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氷川颯真・特別短編 『空気が入ったかもしれない件』


午前3時27分。

救急搬送されてきた70代の男性患者に、点滴ルートを確保しながら、氷川颯真は一瞬だけ意識がぼんやりした。


カチリ。

静脈ラインに点滴を接続する音。

次の瞬間――異物の存在に気づいた。


 


「……あっ」


 


自分でも驚くほど高く、短い声が口から漏れた。


しまった。

ルート先端に空気が残っていた。


数cc。微量。

それでも、空気塞栓のリスクはゼロではない。


 


「先生、今……?」


となりにいた看護師が不審な顔を向ける。

患者も薄く目を開けて、こちらを見ていた。


 


氷川は一瞬、息を止めたまま、静かに言った。


「問題ない。流量も、接続も、予定通りだ」

「少し、確認に手間取っただけだ」


口調は冷静だった。

だが、右手はうっすらと汗ばみ、心拍がわずかに上がっていることを自覚していた。


(……大丈夫。バックプレッシャーで空気は抜けたはずだ。念のため、もう一度フラッシュしてある)


氷川は記録に“異常なし”と記した。

けれど、その文字だけが――やけに歪んで見えた。


 



朝五時。

氷川はナースステーションの椅子にもたれて、カルテをめくっていた。


患者・川口登志男(73)は、心不全と腎機能低下を併発した状態で救急搬送されてきた。

入院後、意識は不明瞭ながら安定しており、呼吸補助の必要もないと判断された。


(空気は……入っていないはずだ。間違いなく。

万一微量が入ったとしても、数cc以下なら心臓に届く前に吸収される)


自分に言い聞かせるように、氷川は推論を反芻していた。

だが、**「あっ」**という短い声だけが、脳内で何度も繰り返される。


 


そして――その数十分後。


患者・川口登志男のバイタルアラームが鳴った。


 


SpO₂低下、心拍減少、モニターの波形がぐにゃりと歪む。

ナースが駆け込み、氷川も飛び起きた。


「ブレイディ! モニター出して! すぐ胸骨圧迫!」


循環器内科の医師が呼ばれ、ICUへの転送が始まる。

だが、氷川の視界は狭くなっていた。

自分の声で始まった夜が、自分の手で患者を死なせた夜になるのではないか――その思いに、手が震える。


 




患者の急変後、医局の空気は変わっていた。


「……氷川先生、点滴、入れたのって……先生ですよね?」


「あれって、空気、ちょっと入ったらヤバいんですよね?」


「俺、聞いちゃったんだよ。“あっ”って……先生の声」


 


誰も、はっきりと責めはしない。

だが、誰も、はっきりと信用もしない。


氷川は自分の記録を、何度も見返す。

点滴ルートは正常。異常所見なし。

けれど、目を閉じるたびに見えるのは、あの接続の瞬間――。


 


(だが本当に俺のせいなら、もっと早く容態が崩れるはずだ。数時間のラグは説明できない)


(そして……ひとつだけ、引っかかる)


 


氷川は、患者の点滴バッグに鼻を近づけた。

消毒液とも、生理食塩水とも違う、ほんのり甘い匂い。

それは――砂糖水のような香りだった。



氷川:「くだらない。だが……これは“俺のミス”じゃない。

   この点滴は、すり替えられている」


朝8時45分。

氷川颯真は、病院のラウンジに置かれた自動販売機のグルコース補給ドリンクを手に、ナースステーションに戻ってきた。


その手には、患者・川口登志男の使用済みの点滴バッグ。

香りを比べ、液体の粘性を比べ、そして言った。


「この匂い。病棟で使う点滴じゃない。……これは、市販品だ。

市販の“栄養ドリンク”を、生食に見せかけて点滴バッグに詰めたんだ」


看護師たちが顔をしかめる。


「そんなバカな……ドリンクを点滴に? 水分補給にはならないし、第一危険すぎます!」


氷川:「くだらない。だが事実だ。

糖分は血管を荒らす。

ましてや、高濃度の果糖液を静注すれば――血管炎、心筋負荷、電解質の急変が起こる」


「まさか、そんなことを誰が……?」


 


氷川は、患者のカルテに残された情報に目を通す。


「この川口という患者――搬送時の同意書には、娘が署名していたな」


だがその娘は、急変の朝以降、一度も姿を見せていなかった。

連絡も取れない。


氷川は医事課と連携し、監視カメラの映像と入館記録をチェック。


 


──深夜2時43分。

エレベーターから、娘・川口真由美が出てくる。


ナースがトイレ対応で席を外していたわずか1分間、

点滴ワゴンの前に近づき、バッグの交換らしき動作をしている。


ナースステーションに集まった関係者たちの前で、氷川はゆっくりと語り始めた。


「川口登志男の急変は、点滴に混入された高濃度グルコース液によるものだ。

ただの医療ミスではない。これは、誰かが故意に仕組んだ殺害未遂だ。」


看護師の一人が息を呑む。


「なぜ娘がそんなことを?」


氷川はカルテを指差し、低い声で続ける。


「川口真由美は、父親の末期状態に耐えられず、苦しませずに“楽に”してあげたいと考えた。

しかし、正式な承諾もなく自己判断で実行した。

彼女は点滴バッグをすり替え、表面上は普通の生食のように見せかけたが、実は砂糖水を静注することで、父の心臓に負担をかけ、心停止を引き起こそうとしたのだ。」


氷川はさらに言った。


「だが、偶然にも俺が点滴を接続する際に“空気が入ったかもしれない”というミスが発生し、その声が院内に流れ、俺が犯人扱いされる口実を作ってしまった。

だからこそ俺は、真相を明らかにしなければならなかった。」



病院の警備室に呼ばれた真由美は、取り調べに対し涙ながらに語った。


「お父さんがずっと苦しんでいるのを見ていられなかった……。楽にしてあげたかっただけなの……」


 


氷川は静かに頷いた。


「くだらない。だが、人の心はそう簡単には割り切れない。医療現場は、理想と現実の狭間でいつも揺れているのだ」

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