5.協力依頼
要件を終えたアリスは、それから1時間と経たずにアンの自宅を後にした。
しんと静まり返った部屋で、黙々と食器の後片付けを済ませたアンは、いつもと同じように身支度を始める。身支度、とはすなわちアンドレとしての身支度のこと。今日も今日とて日銭を稼ぐために、繁華街へと足を運ぶのだ。
自宅を出たアンドレは、人通りの少ない住宅街をゆっくりと歩く。
ふと見上げた空は燃えるような夕焼け空だ。空をおおいつくしていた分厚い雲は晴れ、ところどころに残されたまだら雲が夕日を映している。空が雲が世界が、今にも燃え尽きてしまいそう。
「アンドレ様」
突然、背後から名を呼ばれた。振り返ってみれば道の真ん中に知った顔が立っていた。クロエだ。真っ黒なシャツワンピースを着たクロエが、夕風に黒髪をなびかせている。
アンドレは明るい声で、突然の遭遇者に挨拶をした。
「クロエ、久しぶり。元気にしてた?」
クロエは澄まし顔で答えた。
「少し忙しかったけれど、元気は元気よ」
「忙しかった、というのは例の件が原因かな? ほら、お友達のご令嬢の」
「そうよ。でもアンドレ様からいただいた情報のおかげで、綺麗さっぱり片付いたわ」
「ふぅん、そう。それはよかった。情報を提供したかいがあったよ」
アンドレは事件の顛末を気にかけながらも、それ以上問いただすことはしなかった。ここはたくさんの人が住まう住宅街、誰が2人の会話に聞き耳を立てているかわからないからだ。
一呼吸をおいて次の話題を振った。
「それでクロエは、こんなところで何をしているの?」
「あなたを探していたのよ、アンドレ様。まさか本当に会えるとは思わなかったけれど」
「え、僕? 何か急ぎの用事でもあった?」
アンドレが意外そうに返事をすると、クロエは忙しなく周囲の様子をうかがった。そこに人の姿がないことを確認し、声のトーンを落として語り始めた。
「繁華街の貴公子と名高いアンドレ様に仕事の依頼よ。また繁華街に出入りする令嬢の情報提供をお願いしたいの」
アンドレは慎重に返事をした。
「それはなぜ?」
「私が長年お仕えしている主のためよ。私の主にかなりの数の縁談が舞い込んでいて、お相手となる令嬢方の素性調査を行う必要があるの。本当は私1人で地道に調査を行うつもりだったのだけれど、予想以上に手間取っていてね。円滑な調査のために、アンドレ様の人脈と情報網をぜひともお借りしたいわ」
ふぅん、とアンドレはつぶやいた。
ティルミナ王国の貴族の間では、恋愛結婚よりも政略結婚が一般的だ。結婚は家同士の繋がりを強めるための便利な儀式であり、例えば商家同士が事業連携のために、年頃の娘と息子を結婚させるというのは間々ある出来事なのだ。
そして貴族同士の結婚では、婚前調査というものもまた一般的だ。政略結婚では、大抵の場合はほとんど面識のない男女が婚姻関係を結ぶことになる。
だからこそ結婚の当人またはその親が、金と時間をかけて結婚相手の素性を調べ上げるのだ。
学生時代の成績はどうであったか、たばこやギャンブルに手を出したことはあるか、浪費ぐせがないか。綿密な調査を行った上で、晴れて婚姻関係が結ばれることになる。
クロエの主は貴族である。主の結婚候補者について、クロエが素性を調査しているのだとすれば、それは何ら不自然なことではない。
そうだとはわかっていても、アンドレはクロエの依頼に対して渋い表情を作った。
「令嬢の素性調査かぁ……協力してあげたいのは山々だけど、他人の情報を売り物にするのは気が進まないな。イザベラ嬢の件はさ、事情が事情だから協力したけど」
クロエは強い口調で言い添えた。
「提供していただいた情報については、決して他に漏らさないと約束するわ。調査報告書をしたためる必要があるから、関係者数人の目に触れることは避けられないけれど。もちろん、情報提供者がアンドレ様であるということは誰にも言わない」
「うーん……」
アンドレは悩ましげにうなる。
アンドレだって貴族の関係者なのだから、素性調査の大切さは知っている。その大変さもだ。クロエの仕事に協力してあげたいという思いは多少なりともあるが、それ以上に「面倒事に足を突っ込みたくない」という気持ちの方が大きかった。
本当の顔と名前を隠して生活している以上、誰かと深い関係になることも避けたかった。
「……ごめん、やっぱり僕は協力できないから、誰か他を――」
「もし素性調査に協力いただけるのなら、調査対象の令嬢1人につき金貨10枚の報酬をお支払いするわ」
アンドレの断り文句をさえぎって、クロエは告げた。アンドレは思わず目を丸くした。
「……1人につき金貨10枚?」
「そう。その他に、調査にかかる費用については私の方で別途お支払いする。例えば調査のために行きつけ外の酒場を訪れたとなれば、そこの飲食代は私に請求していただいて結構よ」
ティルミナ王国における庶民の平均日当は金貨1枚、月にして金貨30枚程度だと言われている。アンドレの稼ぎも、月により増減はあれど、その数値から大きく外れることはない。
素性調査に協力するだけで、1人につき金貨10枚の報酬をもらえるというのは、非常に魅力的な提案だった。
渋顔から一転、アンドレはふっと表情を緩めた。
「そこまでの好条件を出されちゃ断るに断れないな。いいよ、協力しようじゃないか」
「助かるわ。では早速だけど、調査の詳細について話させてちょうだい。ついてきて」
クロエの背に続き、アンドレは住宅街を歩き始めた。
***
クロエが向かった先は、繁華街の一角にある小さな酒場だ。まだ開店前の酒場に客の姿はなく、老齢の女性店主が店開きの真っ最中。クロエはその女性店主に話しかけた。
「こんにちは。1時間ほど宿部屋をお借りできるかしら?」
「ええ、構いませんよ。話をするだけなら部屋代はいりませんからね」
「ありがとう」
クロエは女性店主から部屋の鍵を受け取ると、迷いなく店の奥側へと向かっていく。
アンドレはクロエの背を追いかけながら、小さな声で尋ねた。
「クロエはこの酒場の常連さんなの?」
「常連、というほどではないわよ。素性調査のために何度か足を運んだだけ。アンドレ様のいるところほどではないけれど、この酒場にもそこそこ貴族の令嬢方が集まるのよ」
「ふぅん。でも僕に協力を依頼したということは、この酒場で大した情報は得られなかったんだ?」
アンドレは冗談めかして言うが、クロエは言葉を返さなかった。
2人は酒場の2階にある宿部屋と立ち入った。質素なベッドといくつかの家具を備えただけの手狭な部屋だ。それでもここならば座って話をすることができるし、他人に話を聞かれる心配もない。
アンドレは迷ったあげくベッドに腰を下ろし、一方のクロエはアンドレの目の前に仁王立ちしたまま、腕を組んで話し始めた。
「調査に協力いただきたい令嬢は4人。ドリー・メイソン、ローラ・クロフォード、イェレナ・ハンス、シャルロット・ハート。この4人の中で、面識のある令嬢はいらっしゃるかしら?」
アンドレは少し考え込んだ後、答えた。
「ローラ・クロフォード嬢と、イェレナ・ハンス嬢とは面識があるよ。他の2人はわからないな。繁華街を訪れるご令嬢の中には、本名を明かさず偽名を名乗っている人も多いから、絶対に知らないとは言い切れないけど」
十分だわ、とクロエは微笑んだ。
「それならまずはローラ嬢とイェレナ嬢について、知っていることを教えてちょうだい」
「OK.ローラ嬢は、貴族の令嬢にしてはかなり長く繋華街に通っているね。僕が繋華街で働き始めたのが2年前……その頃には、もうすでにこの場所に精通していたもの」
クロエは不思議そうに口を挟んだ。
「ご両親が繋華街通いを容認しているのかしら?」
「いやいや全然、そんなことはないよ。過去に一度繁華街通いがばれて、こっぴどく叱られたと言っていたもの。それ以降は両親の不在を狙って繋華街を訪れているみたいだよ。ローラ嬢の生家は王国の各地に鉱山を所有しておられるでしょう。ご両親は鉱山の視察のために、月に数度家を空けられるんだって」
ローラに関する記憶をたどっているうちに、アンドレは彼女とのとある会話を思い出した。
「そういえば、繁華街通いがばれてから小遣いの額を減らされたと話していたな。でも繁華街で遊ぶためにはそこそこのお金が必要だから、自分で稼いでいるんだって」
「どうやって?」
「商品の横流しだよ。ローラ嬢は、鉱山から発掘された宝石の原石を倉庫からこっそり持ち出して、売りさばいているんだ」
ローラの生家であるクロフォード家は、ティルミナ王国有数の上位貴族である。王国の各地にある鉱山地帯の大半はクロフォード家の所有地であり、希少な鉱物や天然石の原石がざっくざっくと発掘される。
そしてクロフォード家の屋敷に隣接する物置には、例えば品質検分のために、たくさんの鉱物が保管されている。ローラは繁華街で遊ぶ金欲しさに、時々その鉱物を盗み出しているのだ。
ローラの秘密を目の当たりにして、クロエは不愉快そうに吐き捨てた。
「犯罪じゃないの」
「見方によってはそうなのかもね。ローラ嬢のお金の出所がどこかなんて、僕にはあまり関係のないことだけど。もし横流しの証拠が欲しければ、ローラ嬢から商品の横流し先を聞いてきてあげるよ。僕が相手ならすんなり教えてくれると思うし」
「……本当に、あなたは大した人ね」
クロエがそれ以上ローラについては言及しなかったので、アンドレは次の話題に移った。もう1人の調査対象者であるイェレナ・ハンスについての話題だ。
「イェレナ嬢と初めて会ったのは半年くらい前だったかな。お友達に誘われて繫華街を訪れたのだと言っていた。その後2か月くらいは頻繁に顔を見かけたけど、今はめっきり会わなくなったな」
「繁華街通いを止めたのかしら?」
「ううん、そうじゃない。イェレナ嬢が僕のテリトリー外の酒場に出入りするようになったんだ。ほら、イザベラ嬢のときと同じでさ――」
何となく口にしたイザベラの名で、アンドレは2週間前の会話を思い出した。
イザベラの友人を名乗ったクロエ。イザベラが許されない恋をしているのだとすれば、彼女の未来のためにその恋を止めさせたいのだと言った。アンドレは金貨を対価にしてクロエに情報を渡した。
そう、それは今日とまるで同じ状況だ。
おや、とアンドレは思う。
「ねぇクロエ。君、もしかして僕に嘘を吐いた?」