62.シェリー
その日、アンは2か月ぶりに繁華街の自宅を訪れていた。
訪問の目的は部屋の片付け。グレン相手に『アーサーの妻となる宣言』をした後、アンはろくに片付けもしないまま自宅を飛び出してしまった。食品は放置したままだし、貴重品もクローゼットの中に残したまま。
だからアンは今日、父母の了承を得た上で、懐かしい自宅へとはるばる足を運んだのである。
2か月ぶりに立ち入った自宅で、アンはせっせと片付けに励んだ。痛んだ食品は袋に入れてゴミ捨て場へ、本はひもで縛って部屋の隅に積み上げておく。クローゼットの中の服や靴も、基本的には全てゴミ袋行きだ。
貴族の鑑であるローマンは、ドレスフィード邸に『貴族らしからぬ物』が持ち込まれることを良しとしなかった。アンが繁華街で買い集めた私物は、本邸に持ち帰らず全て捨ててしまわなければならない。
服も靴も食器も本も、一つ残らず。
虚しいもんだね、とアンは心の中でつぶやいた。
2年前、アンは自由を求めて父の元から逃げ出した。生きているだけで蔑まれる生活はもうごめんだと思ったからだ。
小さなカバンに入るだけの荷物を詰めて、わずかばかりの小遣いを握りしめて、家を飛び出した。繁華街の一角に小さな家を借り、食うに困らないだけの職を得て、そうして2年の月日が経った。
けれども結局、自由になどなれなかった。アンは父の決めた結婚を受け入れ、アーサーの元に嫁ごうとしている。家の繁栄を目的とした愛のない結婚だ。
繁華街で過ごした2年は今や幻。
仮初の自由を経てあるべき生活へと戻っていく。
大勢の貴族の令嬢と同じように。
日が傾きかけた頃、アンは部屋の片付けを一区切りにした。
部屋にはまだまだたくさんの荷物が残っているけれど、どれだけ急いだところでたった1日で片付けが終わるはずはないのだ。今日終わらなかった分は、後日ドレスフィード家の使用人が数人がかりで片付けてくれる手筈になっている。
アンが父母を説得してまで繁華街の自宅を訪れた理由は、片付けの他にもう一つやらなければならないことがあったから。
「さて、と。最後のお仕事だ」
アンは壁にかけてある男物のシャツを手に取った。
***
午後4時を少し回った頃、アンドレは繁華街にあるとある酒場へと立ち入った。
酒場の開店時刻は午後5時が一般的だから、今はまだ開店前だ。磨き上げられたウォルナットのテーブル、酒瓶の並べられた飾り棚、まだ炎の灯らない吊るしランタン。こっくりとした風景が目の前に広がっている。
ドアベルの音を聞きつけたのだろう、間もなくカウンターテーブルには1人の女性が顔を出した。高く結ばれたポニーテール、はっきりとした目鼻立ち、酒場の店主であるシェリーだ。
開店準備真っ最中のシェリーは、アンドレを見て「あら」と声をあげた。
「アンドレ、久しぶりじゃないの」
「シェリーさん、久しぶり。何も言わずにご無沙汰してごめんね」
アンドレが軽い調子で謝罪すれば、シェリーもまた軽い調子でアンドレを諫めた。
「本当さ。アンドレが来なくなったこの2か月間、店の売り上げがどれだけ落ちたことか。体調でも崩していたの?」
「いやいや、身体はすこぶる元気だよ。ちょっと色々忙しくてさ。繁華街に足を運ぶ暇がなかったんだ」
「ふぅん……まぁ元気だったならいいんだけどさ。それで、今日はどうしたの? 酒場の開店にはまだずいぶんと早いよ」
柱時計を指さしながら、シェリーは不思議そうな表情だ。
アンドレは一呼吸を置いて話し始めた。
「今日は、さ。お別れの挨拶に来たんだ」
「お別れ? 一体どういうこと?」
「実は僕、結婚することになったんだ。だからホスト業は廃業しようと思って」
不思議そうな表情から一変、シェリーは満面の笑顔になった。
「アンドレが結婚⁉ へぇ、それはめでたいニュースだ。おめでとう! まさかお相手は、この酒場で出会ったご令嬢かい?」
アンドレは笑いながら答えた。
「貴族ではあるけれど、ホスト業とは無関係の人かな」
「そっかそっか、それは本当にめでたい。確かに妻帯したんじゃ、ご令嬢相手のホストなんてやってらんないね。残念だけど仕方がない。これからは私の魅力で客を引き込むことにするよ」
シェリーはからからと声を立てて笑った。
さっぱりとした性格のシェリーは、男性客からも女性客からも人気が厚い。「アンドレがいなくて店の売り上げが落ちた」などとは零しながらも、シェリーの客引きだけで十分な客を集めることはできるのだ。
そしてそれは他の酒場でも同じこと。アンドレがいればアンドレを頼るけれど、いなければいないで問題はない。そうして繁華街の人々は皆、いつかアンドレのことを忘れてしまう。
もの悲しさを感じながら、アンドレはまた口を開いた。
「シェリーさん、お願いがあるんだけどさ。僕がよく足を運んでいた酒場の店主勢に、今の話を伝えておいてくれないかな。たまたま会ったときで構わないから」
「それは別に構わないけれど……自分の口から別れを言わなくていいのかい?」
「結婚相手の家族に『もう酒場には顔を出さない』って言っちゃったんだ。でもさすがに、誰にも何も言わずに廃業するわけにはいかないでしょう。だからシェリーさんにだけは伝えにきたんだ。まだ開店前だし、ぎりぎりセーフかなって」
アンドレはまだ座る者のいないカウンター席に視線を送った。そこで初めてクロエと出会った。あのときクロエと話をしなければ、今この未来はどう変わっていたのだろう?
「事情はわかったよ。すぐにとは約束できないけれど、ぼちぼち伝えておく」
懐かしい思い出に浸っていたアンドレは、シェリーの声で我に返った。
「……ありがと。面倒かけて悪いね」
「いえいえ、アンドレには世話になったからね。このくらいの頼みは引き受けて当然さ」
「じゃあ用事は済んだし、僕はもう行こうかな。シェリーさん、さよなら。お元気で」
カウンターテーブルを一撫でし、アンドレはシェリーに背を向けた。
扉を押し開ける最中、優しい声が背中にあたった。
「アンドレぇ。ホスト業は廃業しても、たまには遊びに来なよね。酒場に顔を出すのがまずいってなら今日くらいの時間でもいいからさ。実は私、酒だけじゃなくて紅茶を淹れるのも得意なんだ」
シェリーの誘いには微笑みだけを返し、アンドレは酒場の扉をくぐった。
涙が出るほど嬉しい誘いではあるけれど、もうこの扉をくぐることはない。
――「またね」ではなく「さよなら」さ
70話で完結します。もう少しだー!
ちょっと苦しい展開ですがお付き合いください!




