誰がワシのオムツを履いたのか
名古屋総合医療センター・東病棟。午前三時過ぎのナースステーションに、突然ナースコールが鳴り響いた。
「オムツが違うんじゃ! ワシのオムツじゃない!」
そう叫んだのは、認知症病棟に入院中の安藤善三(八三歳)だった。
看護師の西村が慌てて駆けつけると、安藤はベッドの上で仁王立ちになって怒鳴っていた。
「この素材感……この伸び……これは“やわ肌極吸プレミアム”じゃない。
ワシは“超通気ロイヤルケア”しか履かんのじゃ。間違っとる!」
看護師たちは困惑した。オムツの銘柄を判別できる高齢者は珍しい。しかし、彼の異常な執着に、病棟スタッフはひそかに「オムツソムリエ」と呼んでいた。
結局その場は「認知の混乱による言動」という扱いで処理され、誰もがその夜の騒動を忘れかけていた――翌朝までは。
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翌朝、再びナースステーションがざわついた。
「安藤さんの股間が……まっ赤にただれてるんです!」
診察に呼ばれた研修医・氷川颯真は、安藤の臀部の状態を見て、すぐに首をひねった。
「違う。これは普通のオムツかぶれじゃない。
接触性皮膚炎、それも金属系のアレルギー反応だ。何か異物があったな、オムツに」
驚いた看護師がオムツ保管棚を確認すると、安藤用のストックからだけ、微細な黒い粉が検出された。繊維の奥に入り込んだそれは、わずかに鉄の匂いがする。
「ふむ……黒い粉末。酸化鉄。静電気吸着性……これは、ハゲ隠しだな」
氷川が見つけたのは、増毛用の黒ふりかけスプレーの成分。
一部製品には微細な鉄粉が使用されており、長時間皮膚に接触すればアレルギー反応を引き起こすことがある。
しかも高齢者のデリケートな皮膚では、なおさら危険だ。
犯人はすぐに判明した。隣のベッドに入院していた元高校教師・宮川廣造(みやがわ こうぞう・81歳)。
病棟の監視カメラには、夜中に安藤のロッカーを探る姿がしっかりと記録されていた。
ベッド下の引き出しからは、使いかけの黒いふりかけスプレー。
事情を聞かれても、宮川はしばらく黙っていたが、氷川の一言でついに口を開いた。
「……あいつが言ったんだ。“ウニ頭”って。
ワシはな……いじられたくて生きとるんじゃない。
ただでさえ看護師に若ハゲ扱いされて……安藤にまで笑われたくなかったんや……」
動機は、くだらない。
だが、くだらなさの中には、たしかに老人たちの誇りと孤独があった。
安藤善三の「オムツ銘柄マウント」、宮川廣造の「静かな仕返し」。
全てが、たった一本のオムツの上で起きた仁義なき戦いだった。
事件後、宮川はしおらしくこう頼んだという。
「ワシのオムツ……もう“プレミアム”じゃなくていい。普通のでええよ……」
氷川はカルテに淡々と記録を残したあと、ひとりつぶやいた。
「くだらないな。だが、くだらない争いの中にしか、
彼らが今を生きる理由はもう、なかったのかもしれないな」