムツミは寝室の扉を指さしている。視界のはっきりしてきたサチが目にしたのは、寝室の扉の隙間から、キラキラと黄金色の光が漏れだす様だった。
「え、何あれ」
振り返れば、窓の外には月が出ている。今の時間は深夜である。
だが、扉の隙間から漏れ出る陽光は、明らかに早朝のそれである。未熟な魔奏の暴走で不可思議なことが起きることもよくあるロアノールの学舎でも、ここまで異常な事態をサチは見たことがない。
「分かりません。私1人で調べてみようかと思ったのですが、何者かによる攻撃であるならば、二人で行動したほうがいいかと思いまして」
「待って。準備する」
サチはパジャマの上からベルトを回し、『剣の舞』の鞘を差した。靴下、ついで学院のローファーを履けば簡易的な戦闘準備は完了である。サチが扉のすぐ横に体をぴたりとつけて刀を抜くと、反対側には左腕を魔導プラズマキャノンに変形させたムツミがスタンバイした。
サチが目配せで合図すると、ムツミは右手で寝室の扉のノブを開け、武器を構えて外へ飛び出す。
それに続いてサチもするりとドアの横をすり抜けて飛び出した。
「えっ……?」
「これは……」
寝室の外、ユリ棟の廊下には奇妙な光景が広がっていた。
深夜であるはずの窓の外からは眩しい朝日が差し込み、廊下は森の中の小道であるかのように左右の壁に沿って木々が立ち並んでいる。ピィピィと小鳥がさえずり、二人の足元をリスがちょこちょこ走り抜けていった。
喫緊の危険はなさそうである。サチは抜いていた刀を鞘に収めた。
「サチ、気をつけてください。これは現実ではありません」
「うん、それはなんとなく分かるけど」
理由は分からないが、サチはその森の小道に既視感を覚えた。
明るい日差し、ほのかな草花の香り。確かに覚えがある――――サチが記憶の奥底に仕舞っていたものが、忘れるべきではなかったものが噴き出してきているかのよう。
しばらく廊下を進むと、今度は小川が流れていた。ムツミはさらさら流れるその川の水にプラズマキャノンから変形させて戻した手を浸した。
「私のセンサーはこれらの光景がすべて幻覚であると告げています。しかし、こうも広大に展開された幻覚魔法には前例がありません」
「瓜花ちゃんがいたら、何か知恵を貸してくれたかな」
「しかも、特定の個人ではなくサチと私に同時に同じ幻覚を見せるとは……一体どのような魔法なのでしょうか」
―――けーっけっけっけッ!
突然響く笑い声。サチとムツミはその笑い声がする方へ振り向く。
「教えてやってもいいぜェ?」
「ワッ!」
驚いてサチはムツミの後ろに隠れた。
空中に仮面が浮いている。右半分は口角を不気味なほど釣り上げた狂気の笑顔、左半分は口角を下げて目からは涙をこぼす悲痛の泣き顔。中心線で分かれて二つの表情を象った、ピエロ風のマスクである。
「ここはオマエさんの夢の中さァ、サチ・ホシノ」
「わたしの……夢?」
「そうさァ。オレ様の魔奏器『Totentanz』の能力で、オマエさんの夢をみんなで見られるように拡張してやったのさァ」
「善意……ではありませんね、何が目的です?」冷静に問いただすムツミ。
「目的ィ? それはすぐにわかるぜェ。けーっけっけっけッ!」
ピエロマスクが正中線で左右に割れ、横に開いた大きな口が現れる。
「よォこそォッ! めくるめくゥ悪夢の世界へェ!」
ヒャヒャヒャと高笑いするピエロマスク。その怪物的な恐怖に青ざめて震えたサチの前でも、ムツミは至って冷静だ。腕を変形させ、魔導プラズマキャノンでマスクを打ち抜いて消滅させる。
「何、今の……」
「何者かが、魔奏を使ってサチを襲おうと考えているようですね」
「わたしを?」
「はい。『Totentanz』とはドイツ語で『死の舞踏』を意味します。貧富も老若も関係なく、いずれみな無へと帰る。死を前にした人々の狂気や無常を描いた芸術作品の1ジャンルを指す言葉です」
「『死の舞踏』……」
呆然としたサチはムツミの言う言葉を繰り返すばかりであった。
腰が抜け、わなわな震える足でサチはその場にへたり込む。頭を抱え、幻覚の土が広がる廊下に座り込んでしまった。
「死、死ぬ、死ぬ……」
「お気を確かに、サチ。これは幻覚です」
「そう、そうだ。思い出したよムツミ! ここ、この森がどこなのかっ」
ここはサチの夢の中。謎の襲撃者はサチに悪夢を見せるつもりであること、そしてその魔奏器の名が『死の舞踏』を意味しているのならば。ここに描かれた風景は、サチにとって最も強く『死』を想起させる記憶の再現である。
「昔、家族で来た場所だ……そこでみんな、みんな死んだんだ」
サチに家族はいない。サチの家族はみな『魔女の臓物』に殺された。
忘れもしないあの日――――サチが両親とともに、妹の退院祝いに彼女の希望である「一面のお花畑」をプレゼントしようと、ハイキングに出かけた日のことであった。
今この場に描かれている森の小道は、そのサチの家族が『臓物』に惨殺された現場へと続く道なのだ。
―――おねえちゃん。
背後から聞こえた、幼い少女の声にサチは地面にへたり込んだまま振り向いた。
白いワンピースにつばの大きな麦わら帽子を被った、10歳にも満たないような幼い少女がサチを手招いている。
「おねえちゃん、おいてっちゃうよ」
にひひと笑う少女の明るい笑顔が、麦わら帽の下から覗く。
「めぐっ!」
サチは妹の名を呼んだ。
「めぐ、そっちに行っちゃダメ!」
「おねえちゃん、きょうそうしようよ! お花畑までーっ」
きゃはは、と笑いながらめぐ――――星野巡璃の幻影が廊下を駆けていく。
「走ったら危ないわよ、巡璃」
「……お母さんっ」傍らに突然現れた女性を見上げ、サチは叫ぶ。「だ、だめ……そっちへ行ったら……!」
「そうだぞ。また怪我でもしたらどうするんだ」
「お父さんっ」
地面にへたり込むサチを無視して、サチの両親と妹の幻影が小道を歩いていく。
サチの側で肩に手を乗せるムツミが、周囲の光景が寮の廊下から森の中へとどんどんと変化していくのを見て目を細めた。サチが悪夢の世界に没入すればするほど、周囲の光景は現実から乖離し『夢』を忠実に再現していくのだ。
「サチ、気を確かに持ってください。これは夢、現実ではありません」
「分かってる、分かってるよムツミ。だい、じょぶっ!」
これは現実ではない。これはサチの記憶が作り出した幻覚に過ぎない。目を瞑り、サチは強く自分に言い聞かせる。
だが目を開くと、サチとムツミがいたはずの廊下は完全に外の風景に変化していた。
吹く風の冷たく、爽やかな香り。幻覚にしては、あまりにも出来すぎている。




