死後に出された処方箋
当直室の空調は壊れていた。朝の5時、氷川颯真は仮眠用のベッドから起き上がり、Tシャツ一枚のままパソコン端末の電源を入れる。救急外来はようやく落ち着いたが、カルテ入力とオーダー確認が残っている。
画面が立ち上がるのを待ちながら、彼は無意識に伸びをした。背中がバキ、と鳴った。
モニターに表示された「処方一覧」のログに、彼は違和感を覚える。
発行時刻:04:03
担当医師:氷川颯真
患者:渡部信一(70)
処方内容:アリピプラゾール錠6mg、トリアゾラム錠0.25mg、ハロペリドール注5mg、ラクツロースシロップ、アセトアミノフェン坐剤
──渡部信一。
彼はすでに、昨夜23時28分に死亡が確認されている。死亡確認をしたのは氷川自身だ。誤認の可能性はゼロ。心停止、瞳孔散大、蘇生不応の確定。
「……くだらない冗談だな」
氷川は端末に近づき、ログを詳細表示に切り替える。発行時刻の直前、ナースステーションの共有PCから氷川のIDでログインされた履歴がある。自分はその時間、救急の処置室で骨折患者を対応中だった。アリバイも完璧にある。
誰かが、彼のIDを使って、死者に処方箋を出したのだ。
ナースステーションで話を聞くと、当直の看護師・三井遥がその時間にカルテ確認をしていたことがわかる。彼女は端末の操作に慣れており、氷川にとっても顔なじみの一人だった。
「申し訳ありません。入力していたとき、ログイン状態だったのに気づかなくて……」
三井の表情は沈痛だが、どこか怯えも混じっていた。氷川は彼女の目を見据える。
「わざとじゃないなら、問題はない。ただ、この組み合わせが問題だ」
処方された薬の並び──統合失調症薬、強力な鎮静注射、睡眠薬、下剤、坐薬。明らかに重複・矛盾がある。
三井は一瞬、言葉に詰まった。
「……先生なら、気づいてくださると思ってました」
「……は?」
「助けたい子がいるんです。けど、正規のルートじゃもうどうにもならなくて」
氷川はそのとき確信する。これは偶然のミスではない。意図された処方箋だ。
処方された5種類の薬を、氷川はひとつひとつ精査した。全て、精神疾患患者に用いられる薬剤。しかも、同じ病棟で入院中の19歳の患者・安田美空にぴったり当てはまる。
診療記録を見返すと、明らかに過剰な拘束、夜間のハロペリドール投与が確認される。
氷川は美空の病室を訪れた。両手はベッド柵に固定され、目は虚ろ。頬にはうっすらと紫の痣がある。
「誰がこれを処方した?」
主治医の記録は曖昧だった。看護記録との齟齬も多く、「事故」として処理された自傷も、記録には「看護師の制止が間に合わず」とだけある。
氷川は処方された薬のYJコードに注目する。各薬の末尾4桁を並べると、「1023」「2023」「1033」などの連番になる。
「……これは美空のIDじゃない。いや、違う。これだけの情報があって、まだ何かを隠してるとすれば――」
彼は処方箋をもう一度並べ直す。容量・剤形の組み合わせ、剤形記号(F=錠剤、A=注射、Q=シロップ)など。
並び替えた瞬間、浮かび上がったのは、別の病室の患者ID。
ID:10-23(10階23号室)
入院日:2023年10月23日
患者:渡辺啓一(76)・終末期がん患者
その患者に出された処置記録を確認すると、処方されていないはずの鎮静薬が、夜間に**“看護師判断”**で投与されていた記録が複数見つかる。
三井は、美空の虐待を隠れ蓑にして、本当に口封じしたい事実から氷川の目を逸らさせていたのだ。
三井遥は黙秘を貫いた。美空への投薬も、渡辺への夜間鎮静も、すべて「患者のため」と語る。
病棟の控室。氷川颯真は、一人きりの机に処方箋のコピーを広げ、メモを取っていた。
処方箋には、あり得ない組み合わせの薬が並んでいた──
•クエチアピン25mg錠
•ロラゼパム1mg錠
•酸化マグネシウム330mg錠
•トリアゾラム0.125mg錠
「精神安定剤に睡眠薬に、下剤……一見、虐待されていた美空の処方に見せかけた処方だ」
氷川は、それぞれのYJコード、つまり医薬品コードをリスト化していた。
1179034F1026(クエチアピン)
1190016F1156(ロラゼパム)
2356002F1025(酸化マグネシウム)
1124005F1034(トリアゾラム)
「そしてこの番号……患者IDと照らし合わせると、美空ではない。まったく別の患者だ」
氷川は電子カルテを開き、該当するIDを入力する。
ヒットしたのは、渡辺啓一(74歳、進行性胃がん)。
「……この人、すでに死亡記録がある。死亡診断書には“多臓器不全”。だが、夜間に鎮静剤を追加された記録が、非公式に残ってる」
氷川の口調が、淡々と鋭くなる。
「処方箋は二重構造の暗号だった。表では“美空を救ってほしい”と見せかけておいて、実際には“渡辺啓一の死に介入があった”ことを俺に伝えるコードだった」
机に並べられた薬のコード。そこに刻まれた数字の並びは、患者IDの並べ替え・一部置換になっていた。
「これが本当の暗号だ。処方箋という“医学的に正当な紙”の中に、罪が隠されていた」
控室の窓辺で、氷川は誰にともなくつぶやく。
「くだらない。まるで神の処方でも気取ってるつもりか。
医者は神じゃない。死神にもなれない。
ただ、“死を計画できる”と思った瞬間に、医療は腐る。
……患者を救いたい気持ちも、誰かを安楽にしたい気持ちも、わかる。
だが、その選別は医学の名を騙るエゴだ」