笑いの固有振動数
名古屋総合医療センターの救急外来は深夜の静寂に包まれていた。
研修医・氷川颯真は夜勤の合間にカルテをめくりながら、ふとナースステーションの方に目をやった。
「…なんだ、あの騒ぎは」
廊下の向こうから笑い声が響いてくる。まるでパーティー会場のように響き渡る、止まらない笑い声。
氷川は眉をひそめ、ゆっくり立ち上がった。
「間違いない。予想通りだ…くだらないことが起こった」
彼は一瞬、冗談めかして笑い声のする病室へと歩みを進めた。
深夜の病院は通常、静寂に包まれている。
だが、その夜の名古屋総合医療センター救急外来は例外だった。
廊下の突き当たり、古びた扉の向こうから絶え間なく響き渡る笑い声が漏れていた。
軽快で、だがどこか不自然に強迫的なその笑いは、まるで機械が壊れたかのように繰り返されている。
ナースステーション近くで腕を組む数人の看護師が、顔をしかめつつも時折顔を見合わせて困惑している。
「またあの患者さんかしら…」
「どうして止まらないのか、本当にわからないわ」
傍らに立つ研修医の小松理沙は眉間にしわを寄せ、真剣な表情でカルテを読み返していた。
「こんな症例、教科書にも載ってませんよ」
そこへ、カルテをめくる手を止めた氷川颯真がゆっくりと歩み寄った。
その顔にはいつものような冷静さが漂い、しかし目は好奇心に輝いている。
「間違いない。予想通りだ」
彼は低くつぶやき、笑い声の方へゆっくりと顔を向けた。
病室のドアを開けると、中年の男性患者がベッドの上で身体を震わせながら笑い続けていた。
その表情は楽しそうでもあり、どこか苦しげでもある。
医療機器のビープ音が規則正しく鳴る中、彼の笑い声だけが異様に響き渡っている。
氷川はじっと患者を観察しながら言った。
「くだらない…だが、ここに医学的な答えがあるはずだ」
氷川颯真はゆっくりと患者のそばに寄った。
「お名前は?」と優しく尋ねると、患者は笑いながらも「田中です」と答えた。
問診を進めるも、患者は言葉を発するたびに笑い声が漏れ、まともな会話は難しかった。
「笑いが止まらなくなったのはいつからだ?」と氷川が問うと、田中は手を叩いてまた笑い出した。
看護師の小松理沙が控えめに、「検査結果は異常ありません」と報告する。
血液検査、脳波、心電図、どれも異常なし。
「物理的な問題じゃないかもしれない…」と氷川は眉をひそめる。
「何か、環境に変わったことはあったか?」と尋ねると、清掃員の花岡が「昨日、田中さんのイヤホンを拾った」と言った。
氷川はそのイヤホンを手に取り、じっと見つめた。
「間違いない。このイヤホンの固有振動数が声帯の固有振動数と完全に同調している」
彼はそう断言した。
「つまり、イヤホンが原因で笑いが止まらないんだ」
指導医の海藤は苦笑しながら、「くだらない、だが面白い」と呟いた。
氷川の断言が終わると、ナースステーションの空気が一変した。
小松理沙は腕を組みながら眉間にシワを寄せて言った。
「はあ…本当にそんなことで患者が笑い続けるなんて信じられません。くだらないけど…変な話ですね。」
花岡清掃員はニヤリと笑って、
「俺の経験上、くだらないことほど長引くんだよな。病院は笑い声付きの夜勤だぜ、間違いない。」
指導医・海藤はコーヒーをすすりながら、冷静に一言。
「くだらない、くだらない。だが俺の仕事を奪うなよな、氷川。」
他の看護師たちは笑いながら、患者の様子を見に行き、思わず一緒に笑い出す者も。
その様子を見て氷川は満足そうに言った。
「このくだらない現象が病院の空気を少しは和ませている。予想通りだ。」
夜勤明けの医師控室。疲れた表情の若手医師たちが椅子に深く腰掛けている。
だが、部屋にはなぜか笑い声がこだましていた。
「おい、俺の腹筋が…もう限界だ」
「笑いすぎて、腹がつるとは思わなかったわ」
若手たちは肩を押さえ、苦笑いしながらもどこか楽しそうだ。
そこへ指導医・海藤が入ってきて、冷たい目で一同を見渡す。
「お前ら医者だろ。腹筋痛で仕事にならんって何だ」
「体力つけろ、くだらない理由で腹筋痛になるな」
医師たちは苦笑いしながらも、どこか和やかな雰囲気に包まれていた。
氷川颯真は少し離れた場所からその様子を見つめ、静かに呟いた。
「くだらない…だが、これも医療の一部だ」
氷川颯真は病院の片隅にある静かな研究室に入った。
机の上には電子機器の分解用工具とパソコンが並んでいる。
「間違いない、このイヤホンの振動数を解析すれば答えが見える」
彼は真剣な表情でイヤホンを手に取り、慎重に分解を始めた。
パソコンの画面に振動解析のソフトが起動され、波形がリアルタイムで表示される。
「これがイヤホンの固有振動数か…」
モニターの波形は、患者の声帯の振動数と完全に重なった。
「共鳴現象が笑いを止められなくしている」
彼はゆっくりと椅子に座り、深呼吸した。
「くだらないが、この現象を医学的に証明できるかもしれない」
研究室の静寂を破り、氷川は指先でモニターを軽く叩いた。
「このイヤホンから発せられる振動波形は、周波数帯が限定されている。つまり、固有振動数だ」
彼はホワイトボードに簡単な波形の図を描きながら説明を続けた。
「人体の声帯もそれぞれ固有振動数を持つ。通常は脳の制御下で調整されるが、外部から同調する振動が加わると、共鳴現象が起きる」
彼は目を細め、真剣な表情で続ける。
「この共鳴により、声帯は不随意に振動を繰り返す。結果、患者は意図せず笑い声を発し続けるのだ」
周囲の同僚が困惑気味に聞き入る中、氷川はさらに力を込めて言った。
「間違いない。このくだらないトリックは、物理学と生理学の奇妙な交差点に存在する。医学的に証明可能な現象だ」
彼は満足げに腕を組み、部屋を見渡した。
「さあ、このイヤホンの欠陥を世に知らしめる時が来たようだな」
研究室での解析を終えた氷川は、ナースステーションの電話を無言で取り上げた。
受話器を片手に、無駄に鋭い目つきでダイヤルを押す。
「こちら、名古屋総合医療センター。研修医の氷川颯真だ。製品番号『BL-440K』のBluetoothイヤホンについて、至急確認したいことがある」
相手の担当者が電話越しに戸惑いながら答える。
『は、はい……何か不具合でも?』
「ある。声帯と同調して笑いが止まらなくなるという欠陥だ。重大な問題だ。再現性も確認済みだ」
『……え?』
氷川は厳しい表情のまま続ける。
「被害者は一名。だが、笑いによる横隔膜の痙攣で深刻な筋肉痛を訴えている。なお、現場では数名の医療従事者も巻き添えになっている」
『……そ、それは初めて聞く症例です……』
「当然だ。世界初だからな。くだらないが、貴社にとっては深刻な話だ」
その横で、小松理沙がコーヒーを飲みながら一言。
「世界初とか言うなら、論文にでもしたらどうですか……」
海藤指導医が鼻を鳴らす。
「まさかメーカーに怒鳴り込むとはな。俺の知ってる研修医の中で、お前がいちばんくだらない」
翌週の月曜日、ナースステーションに新しい紙束がドサリと置かれた。
件名:「笑いによる医療業務支障の防止について(暫定対応)」
表紙の上部には、堂々と病院長の名前と印。
そして中央には大きく太字で書かれていた。
『緊急配布:笑い防止マニュアル(第1.0版)』
氷川はその冊子を手に取り、無表情で1ページ目を開いた。
■第1章:笑いの医学的影響
•長時間の笑いは横隔膜・腹直筋の疲労を招く。
•笑い過ぎによる脱力転倒例が1件(※氷川記録)
■第2章:笑いの発生源と対処
•特定の電子機器(Bluetoothイヤホン等)による振動誘発事例
•患者の「笑いが止まらない」という訴えには、冷静に対処
•原因が不明でも、まず氷川颯真に報告(←明記されている)
■第3章:予防措置
•勤務中にコント動画を流さない
•同僚の診察中にツボを押さない
•「氷川の推理中に笑うこと」を固く禁じる(※個別注意)
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氷川は静かにマニュアルを閉じ、無表情で一言。
「くだらないが……配布の判断は正しい」
小松理沙が苦笑いしながら隣でつぶやく。
「これ、研修医の仕事増やす気ですよね……」
海藤指導医は書類の束を読みながら、鼻で笑った。
「……これ、学会出す気じゃないだろうな?」
花岡清掃員はモップを止めて言う。
「病院で笑いが問題になる時代かよ……そりゃ笑えるぜ」