6.嘘吐き
半信半疑の問いかけであった。しかしその問いかけに反応するように、クロエはぴたりと身動きを止めた。
「……嘘、とは一体どういうことかしら?」
「クロエは本当にイザベラ嬢とお友達なのかな、ってこと。もしかしてだけど、イザベラ嬢も君の主の結婚候補者? 友達関係を捏造して素性調査をしていたのかな?」
クロエが嘘を吐いている、そう感じたことに深い理由はなかった。ただそうであったとしても話の筋は通ると思っただけ。
2週間前、クロエはイザベラの素性調査のために初めて夜の繁華街を訪れた。そしてイザベラとの友人関係を捏造し、アンドレの同情を買うことで、まんまと目的の情報を手に入れたのだ。
アンドレに利用価値を見いだしたクロエは、今度は真実を明かした上で、素性調査への協力を仰ごうと考えた――
これらは全てアンドレの想像に過ぎなかった。しかし微動だにしないクロエの様子から察するに、あながち間違いではなさそうだ。
クロエの紅い唇がゆっくりと動いた。
「……そうだと言ったらどうするの」
アンドレは何ともないというように肩をすくめた。
「別にどうもしないよ。ただ真実を知りたいだけ。貴族間の結婚に素性調査が欠かせないということは知っている。素性調査が秘密裏に行われるべきだということも知っている。クロエが真実を隠して僕から情報を得たのだとしても、別に怒りはしないよ」
アンドレとクロエはしばらく無言で見つめ合った。
クロエの碧い目は夜空に浮かぶ星のよう。綺麗だな、とアンドレは呑気に考えた。
やがれクロエは溜息まじりに白状した。
「ご想像の通り、イザベラも主の結婚候補者の1人よ」
「あ、やっぱりそうなの。素性調査の結果はどうだった? クロエの話を聞く限り、品行方正なご令嬢とは程遠い存在のようだったけど」
「母親の読み通り、イザベラは繁華街で恋人を作っていたわ。その恋人とはまだ2か月程度の付き合いだけど、ゆくゆくは駆け落ちを考えているんですって。家も名前も捨ててどこか遠い国に逃げるのだとイザベラは話していたわ」
「話していたって、どこで?」
「アンドレ様に教えていただいた『デイジー』という名の酒場よ。数日張り込んでいたら、すんなり会うことができたわ。好物だというグラスホッパーを数杯ご馳走したら、恋人の情報についてもすんなり話してくれた。お相手の男性はデイジーの常連客らしいわ」
ふぅん、とアンドレはつぶやいた。
イザベラの両親がどのような人物であるかも、イザベラに用意された未来がどのような形であるかも、アンドレは知らない。けれど窮屈な生活を送っていたのだろうと想像はつく。
その他たくさんの貴族の若者と同じく、規律に縛られた生活を疎ましく思っていた。だからこそ両親に隠れて夜の繁華街に足を運び、デイジーの常連客と恋に落ちた。
イザベラの歩む道はどのような未来へと続いてゆくのだろう。富も地位も捨てて、本当にその男性と駆け落ちするのか。それとも直前で思いとどまって、あるべき生活へと戻ってゆくのか。
しかし愛する男性と1度は結婚まで考えたイザベラが、窮屈な貴族の生活に戻ることなどできるのか?
アンドレは頭を振って、意味のない想像を振り払った。酒場で数度顔を合わせただけの人の未来など知らない。今のアンドレにとってはクロエとの会話が最優先事項だ。
「クロエ、正直に話してくれてありがとう。でも悪いんだけど、素性調査に協力するという話はなかったことにしてくれるかな」
アンドレが淡々と告げれば、クロエは目を見開いた。
「……なぜ? イザベラの件で嘘を吐いていたから? 怒りはしない、と言ったじゃない」
「別に怒ってはいないよ。クロエのことを責めるつもりもない。ただ僕の気持ちの問題かな。嘘を吐いていたことを咎めるつもりはないけれど、僕が嘘だと気づく前に謝罪してほしかった。『実はイザベラの件も素性調査の一環だったの、嘘を吐いてごめんなさい』って。他人と長く付き合っていこうと思うなら、そういう小さな誠意って大事だよね。まぁ、今更どうにもならないことだけど」
アンドレはクロエから視線を外し、言葉を続けた。
「そういう事だから、僕はもうクロエには協力できない。ローラ嬢に関する情報は好きに使ってもらって構わないよ。報酬はいらないからさ」
とりつく島もなく言い放った、次の瞬間だ。
音もなく伸ばされたクロエの右手が、アンドレの肩を強く押した。脱力状態であったアンドレは、なす術もなくベッドの上に押し倒された。
「何――」
その先を言う間もなく、クロエはアンドレの腹の上に馬乗りとなった。一時前までの戸惑った様子はどこへ行ったのやら。黒髪をかきあげ憎らしげに笑う。
「嘘の何が悪いのよ。あなただって嘘を吐いているじゃない。ねぇアンドレ様」
「……嘘を吐いている? 僕が?」
「そうよ。あなたの本当の名前はアンドレではないでしょう?」
突然の指摘にアンドレの心臓は跳ねた。しかしアンドレとて会話のプロだ、本音を隠して会話をすることには慣れている。いつもと同じ声の調子で、できるだけゆっくりとした調子で答えた。
「アンドレは偽名ってこと? それは、そうかもしれないね。繁華街では偽名を使って仕事をする人など珍しくないもの」
「名前だけじゃないわ。あなたは顔も声も性別すらも偽っている。本物なのは、その蜜柑色の髪と瞳だけね」
今度は戸惑いを隠すことができなかった。背中に冷たい汗がにじみ、アンドレは頬を引きつらせた。
「な……んで。いや、待ってよ。百歩譲って顔と声は変えられても、性別を偽ることは不可能だよ。冗談は止めて」
クロエはアンドレの腹にまたがったまま、無防備な胸元に触れる。つつ、と挑発するように。
「魔法で姿を変えているのでしょう? 変貌魔法と呼ばれる、極めて高度で希少な魔法」
何もかも図星だった。うまくごまかさなければと思いながら、今のアンドレには黙り込む以外のことができなかった。心臓が嫌な音を立てて鳴っている。のどの奥が乾き、うまく呼吸をすることすらままならない。
無言のアンドレを見下ろし、クロエは「ふふ」と声を上げて笑った。
「アンドレ様ぁ。私、あなたの正体を知っているわよ。あなたはドレスフィード家の関係者。侯爵はローマン候、夫人の名はエマ。長女のアリスは王国屈指の上位貴族であるモーガン家に嫁いでいるわね。次女のアメリアも、2年前に音楽一族であるジェンキンス家へと嫁いでいる。そして三姉妹の中でただ1人未婚の三女。婚姻適齢期を迎えているはずなのに、婚約話の1つも持ち上がらない。ここ数年は社交の場に顔を出すこともない。謎の多いドレスフィード家の三女――これがあなたね」
――なぜ、気付かれるはずがないのに
アンドレは困惑した。
アンドレの正体を知る者はこの世界に誰1人としていない。ドレスフィード家の三女が変貌魔法を使えるという事実は、本人以外の誰も知らない。
貴族の家に仕えるクロエがどのような情報網を駆使したとしても、アンドレとドレスフィード家の三女を結びつけることなど出来るはずがないのだ。
クロエはアンドレの頬に触れ、にっこりと笑った。
「魔法を解いてあげましょうか」
「……やめて」
数ある魔法の中でも極めて希少で、極めて高度であるとされる変貌魔法。1度魔法で姿を変えてしまえば、例えどのような慧眼をもってしてもその者の正体を見破ることは不可能だ。
しかしその超人的な魔法にも、たった1つの弱点がある。それは『本当の名前』を呼ばれると魔法が解けてしまうということ。
つまり今、クロエがアンドレの『本当の名前』を呼べば、魔法は解けてしまうということだ。
アンドレは「やめて、やめて」としきりに繰り返した。
しかしクロエはアンドレの制止など歯牙にもかけず、その名前を口にした。
「アンドレ様。あなたの本当の名前はアン・ドレスフィード」