病室が一晩で90度回転していた件
午前六時四十三分。
入院患者・早乙女善三(72)は、目覚めと同時に何かが“おかしい”と感じた。
枕元のナースコールボタンがない。
左手を探っても、コードの感触がどこにもない。
あれ? 右だったか? と手を伸ばすと、そこには――壁がある。真っ白な、何の装飾もない無機質な壁。
「……は?」
善三は上体を起こし、目を凝らした。
窓が、枕元の“頭上”にある。
テレビが、昨日までは見やすい位置のはずだったが、今日は“首を左にひねらないと見えない”。
ベッドの横にあったポータブルトイレも、今は斜め右の死角。
なにより、病室の扉が――天井の方にあるように錯覚した。
善三はベッドの上で声を上げた。
「……部屋が回っとる……! 回転しとる!」
そこから、院内はちょっとした騒ぎになった。
なぜなら、同じような証言を別の階の患者までし始めたからだ。
「テレビが逆さに……」「窓の位置がずれた」「カレンダーの日付が違う気がする」
しまいには、「地磁気の異常ではないか」と真顔で言い出す理系患者まで現れる始末。
ナースたちは、最初は笑っていた。
が、あまりに患者の証言が一致していることに、次第に顔が引きつっていく。
そのタイミングで、ちょうど夜勤明けの氷川颯真(32)が廊下を通りかかった。
白衣の下はしわだらけのTシャツ、カフェインで濁った目、そして――妙に整った塩顔。
彼を見つけた看護師のひとりが、思わず手を伸ばす。
「先生、ちょっと……“また”変な事件かもしれません」
氷川はコーヒーカップを傾けながら答えた。
「くだらない。だが面白い。……詳細を聞こう」
病室412号室。
氷川は、目を皿のようにしてあたりを見回していた。
部屋はいたって正常。窓の位置、カーテン、ナースコール、どれも“形式通り”に見える。
だが、早乙女善三はなおも主張する。
「昨日の夜は、枕元の左にナースコールがあった。
テレビは右にあって、カレンダーは足元の壁じゃった。
それが、今朝起きたら全部逆なんじゃ。まるで部屋が、ぐるっと90度回ったみたいに……」
氷川は黙って、病室の天井を見上げる。
その角、煙探知機の位置――違和感が、ある。
氷川:「善三さん。質問です。“この病室”で起きた出来事を、何か思い出せますか? たとえばテレビの内容とか」
善三:「テレビ……ああ、ニュース番組を見てた。アナウンサーが“左側”におって……あれ? いや、“右側”だったか?」
氷川は目を細めた。
記憶が不安定。視界の順序と位置が混ざっている。
そして、隅の壁に貼られた病院カレンダー。
氷川はそれに近づいて、眉をひそめた。
「このカレンダー……左右が、逆だな。日曜が左端じゃなく、右端になっている。印刷ミスか」
看護師:「あっ、それ、配布ミスで回収されたはずなんですけど……」
氷川:「くだらない。だが面白い。――すべてが反転している。いや、正確には、“再現されている”」
氷川は412号室の外に出ると、向かいの413号室へと向かう。
「扉の取っ手の位置が違う。カーテンの始まりも逆だ。……この二つの部屋、左右対称なんだな?」
看護師たちは顔を見合わせる。
そしてようやく、**“夜間に起きたある行為”**をぽつりと打ち明けた。
「……実は、夜中に電源トラブルがあって……重体の患者さんだけ、機材ごと412号室に移動させたんです。
でも患者は動かせなかったから、ベッドごと、テレビごと、全部そっくりそのまま……」
氷川は言った。
「つまり、反転コピーか。
……くだらない。だが、間違いない。
この病室は回転などしていない。動いたのは、“物”と“記憶”だ」
ナースステーションに戻った氷川は、カチャリとコーヒーを置き、ホワイトボードの前に立った。
看護師たち、研修医たち、そしてまだ納得していない患者数名が集まってくる。
氷川は白板マーカーを手に取り、**「412号室」「413号室」**と書いた。
それぞれにベッド・テレビ・カレンダー・ナースコールの位置を図示しながら、淡々と語る。
「412と413は、構造が左右対称だ。
だが、それだけでは“部屋が回転したように感じる”理由にはならない」
氷川はパチンと指を鳴らした。
「要因は、五つある」
一、家具と機材の“反転移動”
「まず、夜間に起きた電源トラブルによって、重体患者のベッドと機材が、丸ごと413から412へ移された。
問題は、“位置まで忠実に再現しようとした”ことだ」
氷川は図に×印を描く。
「だがこの忠実な再現が、かえって錯覚を引き起こした。
なぜなら――建物の左右対称構造によって、“再現された配置”が“逆”になるからだ」
二、ナースコールの遅延
「次に、ナースコールだ。
ベッドの配置が逆だったことで、配線が延長ケーブルを経由し、0.7秒だけ反応が遅くなっている。
これは、毎日押していた者にしかわからない違和感だ」
患者たちは「たしかに……」とざわめく。
三、カレンダーの“誤配版”
「壁に貼られていたカレンダーは、誤配された“左右反転版”。
日曜始まりが月曜始まりに見えることで、曜日の感覚まで狂った。
寝ぼけた状態では、“今日は何曜日?”という問いにすら迷いが生じる」
四、部屋番号の傾き
「さらなる混乱要因がある。
病室の扉に貼られた部屋番号プレートが、45度傾いていた」
看護師が手を挙げた。
「それ……すみません、磁石が取れてて……でもなんか、おしゃれかなって……」
氷川:「くだらない。だが確かに、心理的影響は絶大だ」
五、記憶の“順序化”
氷川は、最後に「記憶」という文字をホワイトボードに書いた。
「人間の記憶は、詳細ではなく“順序”で覚えている。
枕元の左にナースコール、正面にテレビ、右手に窓――といった視覚の地図が、記憶として固定されている」
「だからこそ、それらの順序が狂ったとき、全体が“回転した”ように錯覚するんだ」
氷川はマーカーを置き、手を組んで言い切った。
「つまり、部屋は回ってなどいない。
回転したのは、“あなた方の記憶の地図”だ。
くだらない。だが――間違いない」
患者たちが唖然とし、やがて笑い声が漏れる。
善三は苦笑しながらつぶやいた。
「……おれの頭が回ったんじゃのう……」
後日。
院内には、新しい報告書様式が発行された。
タイトルはこうだ。
『病室構造・左右反転による心理錯覚事案対応マニュアル(仮称:ぐるぐる現象)』
その表紙には注意書きが赤文字で添えられている。
※家具の再配置の際は、記憶と順序を考慮せよ。
※カレンダーは反転版でないことを確認すること。
※病室が動いたと感じても、まずは深呼吸を。
ナース:「……これ、本気ですか?」
氷川:「予想通りだ」