第一章1『彼の異世界での再覚醒』
虚無。
床も、天井も、壁もない。
ただひたすらに広がる、目が痛くなるほどの白。無限の果てまで続く白。
蒼汰は立っていた——あるいは浮かんでいたのかもしれない。
何もない空間の、ただ中に。
奇妙な浮遊感が、全身を包み込んでいた。
足を動かしても、地面など存在しない。
状況の異常さに、頭が追いつかない。
「……ここは……どこだ……?」
声は微かに響き、しかし、静寂にすぐ飲み込まれた。
そして——決壊したかのように、記憶が一気に溢れ出した。
△▼△▼△▼△
熱い金属とコンクリートの粉塵の臭いが充満していた。
蒼汰は額の汗を手の甲で拭いながら、顔をしかめる。
頭上の未完成の足場を見上げると、鋼鉄の骨組みが軋み、不快な高音を響かせた。
背筋に冷たい戦慄が走る。
——何かがおかしい。
突如、耳をつんざくような破裂音が鳴り響いた。
胃がひっくり返るような感覚と共に、世界が崩れ落ちる。
鋼がねじ切れる悲鳴。落ちる影。轟音。
ガンッ!
太い鉄パイプが左肩に叩きつけられた。
骨が砕ける瞬間——耳をつんざくような破裂音。
灼熱の痛みが神経を焼き尽くす。
息を吸う暇もなく、次の衝撃が肋骨を襲った。
乾いた折れる音。脆い枝のように潰れる肋骨。
肺から空気が押し出され、声すら出せない。
膝が崩れ落ちる。
そして——致命の一撃。
錆びた鉄パイプが、処刑人の斧のように落ちてきた。
太さは男の手首ほど。
ドグシャッ!
頭蓋を貫き、突き進む鉄。
柔らかく脆い脳が砕け、四散する。
口の中に広がる、生ぬるい鉄臭さ——血。
耳鳴りが遠のく。音のない世界。
視界が滲む。色が溶け、形が崩れる。
体が痙攣し、指先が虚空を掻く。
痛みすら超えた苦痛。存在の崩壊。
血が喉に溜まり、鼻からも溢れ、窒息する。
意識が砕け散るように消えていく。
南蒼汰は死んだ。
赤黒い血溜まりの中、肉と骨の残骸となって——。
△▼△▼△▼△
蒼汰は息を呑んだ。傷ひとつないはずの体が震えた。
彼の手は無意識に頭へと伸びる。撫でる。探る。そこにあるはずの穴を恐れながら。
しかし——何もなかった。傷跡すら。
「なんだよ…これ…?」
「少年よ~」
柔らかく、からかうような声が響き、蒼汰の混乱を切り裂いた。
彼は慌てて振り向く。そこに立っていたのは、ゆらめく影に包まれた存在。女の形をしているが、輪郭ははっきりしない。
「まぁ、なんて美しい青年なのかしら」
愉しげな口調で、彼女は微笑む——いや、そう感じただけかもしれない。
蒼汰は硬直した。「死神…!?」
両手を素早く上げる。降参のポーズ。瞳は恐怖に見開かれていた。
「き、聞いてくれ! 俺がここにいるのは何かの間違いだ! 俺には父さんがいるんだ! 両親は離婚して、父さんには俺しかいないんだよ! こんなところで死ぬわけにはいかない! お願いだから——」
彼女はすっと手を上げた。
「落ち着きなさい。私は死神などではないわ」
「じゃあ…あんたは何なんだよ?!」
「私は『時間の魔女』。過去、現在、未来をすべて見通す者。そして、蒼汰南…お前はすでに死んでいる」
息が詰まった。
「……は? そんなわけ…ない。だって俺、こうして生きてる…いや…」
言葉が詰まり、胸が締めつけられる。
「そうか…記憶が…」
彼は喉を鳴らしながら呟く。
「やっぱり、俺……死んだのか? これ、夢じゃないんだよな? ……父さん……」
震える声で問いかける。
「時間の魔女なら…未来が見えるなら……俺の父さんは、俺がいなくても大丈夫なのか……?」
彼は彼女の目を探した。いや、目があるはずの場所を——微かな希望を込めて。
彼女はしばし沈黙した後、こう答えた。
「私がそれを教えれば、未来は変わる。だから、君と彼のために、一言だけ言っておくわ——心配しないで」
静寂が降りた。
蒼汰は俯く。「……そっか」
彼女が口を開きかけた、その瞬間——
「……まあ、いいさ」
蒼汰は遮るように呟き、制服の袖で目元を拭った。
「父さんのことを考えないのは無理だけど…いつか会えるかもしれないって思えば……それだけでいい……たとえ、それが……叶わなくても……一度だけでも……」
声が震え、膝から崩れ落ちる。両手で顔を覆い、涙が零れた。
魔女は、そっと歩み寄る。
「大丈夫よ、蒼汰南。立ちなさい。今は、目の前のことに集中しましょう」
彼は震える息を吸い込んだ。心が、身体が、押しつぶされそうだった。だが、数秒後、ゆっくりと顔を上げる。
「……そうだな」
小さく呟き、震える足で立ち上がる。
「……泣いてばかりじゃいられないよな。なんとかするしかない。よし……準備はできた」
魔女は首を傾げる。「いい子ね」
小さな間が空き——
「君に能力を授けたわ」
「……は?」
蒼汰の思考が止まる。
「能力よ」
魔女は当然のように続ける。
「死ぬたびに時間を遡り、やり直すことができるわ」
「……は?」
沈黙が落ちた。
彼の表情が歪む。そして叫ぶ。
「何だそれ!? クソ痛そうなんだけど!? そんなもんいらな——」
パチン。
指が鳴らされる。静寂。
口が動かない。声が出ない。
魔女はため息をつく。「私は、話を遮られるのが嫌いなの。続けるわよ?」
蒼汰は必死に抗議しようとするが、何も言えない。
「この能力は、死ぬたびに『チェックポイント』を設定し、やり直す力よ。運命を乗り越えるために使いなさい。さて——名前を決めなさい」
蒼汰は必死に口を指差す。
「あら、ごめんなさい」
魔女は再び指を鳴らし、声を戻した。
「テメェ、何しやがる!? いきなり無言にすんな!」
「まぁまぁ、少しばかり癇癪を起こしただけよ。さて、名前は?」
蒼汰は舌打ちし、「ちっ…少し考えさせろ……『モルス・レヴィクシオ』……ラテン語で『死の復活』、だったはず」
魔女の影がわずかに動く。興味を示したようだった。
「ラテン語? そんな言葉、聞いたことないわね。この世界の誰も知らないかもしれないわ」
彼女はクスリと笑う。そして——
「知識の魔女なら、君を面白がるかもね。でも気をつけなさい。彼女は 乱心してるから」
蒼汰は眉をひそめる。「そんな言葉、今の時代に使うやついんのか?」
魔女はニヤリと笑う。「ちっ、鬱陶しい子ね。さて、他に質問は? それとももう、異世界へ飛ばしていいかしら?」
彼は指を上げる。「ああ、ひとつだけ。言語の問題は——てか、俺、何であんたと同じ言葉を話せてんだ?!」
魔女は肩をすくめる。「ふふっ。心配しないで、私に任せなさい」
彼が反論する前に——
パチン。
魔女の指が再び鳴る。
次の瞬間、彼女の隣にもう一つの影が現れた。燃え盛る炎に包まれた存在。
その手が静かに上がり、深く響く声が虚無を貫いた。
「聖なる炎に、眠れ。」
一瞬で、白い空間が業火に包まれる。
「待て、待て、待て! おい! 言ってたことと違——!」
蒼汰の叫びは、炎にかき消された。
意識が燃え尽きる。
△▼△▼△▼△
蒼汰は息を詰まらせながら飛び起きた。
目を開けることもできず、肺は焼けるように熱い。体は炎に包まれたままのように激しく痙攣し、神経を引き裂くような激痛が走った。まるで白熱した炭が肉に食い込むように——。
叫びが喉から絞り出される。
「アアアアアッ!燃えてる!助けて!痛いッ!!」
蒼汰はもがき狂い、地面を転がりながら服を引っかきむしった。腕、脚、胸——幻の炎が燃え移っているかのように、必死に叩きまくる。
バタバタともがく彼の動きに合わせて、土が舞い上がった。
その悲鳴は静寂を引き裂き、周囲にいた人々が息をのんだ。次第にざわめきが広がり、彼を取り囲むように人が集まってくる。
だが、苦しみは唐突に消えた。
荒い息をつきながら、蒼汰はゆっくりと目を開けた。そこには自分を取り囲む見知らぬ人々がいた。彼らはひそひそと囁き合い、指を差している。
「……っ!」
一瞬の沈黙——。
そして、羞恥が一気に押し寄せる。
「っ、クソッ!!」
顔を真っ赤にしながら、蒼汰は反射的に駆け出した。
後ろで響く声が遠ざかるまで走り続け、ようやく人気の少ない庭の一角で木にもたれかかる。肩で息をしながら、苛立ち混じりに呟いた。
「……あのクソ魔女……転移魔法って言ったよな?焼き殺す魔法とは言ってねぇだろ!ふざけんなよ……」
拳を握りしめながら、息を整える。
「つーか、わかったぞ。アイツの言ってた『贈り物』がどれだけヤバいか……こんな痛み、もう二度とゴメンだ……!」
そう言いながら服についた土を払っていた時だった。
ドンッ——!
「うわっ!」
いきなり何かとぶつかり、その勢いで相手が地面に転がった。
同時に、山積みの荷物がバラバラと散らばる。包みや本が土の上に転がり、見るからに高価そうな品々が泥だらけになった。
「……マジかよ……」
蒼汰は頭を抱え、ため息をつく。
目の前で転がったのは、紅い髪の少年だった。鮮やかなオレンジ色の瞳、少し皺の寄ったけれど上品な貴族の服。蒼汰と同じくらいの年齢に見えるが、どこか繊細な雰囲気があった。体つきは細く、風が吹けばまた倒れそうなほど華奢だった。
蒼汰の苛立ちはすっと消え、思わず手を差し出す。
「おい、大丈夫か?」
少年は一瞬躊躇したが、震える手でそっと蒼汰の手を取った。
「……あ、ありがとう。でも……僕の荷物が……」
周囲に散らばった本や包みを見て、少年の顔に不安が滲む。
蒼汰はため息をつきながらしゃがみ込んだ。
「はいはい、わかったよ。つーか、お前、本屋でも開く気か?」
その言葉に、少年はクスッと小さく笑った。
「ふふっ……違うよ。これは錬金術の材料なんだ。家に帰る途中で——」
「名前は?」
蒼汰は地面に落ちた本を拾いながら、不意に声をかけた。
少年は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……ヴァルトル・カエリス。君は?」
「ヴァルトルさん、ね。なんか高貴な名前だな……俺は南蒼汰。」
「……えっと、『ヴァルトルさん』?」
カエリスは首をかしげ、不思議そうな顔をした。
「……なにか変だったか?」
「変というか……この国では、あまり名字では呼ばないんだ。それに、その『さん』って何?」
「あー……そうか。ここじゃ違うのか。」
蒼汰は苦笑して、頭をかいた。
異世界に来たという実感がまだ薄かったが、こういう細かいズレが少しずつそれを思い出させてくる。
「まあ、気にすんな。ただの癖だから。」
「ふうん……」
カエリスは腑に落ちない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
蒼汰は散らばっていた荷物を拾い集め、カエリスの腕の上に載せてやる。だが、その不安定な持ち方を見ていると、またすぐに落としそうに見えてきた。
「おいおい、また落とすぞ。俺が半分持つって。」
カエリスは少しだけ迷ったが、すぐに頷いて荷物を分けた。
「……ありがとう。」
「気にすんなって。で、どこまで運ぶんだ?」
「ついてきて。」
カエリスは笑みを浮かべたまま、先を歩き出す。
蒼汰はふと空を見上げ、深く息を吐いた。
(……異世界。見知らぬ土地に、見知らぬ人々。そして……この力。)
死の痛みを胸に刻みながら進むこの道が、どこへ繋がっているのか——蒼汰には、まだ分からなかった。
《つづく》