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血糖値が跳ね上がる度に僕の命は減っていく


朝の外来待合。

けたたましく鳴る番号表示と、うつろな表情の患者たちの群れ。

氷川颯真はその合間を縫うように、カウンター裏から電子カルテを覗き込んだ。


「再診・訴え:動悸・ふらつき・食後のだるさ」

「患者:小山英二(52歳)・無職・既往歴なし」


(……また来たな、小山さん)


彼は最近、氷川の担当枠でしばしば見かける中年男だった。

身なりは小汚く、伸びきったシャツのボタンはひとつ取れかけている。

第一印象からして「働く気はない」と全身で叫んでいるタイプだ。


診察室に呼び入れると、彼はお決まりの台詞を吐いた。


「先生……俺、たぶん糖尿病ですよ……。ほら、昨日も甘いもん食ったし……」

「どのくらい甘いものを?」

「いや……おにぎりっすね。梅……いや、たぶん味付けはちょっと甘かったかも……」


氷川はタブレットを操作し、前回の採血結果を確認する。

空腹時血糖:92mg/dL(正常)

HbA1c:5.6%(問題なし)

でも前回、食後1時間で採った血糖だけが172mg/dLと高めだった。


(ふつうじゃあり得ない変動……でも、何か“意図”がある気がするな)


氷川は思い切って尋ねた。


「ちなみに小山さん、働いてますか?」

「……いや、いまはちょっと体調が……。たぶん糖尿病で……ほら、あれ、障害者手帳ってもらえるんですかね?」


「……出ません」


氷川は淡々と告げた。

だが内心は、何かに引っかかっていた。

これはただの仮病ではない。**病気を装っているのではなく、実際に“数値だけ病的”**なのだ。


しかも、それは“毎回、診察の直前にだけ”起きている。


(……わざとスパイクを起こしている? 何のために?)


診察が終わると、小山はにやにやしながら去っていった。


「じゃ、また来週。様子見で!」


(ああ、様子を見るのはこちらの方だ)


氷川は診察メモにこう打ち込んだ。


「疑わしい血糖値スパイク。自演の可能性あり」


この段階ではまだ、氷川も知らなかった。

このふざけた“数値の上げ下げ”が、命を狙う本物の殺意に繋がっていることを――。


小山英二が再び現れたのは、それからちょうど一週間後だった。


今度はストレッチャーで救急搬送されてきた。


「先生、患者さん意識がもうろうとしてて、救急隊から“低血糖の疑い”って連絡がありました!」

駆け込んできた救急外来の看護師が叫ぶ。


氷川はストレッチャーに乗った小山を一瞥した。


顔は青白く、唇が乾いている。手には何か粘ついた白い粉が付着していた。

(……またラムネ菓子か?)


指先からの簡易血糖測定で、血糖値は48mg/dL――低血糖の診断基準を下回っている。


「IVライン確保。50%ブドウ糖投与して」

淡々と指示を出しながら、氷川は内心で首をかしげていた。


「……高血糖スパイクが原因の反動低血糖?

普通は糖尿病の人がインスリン打ちすぎたときにしか起きない現象だけど…」


患者の電子カルテを開くと、またしても1週間前の外来の記録が残っていた。


食後血糖値:179mg/dL

空腹時は95mg/dL


スパイクの後、ガクッと下がるパターン。

しかも毎回、週末の前後に集中している。


「先生、患者の付き添いの方来てますけど…」

「誰?」


看護師が指差す先には、見覚えのある中年女性がいた。

服装は地味で、髪をきっちりとまとめている。

小山が「遠縁の親戚で、最近面倒を見てもらっている」と言っていた女だ。


彼女は作り笑いを浮かべながら、氷川に近づいてきた。


「先生、いつもありがとうございます。あの人ね、昔から体が弱くって…ほら、無理するとすぐ倒れるんですの。お薬とか、やっぱり増やしていただけると…」


氷川は彼女の話を適当に受け流しながら、ポケットに手を入れた。


そして、ふと思いついて、何気なく尋ねた。


「そういえば、さっき患者さんの手にちょっと粉みたいなのがついてましたけど、あれ何ですか?」


「え?……あ、あれはたぶん、お菓子の粉ですね。朝にラムネを……いや、違った、おにぎりを食べさせたんで、たぶん海苔の……」


「おにぎりですか。朝は何時に?」


「7時過ぎに。……あっ、でも糖質は控えめにしてます! 雑穀米なんですよ!」


明らかに焦った口調。


氷川の眼差しが、静かに冷える。


(……その雑穀米に、たぶん“糖”が仕込まれてる)



同日午後、看護師がこっそりと報告してきた。


「先生、朝の付き添いの方、待合室で怪しいことしてたらしいです。おにぎりに何か小袋から粉ふって……食べさせてました」


「粉?」


「白い粉で、薬じゃなくて……甘い匂いがしたって。隣の人が“ラムネみたいな匂い”って」


氷川は頷いた。


「グルコースパウダー、ですね。市販で売ってます。体内で即効性のある糖質の塊です」


(なるほど。これで食後だけ血糖値を爆上げして、体に強烈な負担をかけていたわけか)


これはもう“誤った介護”ではない。明らかに狙ってる。

だが、何を?


氷川は電子カルテを閉じながら、手帳に一行メモを書きつけた。


「繰り返し血糖値を跳ねさせる執念。その目的は命か、金か」


午後の談話スペース。

リネン交換のカートが行き交う片隅、氷川は黙って監視カメラの映像を再生していた。


画面の中には、さきほどの女――親戚の綾子と名乗った女が、小山に何かを食べさせている姿が映っている。


彼女は薄く笑みを浮かべながら、白いおにぎりを握らせている。

その前に、何か小さなスティック袋を裂いて、粉をまぶすような動きがはっきり映っていた。


(……グルコースパウダー。確定だ)


氷川は再生を止め、深く息を吐いた。


あの女には、初対面の時から違和感があった。

妙にかしこまりすぎた物腰。無駄に丁寧な口調。

それでいて、どこか言葉の奥に「責任逃れ」と「支配欲」が入り混じっていた。


その日の夕方、綾子は再び病室に現れた。

両手には、ビニールに入った新しい手作りのおにぎりがいくつも下がっている。


「先生、今日もお見舞いに……あの子、食が細いから、なるべく“やわらかいお米”で握ってるんです。お腹に優しいものだけ……」


そう言って笑う顔が、皮膚の下で無理やり貼り付けられたマスクのように見えた。

その目だけが笑っていない。真っ黒に濁って、氷川を見つめ返していた。


「本当に、いい子だったんですよ。英二くん。ほら、小さい頃から知ってて……でもね、働かないの。だから、わたしが支えてあげなきゃって……ずっと思ってて」


「……ずっと?」

氷川は意図的に言葉を詰まらせた。


綾子の微笑は、少しだけずれた。


「そう。……もう、十年以上。親戚って言っても、昔は近所の“お姉さん”って呼ばれてて……あの子のお母さん、早くに亡くなったでしょう? だから代わりにずっと、私が見てきたの」


(……家族ではない。法的な関係もない。ただの“親しい人”。なのに、なぜここまで執着する?)


「ところで、綾子さん」


「はい?」


「今朝のおにぎりに、グルコースパウダーを混ぜましたか?」


ぴたり、と空気が止まった。

綾子は一瞬きょとんとした顔をして、次に唇の端をすっと吊り上げた。


「……まあ、先生。そんな、変なもの混ぜたりしませんわ。ただ、栄養価が高い方がいいでしょう? あの子、元気がなくて……」


「体内のグルコース濃度は、投与された直後に急上昇し、そのあとインスリンが大量に出て血糖値が下がる。つまり、反動で低血糖になる。それがこの一週間、二度も続いています。偶然とは思えません」


綾子は肩をすくめて笑った。

その声は妙に高く、わずかに裏返っていた。


「先生、私はね。あの子が死んでも……いいと思ってるんですのよ?」


氷川は微動だにしなかった。

だが、看護師が息を呑むのが分かった。


「でもね。死なせるつもりなんかないの。あの子は……わたしの中で“ずっと具合が悪い子”じゃなきゃ困るの」


「……どういう意味ですか」


「だって。そうでしょう? 病院に通って、私が手作りのご飯を出して、“ありがとう”って言ってくれる。……その時だけ、生きてる気がするのよ」


その言葉は、氷川の想像をわずかに超えていた。

もはや保険金だけが目的ではない。

彼女は“病人を作ること”そのものに依存している。


(代理ミュンヒハウゼン症候群の変型……?)


「綾子さん、失礼ですが……その生命保険、英二さんの同意を得ていますか?」


綾子の表情が初めて、硬直した。


そして、小さくうつむいてこう言った。


「……契約書に、ちゃんとサインはあるのよ」


その声は小さかったが、明確に“嘘”の匂いがした。



氷川は病室を後にし、カルテにこう記した。


「付き添い女性に病的加害性あり。目的は病的支配。加えて、保険金詐取の線も濃厚」


彼の脳裏には、ただ一つの疑問が浮かんでいた。


――彼女は、次に何を混ぜる?


診察が一段落した夕刻、氷川はデスクの前に座りながら、

病院に届いたばかりの保険会社からの照会文書に目を通していた。


「被保険者:小山英二

契約日:2ヶ月前

受取人:小山綾子

死亡保険金:3,000万円」


契約内容は明確だった。

無職の中年男が急にかけた不自然な高額保険。

それだけなら偶然の範囲かもしれないが、問題は――保険代理人の記名欄にサインが二重線で訂正されていたこと。


しかも、本人署名欄の筆跡が、病院の署名と微妙に違う。


氷川はカルテの署名と照合しながら、小さく唸った。


(これはたぶん……本人が書いたサインじゃない)



翌日、氷川は看護師と共に小山英二のベッドサイドを訪れた。


酸素投与は外れていたが、彼はまだベッドの上で青ざめていた。

テレビで野球を流しながら、ほとんど内容を見ていない表情で呟いた。


「先生……俺、死ぬんすか?」


「生きてますよ、しぶとく」

「なんか最近、ずっとフラフラしてて……でもあの人、“あんたは大丈夫だから”って、無理やり食わせるんです。朝とか、よく分かんない白いごはんとか、妙に甘いやつ……」


「“あの人”って?」


小山は、目だけでナースステーションの方向をちらりと見た。


「綾子さん……俺、いまだに親戚なのか何なのか、正直よく分かってないんですよ。小さい頃から近所で、いつの間にか一緒に住むようになって……」


「保険に入らされましたね?」


小山ははっきりとうなずいた。


「先月、“もしもの時のために”って言われて……俺、金なくて断ろうとしたんすけど、もう申込書に俺の名前、書いてあって……。印鑑だけ押せって」


「書類、あなた自身が書きましたか?」


「……書いてないです。俺、字ヘタだから、代わりに書いてくれたって……」


氷川は、黙って頷いた。


(予想通りだ。保険金目当て。狙いは完全に“緩やかな殺人”だ)



病院の倫理委員会に報告を上げる直前、氷川はもう一度、綾子を呼び出した。


「綾子さん。ひとつだけ確認させてください。あなた、どうして保険の受取人になったんですか?」


綾子は静かに手を握り、まるで演劇の舞台で用意された台詞を読み上げるように答えた。


「だって……英二くんは家族がいません。私だけが、彼を見送ってあげられるんです。彼に何かあったら、ちゃんと火葬して、お骨を拾ってあげないと。保険金は、そのためのものです」


「3,000万円も?」


「……ええ。ちゃんとした骨壷を用意してあげたくて」


その笑顔は、不自然に崩れていなかった。

氷川は、その目の奥に、“計算された狂気”が沈んでいるのを確信した。


彼女にとって、小山英二は“死ぬべき存在”だった。

それも、静かに、穏やかに、病気であるかのように死ぬべき。

“病人として世話され、役目を果たしてから死ぬ”という筋書きの中に生きる道を閉じ込められていたのだ。



病院の法務担当を通じて、警察への通報手続きが開始された。


氷川は最後に、電子カルテの一番下に、こう記した。


「生命保険詐欺の疑い、及び薬物による慢性的健康被害の意図的誘導」

「患者は被害者として保護が必要。外的環境の見直し必須」



そして――綾子が最後に病院を訪れたとき、

警察官が同行していたにもかかわらず、彼女は終始笑顔だった。


「私……英二くんのこと、大好きだったんですよ。ええ、本当に。

 だけど、人って病気になると優しくなるでしょう? 私、あれが嬉しかったのよ……」


警察の取調室。薄暗い照明の下、綾子は静かに座っていた。

氷川は医師としての立場から、証言を記録しながら彼女の言葉を聞いていた。


「英二くんは、私の全てだったの……」

彼女の声は震え、時折涙が頬を伝う。


「でもね……彼は働かない。自分のこともろくにできないのに、病院に通ってばかりで……。あの子のために、何でもしてあげたいって思ったの」


「だから、糖を混ぜたの?」


「違うの……私はただ、彼が“具合悪い”と感じてほしかっただけ。

おにぎりに混ぜたグルコースも、甘いラムネも、すべては彼の命を守るための“愛情”だった」


氷川は眉をひそめた。


「でも、そのせいで彼は何度も倒れ、命を危険にさらした。結果的に殺意に近い行為ですよ」


綾子は顔を上げ、氷川の目をじっと見た。


「……わかってる。私も自分が何をしているのか、わからなくなってた。

でも、病院でのあの瞬間だけが、私にとっての救いだった。英二くんの命よりも、あの“病人の役割”を維持することが、私の生きがいだったのよ」


氷川は静かにノートに記した。


(代理ミュンヒハウゼン症候群の変形、だが動機が複雑だ。愛情の裏返しに殺意が潜む)



一方、病院の病室では、小山英二がベッドに横たわっていた。

彼はまだ完全には回復していなかったが、少しずつ意識を取り戻していた。


看護師が近づき、優しく声をかける。


「小山さん、もう大丈夫ですよ。これからは私たちがちゃんと守りますからね」


小山は苦笑しながら答えた。


「ありがとう…でも、俺、これからどうなるんだろうなあ…」



氷川は診察室の窓から外を眺めながら、呟いた。


「くだらない…だが、命を守ることに嘘は許されない」

「この事件も、確実に終わらせなければ…」


病院の廊下に響く足音。

氷川颯真はカルテを片手に、ゆっくりと小山英二の病室へ向かっていた。


「小山さん、今回のことは――命に関わる危険な事件でした。

意図的に血糖値を操作され、何度も危篤状態になっていたのです」


小山はぽつりと笑った。


「くだらない話ですよね。

でも、俺はずっと“体調悪いフリ”して、仕事も辞めて。

楽したいだけだったのに、命がかかるなんて…」


氷川は静かに言った。


「間違いない。くだらない。だが、それで命が奪われたらたまらない。

詐病も悪質な犯罪も、医療の現場では見逃せません」


小山は深く息を吸い込んだ。


「これからは、ちゃんと生きてみるよ。くだらなくても、命があるなら」


氷川は心の中で呟いた。


(くだらなくても、命は尊い。医師として、絶対に見捨てられない)



病院では、今回の事件を教訓に新たな対策が講じられた。


“血糖値スパイクを利用した健康被害の早期発見マニュアル”が作成され、スタッフに配布される。


そして氷川颯真は、また一つ難事件を解決した医師として、淡々と日常に戻っていった。

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