9.結婚なんてしたくない!
青空の下に広がるものは見渡す限りのぶどう畑。どこまでも続く平らな大地には、人の背丈ほどの隅柱が等間隔に立てられていて、数えきれない低木が緑の葉を茂らせている。
そしてその青々と茂る葉を日よけにして、たわわと実る大粒のぶどう。
ここはティルミナ王国西方に位置するリーウ、人口が2000人ほどの小さな町だ。
リーウはティルミナ王国有数のワインの産地であり、村の総面積のおよそ2/3を占める広大なぶどく畑では、ワインの原材料となる数種類のふどうが栽培されている。
醸造所で醸造された濃厚芳醇なワインは、町内にある直売所で販売される他、国内各所の飲食店および酒販店へと輸送される。中でも独特の方法で醸造された『オレンジワイン』は、各地の貴族から予約が殺到する人気の品だ。
国内屈指のワインの産地リーウ。
その土地を治める者の名をローマン・ドレスフィードという。精明強幹、長目飛耳。優秀な男であるが、ところにより融通の利かない頑固者。
そんなローマン・ドレスフィードの邸宅に、今日1人の来訪者があった。
「……ついに戦いのときが来てしまったか。頑張れあたし」
金塗りのドアノッカーに右手をかけたアンは、海よりも深い溜息を吐いた。
アンが父親であるローマンに呼び出されたのは今日から5日前のこと。『日曜日の14時、身なりを整え本邸に参られよ。1分たりとも遅れることは許さない』、姉であるアリスからそう伝言を受けたのだ。
2年前に家を出てからというもの、アンは一度たりともローマンと顔を合わせていない。手紙のやり取りもしていない。つまり今日は、アンが相性最悪のローマンと2年振りに顔を合わせる日ということだ。
かたかたと揺れる馬車の中で、アンは何度「馬車の車輪、爆発しないかな」とつぶやいたことか。
大きな深呼吸を10度して、アンはドアノッカーを持ち上げた。金色のリングを扉に打ち付ければ、ゴンゴンと思いのほか大きな音がした。
邸宅の扉が開かれたのは、ドアノックからたっぷりと20秒は経った頃だった。扉の内側から姿を現した者はドレスフィード家に仕える使用人の1人、名をドロシーという。
ドロシーはアンの姿を見るなり、老いた顔に笑いじわを作った。
「アン様、お帰りなさいませ」
まるで家出中であることを忘れるかのようなドロシーの出迎えに、アンは少し戸惑った。
「お帰りって……あたし、帰ってきたわけじゃないからね。親父に呼ばれたからちょっと来ただけ。用事が済んだらすぐにお暇するんだから」
「ええ、ええ。存じておりますよ。ささ、どうぞお入りくださいませ。ローマン様がお待ちでございます」
ドロシーに招き入れられて、アンは2年ぶりにドレスフィード邸へと立ち入った。
よく整頓された長い廊下は、ぶどうの甘い香りで満たされていた。ドレスフィード邸には試飲用のワインが頻繁に持ち込まれる他、収穫直後のぶどうや圧搾後の果汁が届けられることもある。
だからドレスフィード邸には、アンの記憶にある限りいつも甘い香りがただよっていた。
懐かしい香りにふんふんと鼻を動かすアンの耳に、ドロシーの穏やかな声が届いた。
「今日のワンピースはアン様の私物でございますか?」
「ううん、アリス姉さんが買ってきてくれたんだ。喧嘩の火種は少しでも少ない方がいいからって。ほら、あたしと親父、服の趣味が全然違うから」
「そうでございましたか。よくお似合いですよ」
ドロシーが力強くそう言うものだから、アンは「そうかなぁ」とつぶやいた。
今、アンが着ているのは薄桃色のシフォンワンピースだ。ワンピース全体がふわふわと柔らかで、胸元には上品な花の刺繍がほどこされている。
そこにかかとの高いヒールを合わせ、髪型はくせの目立たないまん丸お団子。化粧もばっちりだ。
繁華街で暮らしていると、毎日の化粧や服装にはあまり気をつかわないから、こうして着飾るのは2年ぶりのことである。
間もなくして、アンとドロシーは長い廊下の最奥へとたどり着いた。どっしりと構える扉の向こう側は、邸宅の主であるローマンの書斎。アンにとっては魔王の棲み処も同然の場所だ。
つやつやに磨かれた取っ手を握り、アンはドロシーを振り返った。
「じゃあドロシー、行ってくるよ。先に言っておくんだけど……花瓶とか壊しちゃったらごめんね。別に積極的に喧嘩をするつもりはないんだけど、話の内容によってはちょっと応酬が激しくなるかもしれないというか……」
ドロシーは何でもないというように微笑んだ。
「多少の物損については覚悟しておりますよ。高価な花瓶と絵画については、午前中のうちに書斎から運び出しました」
「……あ、そう。準備万端だね」
さすがドレスフィード邸最古参の使用人、アンとローマンの因縁についてはよく理解している。
ならば後は極力穏便に話し合いを終えるだけだと、アンはゆううつな気持ちで書斎の扉を開けた。
***
2年ぶりに立ち入った父の書斎は、アンの記憶から何も変わっていなかった。部屋一面の本棚と、本棚にぎっしりと詰め込まれた無数の書物。持ち出し禁止の帳簿も数多く保管している場所であるだけに、部屋には小窓1つ存在しない。
圧迫感と息苦しさを感じる部屋だ。
書斎の中央にはソファが置かれており、部屋の主であるローマンと、夫人のエマが腰かけていた。ドレスフィード家の夫人――つまりはアンの母親ということだ。
アンの顔を見るなり、エマは花がほころんだように笑った。
「アン、久しぶりね。元気そうでよかった」
アンはぶっきらぼうに答えた。
「おかげさまで」
「お仕事は順調なの? 困ったことはない?」
「ないない、毎日楽しくやってるよ」
アンが王都の繁華街で暮らしていることをエマは知っている。たびたびアンの自宅を訪れるアリスが、エマに情報を流しているからだ。離れていても母は母。遠く離れた土地で1人暮らしをする娘の生活は、明日の天気よりも気にかかるのだ。
会話を続けようとエマがまた口を開きかけたとき、雷鳴にも似たローマンの声が響き渡った。
「エマ、余計な話をするんじゃない! 勝手に家を出たやつの生活など気にかける必要はないんだ!」
エマははっと口をつぐみ、それからローマンに向けて静かに頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
花が咲いたような笑顔は見る影もなく、それきり別人のように黙り込んでしまった。
これがドレスフィード家だ。主であるローマンが絶対的な権力を持ち、夫人であるエマは彼に逆らうことができない。
そうというのもエマが貴族の生まれではないからだ。
今からもう40年も昔、リーウの町にはこれといった特産品もなく、ただ寂れただけの土地だった。
そしてエマの両親は、そのリーウの片隅で醸造所を営んでいた。リーウの町に住まう者以外は、その存在すら知らないような小さな醸造所だ。
その醸造所に目をつけたのが、当時リーウの町を治めていたランドル・ドレスフィード――ローマンの父だ。
ランドルはエマをローマンの妻にすることを条件に、エマの生家から醸造技術をただ同然で買い上げた。そして町の予算を使って広大な土地を開墾し、町をあげてのワイン用ぶどうの栽培に着手したのだ。
初めのうちこそ無名であったリーウのワインは、時とともにその名を広め、今や貴族の中にも愛好者は多い。これは町をあげてのワイン生産に着手したランドルと、そして数々の画期的な方法によりリーウのワインを世に知らしめたローマンの功績である。
リーウが王国有数のワインの産地として名を馳せたのは、エマの生家が持っていた醸造技術によるものが大きい。しかし恩があるとはいってもしょせんは庶民と貴族なのだ。
だからエマはローマンに逆らうことができない。アンに向かって「家を出ていけ」と叫ぶローマンを宥めることもできなかったし、ローマンの許しがなければアンの元を訪れることもできない。どこまでも哀れな人だ。
人形のように黙り込んだエマを気にも留めず、ローマンは話しだした。
「本日の要件は1つ、お前の将来に関わることだ。ティルミナ王国の王室グランド家より、1か月ほど前に告知があった。第6王子であるアーサー・グランド殿下の結婚相手を広く募るのだと。アン、お前の名前で結婚を申し込む」
ローマンに伝えられた内容を、アンはすぐに理解することができなかった。王室、王子、結婚。3つの単語がぐるぐると頭の中をめぐり、そうしてたっぷりと10秒は経った頃、アンはようやくその意味を正しく理解するのであった。
「結婚? あたしが? 第6王子とぉ⁉ いやいや……絶対無理でしょ」
貴族間の政略結婚が一般的であるティルミナ王国では、王族の関係者が結婚適齢期を迎えたとなれば、津々浦々より結婚の申し込みが殺到するのは恒例だ。
特に王位継承権を持つ王子の結婚となれば、全国各地の貴族がこぞって娘を差し出そうとする。それも一族の中で最も美しく、最も才能にあふれた秘蔵の娘を。
侯爵家の三女であるアンは、王子の結婚相手として表面的には問題がない。しかし数々の令嬢が結婚相手として名乗りをあげる中、何のとりえもないアンが選ばれるはずはなかった。
「無理無理、絶対無理。書類を書くだけ無駄だってば。止めた方がいいよ」
アンは必死に説得をこころみるけれど、ローマンがアンの意見を取り入れてくれるはずもなし。不愛想に鼻を鳴らし、冷たい口調で吐き捨てた。
「アーサー殿下は王位継承権を失ったも同然の人物だ。そのような人物に愛娘を嫁がせようとする貴族は多くない。つまりお前のような出来損ないでも、選ばれる可能性は十分にあるということだ」
「王位継承権を失ったって……それ、一体どういうこと?」
「それくらいのことは自分で調べろ。貴族界では有名な話だ」
ローマンはそこで話を切り上げ、1枚の紙とペンをアンの方へ差し出した。
その紙には何やら難しい文章が書き連ねられていて、末尾にはまだ空欄のままの署名欄がある。そこに署名をしろ、ということらしい。
――勝手なことは止めてよ、あたしは結婚なんてしない
口をついて出かけた怒号を、アンは寸でのところで飲み込んだ。
ティルミナ王国の貴族の間では戦略結婚が当たり前、自由恋愛の末の結婚など夢のまた夢でしかない。長女のアリスも、次女のアメリアも、ドレスフィード家の繁栄のために他家へと嫁いでいった。三女のアンだけが、その使命から逃れられるはずもない。
アンは震える手でペンを取り、空白の署名欄に名を刻む。
――アン・ドレスフィード