風呂に入ると殺される男
名古屋総合医療センターの夜勤は、いつも静かで冷たかった。
看護師たちがささやく声が、白い壁をかすかに震わせる。
「篠原さん、今日もまた風呂に入らなかったわ」
「なんであんなに怖がるのかしらね……」
「風呂に入ると殺されるって、あれ本気らしいのよ」
噂は病棟中に広がり、患者たちの視線が篠原を追う。
篠原喜一は、69歳の老人。無表情で落ち着いているが、どこか影を背負っている。
彼は誰にも心を開かず、ただ繰り返す。
「風呂に入ると殺される」
その言葉には重さがあり、聞く者の胸をざわつかせた。
研修医の氷川颯真は、彼の病室のドアを静かにノックした。
返事はなかった。
「篠原さん?」声をかけると、ベッドの隅に小さく丸まった男が顔をあげた。
目は虚ろで、長い間、誰とも話していないことがわかる。
「……風呂に入るのが怖いんだ」
その言葉に氷川は立ち尽くした。
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篠原は小さく息を吐き、昔話を始める。
「半年前、老人ホームで風呂に入った時、突然意識が遠のいた。
あれは……死にかけたんだ」
目の奥に沈んだ痛みが宿る。
「誰も、あれが事故じゃないなんて信じてくれなかった」
彼は誰にも言えなかった。
風呂が恐怖の場所となり、入るたびに死を覚悟しなければならなかった。
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病棟では刺青の噂が絶えなかった。
「ヤバい過去があるに違いない」
その噂に、篠原は身を縮めた。
自分の体に刺青はなかったが、誰にも見せたくない痣や傷があるのを隠したかった。
「みんなは……俺を悪者にしたがる」
孤独と誤解に、心は蝕まれていく。
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カルテに目を落とす氷川。
「降圧薬、入浴時の失神、そして繰り返される恐怖」
医学的に説明できる可能性が高いと感じた。
「薬の副作用で血圧が急降下し、意識を失う。
篠原さんの恐怖は現実に根差している」
氷川はゆっくりと薬の調整を提案した。
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薬を変えることに躊躇する篠原。
「これで、また風呂に入らなければならない」
体が拒絶反応を起こす。
「でも、逃げてはいけないんだ。死にたくない」
彼は苦しみながらも、氷川に小さな信頼を寄せる。
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調整後、篠原は震える手で風呂の蛇口をひねった。
湯気が立ち上る中で、彼の心は波打つ。
恐怖と希望が交錯する。
身体はふらついたが、意識は失わなかった。
「生きている」
その感覚に涙がこぼれた。
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看護師たちも、誤解を解き、篠原を温かく見守った。
氷川はコーヒーを啜りながら、つぶやいた。
「入浴は浄化だ。身体だけでなく、心も洗い流す」
篠原の心の傷はまだ完全には癒えていないが、確かな一歩を踏み出したのだ。