41.淑女の変貌
クロエを見送った後は、楽しいお仕事の時間だ。
連れがいなくなったアンドレの元には、女性客がひっきりなしにやってきた。
アンドレはそんな女性たちの腰を抱き、耳元で甘い言葉をささやき、求められれば手の甲や頬にキスをする。「もてなし」仕事は今夜も絶好調だ。
満席状態の店内を見回し、店主シェリーも満足そうだ。
午後11時を少し回った頃、アンドレはシェリーの酒場を出た。違う酒場に顔を出そうかとも迷ったが、繁華街の北端にある『リトルプラネット』へと足を向けることを決めた。ドリーに会うためだ。
アンドレがドリーに『魔女の妙薬』を手渡したのは、今日からもう2週間も前のこと。もしも2週間のあいだ薬の服用を続けていれば、ドリーの容姿はどう変化しているのだろうと、考えれば少しだけ楽しみだった。
そして繁華街のメイン通りを歩くうちに、偶然にもドリーに出くわした。
「アンドレ様!」
アンドレの姿を認めるや否や、ドリーは表情を明るくしてアンドレの元へと走り寄ってきた。初めて会ったときの自信なさげな様子からは想像もできない、夜闇に咲くひまわりのような笑みだ。
アンドレはその輝かしさに圧倒され、言葉に詰まった。
「……ドリー、久しぶりだね。『リトルプラネット』の帰り?」
「いえ、最近は『リトルプラネット』には通っていないんです。今日も別の酒場で行っていました」
ふぅん? とアンドレは曖昧な相槌を打った。
心の中に違和感が芽生えた。ドリーでの繁華街の活動範囲はリトルプラネットに限られていたはずだ。そして先ほど見た、以前の姿からは想像できない華やかな笑み。
黙り込むアンドレの横顔に、無遠慮な視線が突き刺さった。視線の元は無精ひげを生やした男性だ。茶革の上着にくたびれたシャツ、繁華街でよく見かける一般労働者のいで立ちだ。
その男性がドリーの連れであることに気付き、アンドレは慎重に言葉を選んだ。
「お連れ様がお待ちだよ。今度シンシア様と3人でパフェを食べに行こう。そのときに色々と話を聞かせてね」
その無精ひげの男性がドリーの想い人なのだろうか、とアンドレは考えた。
しかしどうもしっくりこなかった。以前マッドアップルで話をしたとき、ドリーは想い人について「会うことすら困難」「想ってはいけない立場のお方」と形容した。だからアンドレは、ドリーの想い人は貴族の関係者であると推測したのだ。
疑問を残しながらも、アンドレは繫華街を歩き出そうとする。誰であれ連れがいるのならば、ドリーを問い詰めるのは次の機会でいいと思ったからだ。
しかしアンドレの歩みは数歩のところで引き留められた。他ならぬドリーによって。
「アンドレ様。この後予定がないのでしたら、私と一緒に遊びましょう?」
左腕にぬくもりを感じ、アンドレは視線を落とした。ひまわりのような微笑みを浮かべたドリーが、アンドレの左腕にしなやかな肉体を絡ませていた。
アンドレは困惑した。
「遊ぶって……え? だって後ろの彼は?」
「彼とはもう遊んだ後なんです。向かう方向が同じだったから、一緒に歩いていただけ」
「遊んだ、後?」
アンドレは無精ひげの男性を凝視した。男性はズボンのポケットに両手のひらを突っ込み、じっとアンドレを見据えているが、その眼差しに威嚇の色はない。アンドレを敵対視しているのではなく、単純にアンドレが何者かと気にかけているだけのようにも見える。
やはり男性は、ドリーが想いを寄せる相手ではない。
「今日はありがとう。また遊びましょうね」
ドリーがそう挨拶をすると、無精ひげの男性は何のためらいもなくその場を立ち去った。人混みに紛れていく男性の背中を、アンドレは狐につままれた心地で見送った。
――これは一体どういうことなのだ?
蜂蜜のように甘い声音が、アンドレの思考をさえぎった。
「アンドレ様、ねぇアンドレ様。一緒に遊んでくださらないの?」
ドリーの両腕がアンドレの首元に回された。まるで恋人同士の抱擁だ。熱い吐息が頬にかかり、アンドレの胸はどきりと高鳴った。
しだいにドクドクと、嫌な音を立てて。
「……さっきの男性とは、一体何をして遊んでいたの?」
ドリーはぱちぱちと目をまたたいた。
「何って……」
なぜそんなわかりきったことを尋ねるの、とドリーは不思議そうだ。
くらくらと眩暈を覚えながら、アンドレはドリーの首筋を落とした。柔らかな肌に刻まれたいくつもの鬱血跡、ごまかすことのできない男女の情事の証だ。
苦しいほどに心臓が鳴る。
唇が渇き、声がかすれる。
「ドリー……2人きりで話がしたい。今すぐに」
アンドレの願いに、ドリーは言葉もなくうなずいた。
***
アンドレとドリーは、メイン通りから外れた路地裏に身をよせた。
本当であれば宿部屋に入り、人目を気にすることなく話をしたかったけれど、そうするだけの余裕がアンドレにはなかった。一刻も早くドリーと話をしなければ手遅れになってしまう、そんな予感がひしひしとしていたから。
人通りのない路地裏は薄暗く、淀んだ空気に満ちていた。
付近に人の姿がないことを再三確認し、アンドレは強い口調で問い詰めた。
「さっきの男性は誰? ドリーの片思いの相手ではないよね?」
ドリーは隠そうともせずに答えた。
「酒場でたまたま会った人です。話すうちに意気投合して、遊びに行こうかという話になったんです」
「遊ぶって……その、あの人と身体を重ねたの?」
「そう」
淀みのない答えだ。
アンドレはまた眩暈を覚え、路地の壁に背中をついた。薄汚れた石壁からは夜の冷たさが伝わってきて、手足は急速に体温を失っていく。それでもまだ目の前の現実を現実だとは信じたくなくて、アンドレは縋るように言った。
「ドリー……何でそんなことになっちゃったの? 魔女の妙薬を飲んで、自分に自信をつけて、片思いの相手に『愛している』と伝えるんじゃなかったの?」
満点の星空の下で『決して結ばれることのないあの人に、私の想いを伝えたい』と言ったドリー。だからアンドレはドリーに魔女の妙薬を渡した。どうかその願いを叶えて、と激励の気持ちを込めて。
ドリーはうつろに視線を泳がせ、ぽつりと言った。
「魔女の妙薬を飲んだから……」
「え?」
「魔女の妙薬を飲むと、とても気分がよくなるんです。ふわふわとして心地よくて、そしてとても楽しい気分になれる。この薬が効いているとき、私は自分に自信が持てるんです。表情が明るくなって、嫌いだったお茶会も怖くない。酒場で知らない男性と話をするのも楽しいんです。皆が私を見て『笑顔が可愛い』と言ってくれるから」
「……それが魔女の妙薬の効果だということ?」
ドリーの言葉を信じるのなら、魔女の妙薬は肉体に変化をもたらす薬ではなく、精神面に影響を与える薬だということだ。
アルコールのようなものだろうか、とアンドレは推測した。飲めば不安から解放され、一時的に気分が明るくなる。だから服用者の顔には笑顔が増えて、他人の目には『美しくなった』と感じられる。
確かに2週間ぶりに会ったドリーは、表情こそ明るくなったけれど、顔立ちに変化があるようには見えなかった。
そこまで考えて、アンドレはふるふると頭を振った。
魔女の妙薬の正確な効果などこの際どうでもよかった。今、重要なのは目の前にいるドリーのこと。魔女の妙薬のおかげで自分に自信が持てたのは良いことだが、今夜のドリーの行いは褒められたことではない。
アンドレはドリーの瞳を見つめ、諭すように言った。
「『笑顔が可愛い』と言われて嬉しくなる気持ちはわかるよ。けど安易な気持ちで他人と身体を重ねるのはいいことではない。ドリーには好きな人がいる。縁談だってある。夜遊びは今日でおしまいにして、僕と一緒に今後のことを考えよう」
ドリーはすぐにうなずいてくれる、とアンドレは信じていた。
騎士の家系であるメイソン家。現当主の子女であるドリーは、幼少期から剣技と武道をたしなみ、高潔でいて清廉な女性だ。男社会で育ったことが災いし、女性としての自分に自信を持てずにいるけれど、それだって自己肯定感の範囲内だ。
アンドレは数いる結婚候補者の中でも、ドリーが一番王族の一員としてふさわしいと考えていた。
一度は道を踏み外してしまっても、ドリーはきっと元のドリーに戻ってくれる。アンドレはそう信じて疑わなかった。
しかしドリーの口から返される言葉は、アンドレの期待をたやすく裏切った。
「もう、どうでもいいの。全部どうでもいいの。魔女の妙薬を飲むと、悩みなんて全部どうでもよくなっちゃうの。ふわふわと気持ちよくなって、ただただ欲しくなっちゃうの。身体が疼いて仕方ないのよ」
アンドレは息を呑んだ。
「じゃあドリーは……あの男性の他にも、何人もの男の人と……」
アンドレが愕然と見つめる先で、ドリーはポケットから薄桃色の小瓶を取り出した。以前アンドレが手渡した『魔女の妙薬』の小瓶だ。
ころりと手のひらに落ちた桃色の丸薬を、ドリーはアンドレの唇に押し付けた。
「飲んで、アンドレ様。一緒に楽しみましょう?」
唇の間に入り込んでくる丸薬。アンドレは悲鳴をあげ、ドリーの手を弾き飛ばした。
「やめて!」
弾き飛ばされた丸薬は宙を舞い、薄汚れた地面へと落ちた。
ドリーが何かを言うよりも早く、アンドレはその場から逃げ出した。ドリーを説得しなければという思いはあるが、何よりもドリーの変貌が恐ろしかった。高潔な淑女を堕落させた魔女の妙薬の存在が恐ろしかった。
飲めば美しくなれるという『魔女の妙薬』。
それは決して手を出してはいけない代物だった。人から正常な思考を奪い、快楽の溺れさせるだけの劇薬。
一度浸かれば2度と抜け出すことは叶わない、暗く淀んだ底なし沼――




