21.夜のいたずら
3階までの階段を駆け上ったアンは、グレンの私室の扉を勢いよく開けた。
「グレン、これは一体どういうつもり⁉」
アンが大声で問い詰めれば、グレンはソファに寝転がったまま呑気に答えた。
「お、アン。ようやく来たか。元気?」
「自分でもびっくりするくらい元気だよ! グレン、どうしてあたしが今夜ここに泊まるんだって吹聴して回ったの? 今日のうちには自宅に送ってもらえると思ってたのに!」
アンはじたばたと足を踏み鳴らすが、当のグレンはどこまでも憎らしいすっとぼけ顔。
「俺、お前が今夜泊まるだなんて一言も言ってねぇよ」
「嘘! リナやバーバラにあたしのお泊まりの準備をさせたじゃない!」
「リナには『食事を多めに準備してくれ』と言っただけだぜ。最近やたら腹が減るんだよね、成長期かな。バーバラには『客間の寝具を整えてくれ』と言っただけ。お前ずいぶんとよく働いていたし、昼寝でもするかなと思って」
「……ジェフにお酒を勧めたのは?」
「酒を勧めただけだろ。先週、私用で訪れた町がラガービールの産地でさぁ。あの爺さん、ラガービールが大好物なんだよね。保冷庫でキンキンに冷やしていたのを、たまたま今日思い出したんだ。思い出したから勧めたの、ただそれだけ。深い意味なんてねぇよ?」
屁理屈ばかりこね回しおって、とアンは声を荒げかけた。しかし風船のように膨らんだ怒りは、途端にしおしおと萎んでいった。
グレンの口の巧さは天下一品、屁理屈をこねさせれば右に出る者はそう多くはいないだろう。凡人のアンがいくら嚙みついたところで勝てるはずなどないのだ。
アンはすっかり投げやりで言った。
「もうそういう事でもいいや……客間に戻るね。おやすみ……」
別人のように大人しくなって部屋から出て行こうとするアンを、グレンは呼び止めた。
「おいこら、アン。投げやりになるな。話があるからこっちへ来い」
「雑談なら明日にして……あたしはバーバラの用意してくれた布団でゆっくり眠るんだい」
「雑談じゃなくて仕事の話だ」
アンはぴたりと歩みを止めた。「仕事」とはすなわち素性調査に関わること。相棒契約を結んだ以上、協力を惜しんではいけない事案だ。
アンはその場で何度か足踏みをした後、しぶしぶソファへ腰を下ろした。少し前までグレンが寝そべっていた場所には、ほんのりと人の温もりが残っている。
グレンは1冊の本のような物を、アンの目の前に差し出した。子ども向けの絵本くらいの大きさで、表紙はてかてかと高級感がある。
ためらいながら表紙をめくったアンは、次の瞬間「ああ」と声を上げた。
アンが絵本のようだと思った物は、アーサーの元に送られた結婚候補者の姿だ。高級感のある表紙の内側には、赤茶色の髪を頬に垂らした美しい女性が描かれていた。
「綺麗な人だね。これ、誰?」
「ドリー・メイソン嬢。あまり大きな家の娘じゃねぇから、調査が難航してるんだわ。お前、『繁華街を訪れるご令嬢の中には、本名を明かさず偽名を名乗っている人も多い』と言っていただろ。その姿絵で顔を覚えていって、本当に繁華街への出入りがないか調べてくれ」
以前、グレンがアンに情報提供を願い出た令嬢は4人。
ドリー・メイソン
ローラ・クロフォード
イェレナ・ハンス
シャルロット・ハート
このうちローラ・クロフォードとイェレナ・ハンスについては、すでに情報提供が済んでいる。残された調査対象者は、今しがた名前の挙がったドリー・メイソンとシャルロット・ハートだけだ。
「んで、こっちがシャルロット・ハート嬢。この手の姿絵は、本人の特徴をよく捉えているからな。よく覚えていって調査の参考にしてくれ」
アンはドリー・メイソンの姿絵を閉じ、グレンの手からもう1冊の姿絵を受け取った。
シャルロット・ハートは、大人びた印象を受けるドリー・メイソンとは対照的に、幼げな容姿の女性だった。淡い黄色のドレスが、薄茶色の髪によく似合っている。
「わかった。これを機会にいろんな酒場へ顔を出してみるよ。だけどお世話になってる酒場にも顔を出さなきゃならないから、あんまり迅速な調査はできないよ」
「任せきりにはしない。俺は別方面で調査を進めるから、気楽にやってくれ」
「はぁい」
気の抜けた返事をしながら、アンはグレンの足元を見やった。そこには大量の姿絵が山積みとなっている。今アンが目にした2冊の姿絵を除いても、15冊はあるだろうか。それだけの数の令嬢の素性調査をしなければならないのだから、猫の手ならぬアンの手も借りたいはずだ。
アンの目の前で、グレンが人差し指を立てた。
「あと別口でもう1件。調査への同行を頼みたい。以前情報をいただいたイェレナ・ハンス嬢が、どうやら繁華街の地下クラブという場所に出入りしているようでな」
イェレ・ハンス――アンがまだクロエの正体を知らなかったときに、ささやかではあるが情報を流したご令嬢だ。
アンはこてりと首をかしげた。
「地下クラブ? それ、なぁに?」
「俺も詳しくは知らない。調査先でたまたまそういう話を聞いただけだ。ただのクラブなら気にはしねぇんだけど、『地下』というところが引っかかってな。潜入してみようかと思って」
「ただ中を見てくればいいんなら、あたしが1人で行ってくるよ。アンドレの姿でさ」
「それが1人じゃ入れねぇんだよ。カップル限定だってさ。俺も入り口までは行ったんだけど、相方の不在を理由に門前払いを食らったんだ」
「へぇ……」
繁華街居住歴が2年を数えるアンであるが、地下クラブという名称を耳にした経験はなかった。一般的なクラブといえば、酒とともに音楽を楽しむ場所であったはず。アンの活動エリアにも、その手の店は何件か存在する。
しかしグレンの言う通り、『地下』と言われれば何やら物々しい印象を受けてしまう。客人がカップルに限定されるのも気になるところだ。ひょっとしてクラブの中では、人目にさらすことができない性的行為や犯罪行為が行われているのかも?
「そういう事情なら仕方ないね。協力しようじゃないの」
「助かるぜ。持つべき者は腰が軽い相棒だな」
満足気なグレンの声を聞き、アンは一仕事を終えた気持ちになった。
「話は終わりかな。それならあたしはお暇するよ」
そう言って何となしにグレンの顔を見た。
そのときのグレンの顔はといえば、思わず蹴飛ばしたくなるくらいの悪戯顔であった。
「お暇? お前、何言ってんの? 堅苦しい話も終わったことだし、これからはお楽しみの時間だろ」
とん、と肩を押された。周りの風景がスローモーションで動き、気がつけばアンの背中はソファに沈んでいた。
グレンに押し倒されたのだとすぐに気付き、アンの顔面からはさっと血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。グレン、これは一体どういうつもりかな……」
「だからお楽しみの時間だって言ってんだろ。ガキじゃねぇんだから言葉の意味くらい察しろよ」
にやりと悪魔の笑みを浮かべたグレンは、ネグリジェ越しにアンの太ももに触れた。日常生活を送る限りでは、まず他人に触れられることのない場所だ。
際どい場所をすりすりと撫でられて、アンは阿鼻叫喚。
「何でいきなりそんな話になるのぉ⁉ あたし処女だって言ったじゃん! こういうことは怖いんだってば!」
一方のグレンは鼻歌など歌い出しそうなほど上機嫌だ。
ネグリジェのすそをするすると捲り上げながら、にんまりと口角を上げる。
「俺、以前お前を食い損ねたこと、結構後悔してんだよねー。処女なんて形のないものを守っていたって、何の得にもなんねぇだろ? どこの誰ともわからん奴のために取っておくくらいなら、今ここで俺に寄越せや」
説得はまるで無意味。
アンは「ぎゃああ」と悲鳴を上げ、決死の抵抗を試みるも、そもそもの体格が違いすぎるのだ。アンは女性の中でも小柄な部類であるし、対するグレンはレオナルドほどでないにしろ立派な体格だ。子猫のように押さえつけられてしまえば逃げ出すことはまず不可能である。
アンの両手を片手で器用に抑え込んだグレンは、もう一方の手でアンの身体を撫で回した。太ももを、腰回りを、脇腹を、撫で回されればぞわぞわと産毛が逆立つ。
さよならあたしの処女――
アンが全てを諦め目を閉じたそのとき。
部屋の扉が音を立てて開いた。颯爽と入ってきた者は、腕の中に書類束を抱えたレオナルドであった。
「グレン。夜分遅くにすまないが、この書類の確認を――」
それきりレオナルドは黙り込んでしまった。当然だ。今レオナルドの視線の先にあるものは、ネグリジェワンピースを捲り上げられたアンと、そのアンに馬乗りとなったグレン。
誰がどう見てもお楽しみの最中である。
グレンの意識が逸れたのをいいことに、アンはグレンのみぞおちを蹴り飛ばした。そして子猫のような素早さでグレンの下から這い出すと、大急ぎで部屋の扉へと向かった。
「じゃ、あたしはバーバラの用意してくれた布団でぐっすり眠るから。おやすみ!」
ネグリジェワンピースのすそを整え、元気いっぱいで挨拶をしたアンは、振り返ることもなくグレンの私室を後にした。
後に残された者は、蹴り飛ばされた腹の痛みにもだえるグレンと、いまだ放心状態から覚めないレオナルド。
「レオナルド……お前、空気読めよ」
「……今のは私が悪いのか?」




