64.結婚前夜
ときは過ぎ、結婚式前夜。
入浴を終えたレオナルドがアーサー邸の廊下を歩いていると、廊下の一角に見慣れた横顔があった。
「グレン。こんなところで何をしている」
レオナルドが声をかけると、グレンは気まずそうに頭を掻いた。
「あー……別に何もしてねぇよ」
「そこはアン様の客室だろう。アン様に何か用事があったのか?」
グレンの目の前には客間の扉があった。結婚式を翌日に控えたアンが、昨日から滞在している客間の扉だ。
明らかに動揺しながらグレンは答えた。
「用事っつぅか……ほら、今夜はいつもより冷えるだろう。寒いようなら1枚余分に毛布を持ってきてやろうかと思って……」
「毛布なら足りていると思うぞ。バーバラが羽毛布団を運び込んでいたから」
レオナルドの言葉に、グレン途端に不貞腐れ顔となった。
「……あっそ。じゃあ別に用はねぇわ」
小さな声で吐き捨てて、グレンはその場を立ち去ろうとする。
――無理に理由など作らずとも、顔を見たいのなら扉を開ければいいだろうに
口を衝いて出かけた言葉を、レオナルドは寸でのところで飲み込んだ。
真っ当な助言をしたところで、今のグレンには受け入れてはもらえまい。
そういう奴なのだ。憎らしいほどに頭が回り、人を小馬鹿にする技に長けていて、そしてひどく臆病。目の前にある鍵のない扉を、いつまで経っても開くことができずにいる。
遠ざかっていくグレンの背中に、レオナルドは大声で語りかけた。
「グレン、1杯付き合わないか? 結婚式の前祝いだ」
ぴたりと歩みが止めたグレンが言うことには、
「……まぁ、別にいいけど。この後予定もねぇし」
***
ダイニングルームに移動したレオナルドとグレンは、手早く酒盛りの準備をした。
レオナルドは床下収納から程よく寝かせた白ワインを取り出し、グレンはテーブルの上に2つのワイングラスを並べる。つまみは夕食の残りの炙りベーコン。胡椒の利いたベーコンは、辛口の白ワインによく合うだろう。
「乾杯」
ちん、と音を立てて2つのグラスが打ち鳴らされた。
白ワインを一口口に含み、レオナルドは言った。
「無事に明日を迎えられそうで本当によかった。何かと苦労も多かったがな」
およそ2か月にわたり準備を続けた手作りの結婚式。明日の昼過ぎに開催されるその小さな結婚式によって、アンは正式にアーサーの妻となる。記念すべき日だ。
しかしグレンの表情は冴えない。グラスのワインに口をつけることもせず、冴えない表情であいまいに言葉を返す。
「そうだな……確かに苦労は多かった」
「予算がつけられていないのだから仕方のないことだがな。しかし苦労のしがいもあったというものだ。あのアン様がアーサー殿下の妻になられるのだから」
「そうだな……確かにめでたいことだ」
「一緒に枝豆を植えたあの日から、私はすっかりアン様の虜だ。まさか畑仕事をこころよく引き受けてくれる貴族のご令嬢がいようとは。リナもバーバラもジェフも、みなアン様を気に入っている。主の妻として迎え入れるのに、これ以上の適任はいないだろう」
「そうだな……確かに適任だ」
レオナルドが語れば語るだけ、グレンの表情は不機嫌になっていく。肯定の言葉を返しはするが、そんなことはまるで思っていないという本音が透けて見えるようだ。
グラスに2杯目の白ワインを注ぎ入れながら、レオナルドは溜息を吐いた。
「なぁグレン、いい加減に教えてくれないか。アン様との間に何があったんだ?」
グレンは強い口調で言い返した。
「何度も言ってるだろ。別に何もねぇって」
「しかしハート商会の事件以後、お前とアン様は明らかにギクシャクしているじゃないか。以前はあんなに仲が良かったのに、今はまるで赤の他人のようだ」
「適切な距離感を測り直しただけだ。主の妻となるご令嬢に、必要以上にベタベタするわけにはいかねぇだろ」
レオナルドはグラスを手に質問を続けた。
「ではアン様が、アーサー殿下との結婚を決意なされた理由は? 殿下との結婚を避けるために、素性調査に協力していたんじゃなかったのか」
グレンはうつむき、小さな声で答えた。
「……その辺の事情も知らねぇっつうの。何度か顔を合わせるうちに、アーサ王子に情が湧いたんじゃねぇの」
実はレオナルドとグレンがこの話をするのは、今夜が初めてのことではない。レオナルドは今までにも何度か、グレンに対して同じことを尋ねてるのだ。
しかしいつだって返される言葉は同じ。何もない、知らない、とそれだけだ。
アンとグレンの相性のよさには目を見張るものがあった。一見すれば不仲とも思われる場面もあったが、それは互いに本音を言える仲だったからだ。
レオナルドは、アンとグレンがぎゃあぎゃあと言い合うところを見るのが好きだった。
けれどもシャルロット・ハートの素性調査を終えたその日から、アンとグレンの間には見えない壁ができてしまったかのようだ。
その壁が永久に壊れることのない壁だというのなら、それはそれで仕方のないことだとは思う。
しかし――
「グレン、本当にこのままでいいのか?」
含みのある質問に、グレンはことさら不機嫌になった。
「……何がだよ」
「アン様のことだ。この邸宅の者はみなアン様のことを好いている。アン様がアーサー殿下の妻になることに不満を抱く者はいない。だがお前は、本当にこの先にある未来を受け入れられるのか?」
「俺が受け入れる、受け入れないは問題じゃねぇだろ。今お前が言ったことが全てだ。アンとアーサーの結婚に不満を抱く者はいない。アン自身もこの結婚を受け入れている。考えうる限り最善の未来じゃないか」
「しかしだな、グレン」
だん、と大きな音がレオナルドの声をさえぎった。グレンがダイニングテーブルを叩いた音だ。
「直前になって口やかましい奴だな! 俺がそれでいいと言っているんだから、ぐだぐだ説教を垂れるんじゃねぇよ!」
グレンは満杯のワインを一息で飲み干し、席を立った。
「1杯は付き合ったし、俺はもう寝るぞ。じゃあな」
ドタドタとやかましい足音を立てて、グレンはダイニングルームから出て行った。
残されたレオナルドは2杯目となるワインに口をつけ、グレンの言葉を思い返した。
「……最善の未来、か」
確かにアンをアーサーの妻として迎えることは、思いつく限りでは最善の未来だ。
1人暮らしを経験しているアンは家事をすることに抵抗がないだろうし、専属の侍女がつかないことに文句も言わない。豪勢ではない食事も、庶民同様の衣服も、文句一つ言わずに受け入れるだろう。
レオナルドと一緒に作物の種をまき、バーバラと一緒に邸宅の掃除に精を出し、リナと一緒にアーサーの生活介助を行う。そんな退屈な日々に、アンはきっとささやかな幸せを感じてくれるはずだ。
穏やかな日々は未来永劫、続いていく。
主の命が尽きるまで。
ひっそりと静まり返ったダイニングルームで、レオナルドは2杯目となる祝い酒を空けた。
「だがなグレン。私には皆が密かに願う、『最高の未来』があるように思えてならないんだ」
次、最終章です!




