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19/70

19.しがない夢物語

 その日レオナルドは、別件の用務でサファイア宮の警備を外されていた。


 夜も遅くに寄宿舎へと戻れば、そこはかつてなく騒がしい有様であった。忙しなく駆け回る騎士団員の1人を捕まえて事情を聞けば「ヘレナ妃とアーサー王子が何者かに誘拐された」という。

 サファイア宮の警備を担当する騎士団員が、ちょうど夕食をとりに向かった時間帯を狙っての犯行だった。

 

 犯行声明は出されておらず、身代金の要求もない。誘拐犯の目的は不明のまま。


 翌日より騎士団をあげての捜索が始まった。サファイア宮に残された遺留品を検分し、宮殿内や城下町で不審人物の目撃情報がないか聞き込みを行う。


 そうした調査が2日、3日と続くうち、レオナルドはしだいに違和感を感じ始めた。捜索の指揮が非常にあいまいなのだ。事件とは関係のない地区で何時間も聞き込みを行わせたり、サファイア宮の現場保存がまともに行われなかったり。

 

 一国の妃と王子が誘拐されたというのに、捜索にあたる人員はたった77人の騎士団だけで、彼らも「別口で仕事を任されている」「主である妃の身辺警備を放り出しておけない」といった理由で多くの団員が捜索から外れてしまう。


 本当に誘拐された2人を探し出すつもりがあるのか、とレオナルドは心の中で何度も叫んだ。


 そうしてヘレナとアーサーの救出に有効な手掛かりは何ひとつ得られないまま、5日間の時が過ぎた。



 レオナルドはそこで一度説明を区切った。唇を湿らせるために麦茶を口にする。同じようにぬるくなった麦茶を口にした後、アンは不可解そうに首をかしげた。


「5日間も捜索して、何も手掛かりを得られなかったの? 何か変な感じだね。まるで宮殿の中に、捜索を邪魔しようとする人がいたみたい」


 レオナルドはそのとおり、とアンの顔を指さした。


「アン様はするどい。当時の私も、早々にその可能性に気がつくべきでした。第6王子の身でありながら、突如として王位継承筆頭候補に躍り出たアーサー殿下。彼の存在をこころよく思わない輩は、宮殿内に数多くいたことでしょう。あわよくば誘拐されたまま2度と帰ってくるな、そう考える人物は少なくなかったはず」

「そう……なんだ」

「しかし当時の私はその可能性に思い至らなかった。というのも、元々私は頭を使うことが苦手でしてね。ただ命ぜられるままに剣を振るうばかりで、そこにどのような思惑があるかなどと考えたことがなかったのです。一言でいえば『馬鹿』でしたよ、当時の私は。だから気が付かなかった。宮殿内の何者かが捜査の指揮を掻き乱しているのだということも。他宮の妃が足元の騎士団員を囲い込み、捜査を難航させようとしていることも。ともすればその誘拐事件そのものが、宮殿内の何者かの意志により引き起こされた可能性があるということも」


 レオナルドの口調は穏やかだ。しかしアンから見えるレオナルドの横顔には、ほとばしるほどの激情が浮かんでいた。

 激情の矛先は、宮殿に渦巻く人の悪意に気づかなかった当時の自分。けれどもいくら悔やんだとて、過ぎたときは戻らない。


 アンは口内に沸いた唾をこくりと飲み込み、レオナルドの横顔に問いかけた。


「……レオナルド、一体誰が――」

「アン様、どうぞ黒幕の正体を問うことはおやめ下さいませ。私はその者の正体を存じ上げません。正体を知ったところで、今の私にはその者を裁く力はない。もしその者を裁く力を持つ者がいるとすれば――」


 レオナルドはそこで言葉を切り、青空を背に立つ邸宅を見上げた。建物の南側に位置する大きな窓の向こうには、邸宅の主であるアーサーの姿が見える。アンが部屋に立ち入ったときと同様、何をするでもなくロッキングチェアに揺られている。


「――失礼、話を続けましょう」


 レオナルドの言葉を聞き、アンは緑の大地へと視線を落とした。



 捜索が6日目を数えたとき、レオナルドは上層部からの命令に従うことを止めた。街中での聞き込み調査を止め、自らの足でさらわれた2人を探し出すことにしたのだ。

 

 仲間はいなかった。サファイア宮の警備にあたっていた団員には一通り声をかけたけれど、規律違反での除隊を恐れ、レオナルドに協力しようとはしなかった。


 単身での捜索を開始してから4日目、レオナルドはついに目的の場所を発見した。宮殿から馬を走らせ30分ほどのところにある、古びて使われなくなった木こり小屋だ。

 

 その小さな木こり小屋の内部で、レオナルドは凄惨たる光景を目撃することとなった。


 小屋の内部には腐臭が満ちていた。窓に天板を打ち付けられた小屋の内部に日灯りは射さず、淀んだ空気が立ち込めている。かび臭さ、獣臭さ、血と汚物の臭い、そして人間の腐る臭い。

 

 泥にまみれた床の上には、レオナルドの主であるヘレナが倒れ伏していた。恐らくは誘拐犯である賊徒に凌辱され、殺されたのであろう。生気をなくした顔面は無残に晴れ上がり、身体の至るとことが欠けていた。


 そして部屋の隅には、音もなくうずくまるアーサーの姿。

 痩せ細り、衣服は血と泥にまみれていたが、彼は生きていた。


 その夜、レオナルドは鬼人となった。アーサーの様子を見るために、4人の賊徒が木こり小屋を訪れた。暗闇に身を潜めたレオナルドは、木こり小屋に踏み込んだ4人の賊徒を次々と殺した。

 いや、ただ殺したというのは生ぬるい。手足を切り刻み、全身の骨を砕石のように打ち砕いて、苦しみの中で絶命させた。


 誘拐の目的を吐かせねば、などという思いは最早レオナルドの中にはなかった。ただ主の無念を晴らすためだけに、憎悪に身を委ね人を殺した。

 

 まるで本当の鬼人のように。


 レオナルドが血脂にまみれた剣を収めたとき、そこには人の形をなくした肉塊と、心を失くしたアーサーが残されていた。



 吐き気を催すような鮮烈な過去。アンは胃液がせり上がるのを感じ、泥だらけの右手で口元を押さえた。

 アーサーが母親とともに誘拐され、その事件が元で心を失ったということは知っていた。しかし当事者であるレオナルドの口から語られるものは、想像よりもずっと残酷な事実。


 思わず本音が口をついて出た。


「ひどい話」

「ひどい話ですよ。しかし当時の私には、そうするしか自我を保つ方法がありませんでした。正式な裁きの場では、彼らがどれほどの罰に問われるのかもわかりませんし」


 アンは急いで否定した。


「違う違う、レオナルドのやったことがひどいって話じゃないよ。アーサー王子を取り巻く状況がひどいってこと。誘拐されて、9日間も閉じ込められて、目の前で母親を殺されて。レオナルドが木こり小屋を見つけなかったら、アーサー王子自身も殺されていたかもしれないんでしょ? そんなひどい状況に置かれていたというのに、周りの人はみんな自分のことばっかり考えてさ。王座ってそんなに魅力的なものかな? 他人を見殺しにしてまで欲しいものなのかな? あたしにはわからないや」

「……そうですね。私にもよくわかりません」


 思い出話はこれで終わり。アンとレオナルドは空のコップを握り込んだまま、緑の芝生が風にそよぐのを眺めていた。

 抜けるような青空に、ぽこぽこと浮かぶ羊雲。木々の間には小うさぎが顔をのぞかせ、碧色の蝶々が宙を舞う。ここは『のどか』を絵に描いたような場所だ。


 アンは数匹の蟻がワンピースに上るのを眺めながら、頭に沸いた疑問を口にした。


「レオナルドぉ。この邸宅はこの先どうなるの? このままずっと、置物のようなアーサー王子を守り続けていくの?」

「アーサー殿下があのままの状態なら、そうなるでしょう。しかし私は殿下がいつかお戻りになると信じています。いつか必ず、元の聡明で勇敢なアーサー殿下が私どもの元に帰ってこられると」


 力強いレオナルドの言葉を聞き、アンは言い淀んだ。


「そ、それはどうなのかな。だってアーサー王子はもう10年も……」


 アンの脳裏に浮かぶのは、ロッキングチェアに揺られるアーサーの姿だ。動くことを止めた手足は枯れ木のように痩せ細り、薄く開いた両眼に光はなかった。

 

 身なりこそ綺麗に取り繕われていたが、あの身体にもう心はない。かつて鬼才とまで呼ばれたアーサーの心は、愛する母親の肉体とともにズタズタに切り裂かれた。


 アーサーの心は戻らない。

 アンの訴えは、レオナルドの穏やかな声にさえぎられた。


「アン様、これは私どもの希望です。叶うかどうかは重要ではない。浮世に生きる私の、しがなくも素晴らしい夢物語」


 アンに返す言葉はない。

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