双子の腸重積
午前二時十三分。
救急外来の自動ドアが、ぬるりと音もなく開いた。
蛍光灯に照らされた母親は、白く濁った顔で赤ん坊を抱きしめていた。片方の靴が踵を踏み潰したままだ。頬に貼りついた髪が汗ばんで光る。
「また、なんです……」
赤ん坊は顔を真っ赤にして泣いていた。けれど声は弱々しい。ミルクでもこぼしたかのような赤い液体が、口元を染めている。
「昨日と同じで……変な泣き方で……赤いの、吐いて……」
氷川颯真は、電子カルテを開いたまま視線を上げた。
「……昨日?」
「はい。昨日の夜にも来ました。ここに。診てもらいました」
「うちの病院に、ですね?」
母親は首を縦に振る。だが氷川のカルテには、赤ん坊の名前が一件もヒットしなかった。
妙だ、と氷川は思った。
腸重積──6ヶ月から2歳の乳児に多い緊急疾患。腸の一部が別の腸にめり込むように入り込み、激しい腹痛、嘔吐、血便を起こす。放置すれば、腸壊死すら招く。
症状はそれらしく見えた。
しかし、来た形跡がないのはおかしい。
「お子さんの保険証、ありますか?」
「……忘れました。でも、前回と同じなので」
それが通用するのは、同じ病院に同じ子が来た場合だけだ。
氷川は口を噤みながら、赤ん坊の腹部に手を添えた。やや膨満がある。触診でわずかに抵抗を感じたが、所見としては曖昧だった。
「とりあえず、エコーを撮ります」
十分後、検査室。
予想通り、所見はなかった。
腹部超音波に映るべき“ドーナツ状”のターゲットサインは、どこにも見当たらない。泣いてはいるが、発作的な疝痛とも違う。
氷川は黙ってモニターを見つめる。傍らの若手看護師が囁いた。
「昨日って、私たちのシフトにはこの名前なかったですよね……」
「ないな」
「お母さん、間違えたのかな」
「……間違えてたら、これで三回目だ」
翌週、再び同じ母親が赤ん坊を抱えて現れた。
前回と同じ症状。
しかし、今回は「別の子ども」として記録がなされていた。
名前が微妙に違う。
保険証もない。
泣き方は同じ。症状も同じ。けれど、今回の赤ん坊には耳の形に違和感があった。
「ちょっと失礼。……こっちの耳、前回より大きいな」
看護師が怪訝な顔をする。
「先生、赤ちゃんの耳ってそんなに変わります?」
「変わらん。人が変わったなら別だがな」
二時間後。処置室。
赤ん坊の状態は自然軽快した。
だが氷川は、それよりも気になっていたことがある。
──この母親には、双子の子どもがいるのではないか?
カルテには一人分の記録しかない。住民票も一人。
けれど赤ん坊の血液検査を2件照合したとき、血中のビリルビン値が異なることに気づいた。
「これ、同一人物の変化としては説明がつかない。……違う赤ん坊だ」
氷川は、小児科医の協力を得て児童相談所に連絡。
実はこの母親は、出産後に1人だけ出生届を出し、もう1人の存在を隠していた。
理由は「生活が苦しいから」。
そして、交互に赤ん坊を病院に連れてくることで、医療助成や緊急受診時の処方薬、交通費などの補助を二重に受け取っていた。
母親は泣き崩れた。
「だって、どうせ誰も見てくれない。うちの子なんて、見てくれない……」
「それで病気を作り出したのか」
氷川の声は静かだった。
「いいか。腸重積は、赤ん坊が泣くから気づく病気じゃない。泣いていても無視される赤ん坊を救うための医学だ。お前が演技でそれを再現したところで、医療は騙されない」
エピローグ
双子は保護された。
母親は精神鑑定を受けたのち、代理ミュンヒハウゼン症候群と診断された。
氷川は報告書を書きながら、ふと赤ん坊の顔を思い出す。
泣き止んだとき、双子のうちどちらかが小さく笑った気がした。
「腸が重なっていたのは、母親のほうだったのかもしれない。
――育児と孤独、嘘と愛情。なにかを、必死で繋げようとしていた」
現代日本では、児童手当や医療費助成が命を救う一方で、時に制度が“歪んだ動機”を誘発することもある。