心の折れる音
「目の前の仕事にぶつかりに行く毎日、いつしかそれは自分を助ける」
そんな耳触りの良い言葉を言われても、この仕事への意欲は上がらない。
毎日同じ時間に起きて、同じ時間に寝るこのサイクルの中で唯一の甘味は、華金の散歩だった。吐息が目に映るこの時期の散歩は、どことない寂しさと街の明かりが心地よい。
歩いていると、見たことのある顔立ちの女性が前から近づいてきて、肩がぶつかりそうになる。
「前見て歩けよバーカ」と心の中で叫んだ声が聞こえたかのようなタイミングで、その女性に声をかけられた。
「すみません、落としましたよ」
どうやら俺は、ポケットに入れたままの定期を、避けた際に落としてしまったようだ。
「ありがとうございます」
心に薄くかかった靄を払うように、感謝の言葉が漏れた。
「え、ケイ君?」
「やっぱりユイさんか、見たことある顔だと思ったんだよね」
さっきまでの気持ちは急に晴れ、大学の頃を思い出す。
大学2年生の後期の授業で初めて話した女の子がユイさんだ。何度か会ううちに、誰もに平等に優しく振りまかれる笑顔は、心の癒しとなっていた。
だが、話す機会はこの授業しかないため、これ以上仲良くなるには自分から話しかけなければならない。それは少し面倒くさい。
そんな気持ちを持ったまま大学を卒業し、一般企業に勤め、気づいたら2年が過ぎていた。何度か恋愛はしてきたが、しっくりくる相手がいないため、付き合うたびに1年足らずで別れている。
しかし、ユイさんとは付き合ったこともないのに、上手くいく気がする。
そんな謎の自信を持ったことは、誰もが1度はあるだろう。
「ケイ君なんでこんなところにいるの?スーツってことは仕事終わりかな」
「そうそう、華金だから散歩してるんだよね」
「いいじゃん、少し話そう!」
ブラウンのダウンジャケットを着ているユイさんは、もこもこして暖かそうだが、
私服のような感じなので、職業が気になる。
「ユイさんめっちゃ私服っぽいけど、仕事は何をしてるの?」
「高校生のころからバイトしていたカフェの正社員になったよ」
「そうなんだ!てことはカフェ歴7年目くらい?」
「そうだよ、重鎮になっちゃってそのまま社員登用してもらったかな」
大卒なのにもったいないなという思いは押し殺し、会話を続ける。
「すごいね。あんまりそこまで長く続ける人いないんじゃない?」
「まあね!楽しいからこのまま続けたいと思ったんだけど、正社員はやっぱり違うね」
「だろうね、責任も売り上げもまとわりついてくるもんね、大変だ」
「ケイ君は?なんのお仕事やってるの?」
「営業だよ、今日も先輩にあほ臭いこと言われてイライラした」
「お互い大変だね」
そう言ってほほ笑んだ彼女の笑顔が、冬の寒気を暖気に変える。
「あ、またどっかでね!彼氏が待ってるの忘れてた!」
「そっか、またどこかでね」
「また会おうね!」
去っていった彼女の背中を追えなかった。そんな自分に嫌気がさした。
帰り道のスーパーで、晩御飯の食材を買った。
鶏むね肉、卵、ホウレンソウ。それら炒めて、白米のおかずにするつもりだ。
スーパーから出てすぐ、段差を無くすための鉄板で足を滑らせる。
グチャ
卵が潰れた音がした。




