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そのマウスピース、微量じゃ済まない


深夜二時。名古屋総合医療センター・救急外来。

 いつものように薄暗く、血と消毒液の混じったような空気が張り詰めていた。


「担当、氷川先生でお願いします!」


 ナースステーションに響いた声とともに、ストレッチャーが滑り込んでくる。

 乗っていたのは、五十代半ばの痩身の男。顔の右半分が赤く腫れ、皮膚がところどころ白く剥けていた。


「いたたたた……ひりひりするんだ、先生……。これ、アレルギーとかじゃないよな?」


 患者はやけに元気に喋りながら、鏡を取り出して自分の顔を確認している。

 その目には不安よりも、「まただ、なんでだ?」という苛立ちのようなものが見える。


「名前は?」

「長田護。ながた・まもる。清潔が命の男さ」


 氷川颯真はカルテに目を落としつつ、簡潔に応じた。


「顔面の発赤とびらん。昨日の夜もうがい薬を使ってるな?」

「そりゃあもちろん。俺は寝る前に必ずうがいしてからマウスピースをする。じゃないと、菌が入るだろ」


「そのマウスピースは?」

「これだよ」


 長田は自慢げに、ビニール袋から透明なマウスピースを取り出した。

 表面には薄く金色の粉のようなものが塗りこまれている。


「“天然ラジウム鉱石を練り込んだ”っていうやつ。免疫力が上がるんだってさ。Amazonで3,980円。安かった!」


 看護師と氷川の動きが同時に止まった。


「……ラジウム?」


「そう! ラジウム温泉ってあるだろ? あれと同じで、自然の力で口腔内の菌を除去して、自己免疫を高めるんだって。

 これを付けてから、調子よくなってね。まあ、顔はときどき溶けるけど」


「ときどき溶けるのは、普通じゃない」


 氷川は端的に言い切った。


「マウスピース、預かる。あとで検査する。あと、さっき使ったうがい薬は?」


「病院でもらったイソジン。市販のと濃さが違うだろ? あれ、殺菌力が高すぎるんじゃないのか?」


「……あるいは、お前の顔面が弱すぎるのかもしれない」


 氷川の冷淡な声に、長田は「それ、医者が言うセリフかよ」と呆れながら笑った。

 だが、彼の目元にはほんの一瞬、焦燥の影が走っていた。


翌朝、検査室の明かりは静かに点灯し、分析機器が無言のままデータを吐き出していた。

 氷川颯真はマウスピースの表面を慎重に観察し、付着した微細な粉末を顕微鏡で覗き込む。


「ラジウム……本物だな。微量だが、確かに放射性物質の痕跡がある」


 隣にいた薬剤師の小林が顔をしかめる。


「こんなもので自己免疫が上がるわけがない。逆に体に悪影響が出るだろう」


 一方、患者の長田護は病室で妹・佳代と口論していた。


「お前が勝手にあのマウスピースを買ってきて、使わせたんだろう!」


 佳代は目を伏せながら答えた。


「だって、お兄ちゃんがあんなに顔を気にして……少しでも良くなればと思って」


 氷川はこの家族の歪んだ絆に気づき始めていた。


 検査結果はさらに驚くべきものを示していた。


「体内に微量の覚醒剤成分が残っている……?」


 長田は過去に関わった職場で、不本意ながら違法薬物の開発に関わっていたことを隠していたのだ。


 氷川は冷静に、しかしその表情には鋭さが宿っていた。


「この覚醒剤成分とラジウムマウスピース、そしてうがい薬の組み合わせが、今回の皮膚症状の原因だ」


 だが、問題はまだ終わっていなかった……


病室に戻った氷川は、長田兄妹と再び対面した。

 妹・佳代の表情は硬く、どこか秘密を抱えているようだった。


「佳代さん、あなたが兄さんにそのラジウムマウスピースを渡したんですか?」


 氷川の問いに、彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「通販で見つけて、良さそうだと思って……お兄ちゃんが顔のことで悩んでいるのを見て、少しでも助けになればと」


 だが、そのマウスピースには彼女も知らない秘密があった。


 ラジウム加工の樹脂に混ぜられた物質の中に、微量ながら工場で使われる化学薬品が紛れていたのだ。


 その化学薬品は、唾液やポビドンヨードを含むうがい薬の成分と反応し、皮膚を刺激し続ける。


「つまり、兄さんの体内に残る覚醒剤成分と、マウスピースの成分が複雑に絡み合って皮膚炎を引き起こしていたんですね」


 氷川の説明に、長田護は初めて自分の無知と過信に気づいたようだった。


「くだらない、だが…これが現実か」


 そう呟くと、静かに医師に信頼を寄せるように目を向けた。


氷川はマウスピースの成分分析結果を手に、化学工場の元同僚や関係者への聞き込みを始めた。

 「これが混入した薬品の名前か……確かに、この成分は通常の製品には含まれていないはずだ」


 彼が接触したのは、長田がかつて勤めていた工場の元管理責任者だった。

 「ああ、あの頃は管理がずさんでな……たまに作業員が勝手に材料を混ぜることもあった。問題が発覚して、数人処分されたよ」


 氷川は眉をひそめる。

 「つまり、この混入は故意か偶然か?」


 「正直、わからん。誰かのイタズラかもしれないし、単純な管理ミスかもしれん」


 長田の過去が、またひとつ黒い影を落とす。


 同時に、長田の妹・佳代もまた、兄の秘密を抱えて苦悩していた。

 「お兄ちゃんを助けたいだけだったのに……」


 彼女の心の葛藤は、氷川の心にも深く響いた。


 「医学的にはくだらない、だが現実に起きていることだ。これをどう扱うかは人間次第だ」


 氷川の言葉が、静かな病室に響いた。


長田護の過去は、決して輝かしいものではなかった。

 化学薬品メーカーの研究員として勤めていた彼は、ある日、違法覚醒剤の合成に関わるプロジェクトに巻き込まれた。


 「断れなかったんだ。上司の命令で……」


 佳代は兄の告白を聞いていた。彼女もまた、その事実を知らなかった。


 覚醒剤成分が体内に残留し、彼の皮膚を蝕む原因の一つになっていることを、医師たちは突き止めていた。


 だが、長田は自分の過去を恥じ、世間に明かすことを拒んでいた。


 「俺は清潔でいたいだけなんだ……それが救いなんだ」


 妹もまた、兄を守ろうと必死だった。


 「お兄ちゃんが苦しまないように、何とかしてあげたい」


 しかし、その過剰な愛情が彼をさらに追い詰めていた。


 氷川は静かに見守りながら、医療と人間の境界線を考えた。


 「くだらないことだが、人間は時にそうやってしか自分を守れない」


治療方針は、まず化学反応を避けること。

 長田にはマウスピースの使用を即刻中止し、うがい薬も刺激の少ないものに替えるよう指示が出された。


 「これで皮膚の炎症はだいぶ治まるはずです」


 だが、長田はなかなか納得しなかった。


 「俺の清潔さが、俺なんだ」


 妹・佳代も涙ぐみながら、兄の頑なな気持ちを説得する。


 一方で、氷川は独特の調子で話した。


 「くだらないが、論理的には正しい。だが、人間の気持ちは化学反応より複雑だ」


 彼の言葉には、皮肉と哀しみが混じっていた。


数週間後、長田護の症状は徐々に緩和されていった。

 皮膚の赤みは引き、ただれも小さくなった。治療の効果は確かだった。


 だが、彼の体内にはまだ微量の違法薬物成分が残存していた。

 社会的な問題は解決されていないのだ。


 病院の窓から外を見る氷川颯真は、淡々とつぶやいた。


「医学的にはくだらない。だが、現実は容赦ない。人間も社会も、微量の毒を抱えて生きている」


 長田は治療の中で、自分の過去と向き合う決意を固めた。

 妹・佳代もまた、兄を支え続ける覚悟を胸に秘めていた。


 そして氷川は、次の不可解な事件へと歩みを進める。


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