いずれ死ぬ。
いずれ死ぬ。人間誰しも。
これまでの人生で、いったどれくらいの死者を見送ってきたのだろうか?
一度でも、会話をしたことがある人間の死。
なかなか不思議な感覚がある。
こども時代、ひとは永遠に生きるものだと思っていた。うちの父親は、私が三歳の頃に亡くなっている。だが、これは記憶にはないので、ノーカウントだ。
最初の「近しい死」は、いったい誰だったか?
会話をしたことがある「接点アリ」でいえば、高校の時にバイクで事故死したアイツが最初か。
その後、伯父が死んだり、知り合いが死んだり。年を重ねるごとに、次々と。中には「年下」が死んだりもし、「人生とはいったい何か?」を考えることにもなった。
悲しい、悲しくないは飛ばし、毎度感じること。それは、自分自身の物語から「その登場人物が消えた」という感覚。どれほど仲が深かろうが、浅かろうが関係なく、彼らはシンプルに「私の物語」から、その姿を消した。永遠に。自身の酷薄さに呆れたり、意外な情の深さに驚くこともあったが、彼らが私の物語に「再登板」することは、ほぼないだろう。
―― ところが、である。
たったひとりだけ、死ぬには死んだが、全く「これで終わり」を感じさせなかった人間がいる。どういうわけか、葬式の時にも関係性が切れたと感じさせなかった、その人物。他のひとたちと比べても、そこまで密接な関係性でもなかったはずだが、「あれ、これは続きがあるな」という妙な予感。
ほんとうに不思議な感覚だった。
彼が死んだことによって、逆に「深く繋がった」ような。それまでは考えもしなかったことだが、「ひょっとするとこの人とは、来世でも縁があるのかもしれない。これまでよりも深い関係性で」という現実離れした確信が生まれた瞬間だった。
奇妙な同調。彼が肉体を失ったことにより、むき出しになった魂が、私に直接触れたのだろうか?
最早オカルトな話である。
しかし、この「答え合わせ」は、私の密かな楽しみともなった。死を少しだけワクワクさせるものに変える、おまじない的な考え。死が苦痛だけではないことは、非常に良いことでもある。
ひとはいずれ死ぬ。
私自身でさえも。
ひょっとすると「死後にも繋がりを持つ人間」が、他にもいるのかもしれない。残りの人生は、そういった繋がりを持つかもしれない相手を見つけるのを「人生の裏テーマ」にするのも、面白いかもしれないな、とふと。
この感覚の何が良いって、「私にも来世がある」という「確定演出」のようにも感じさせる部分だね。