12.自宅へご招待
「クロエ、クロエ、クロエ、どこにいるのぉぉ……」
アンは夕暮れの繁華街を駆けていた。
右手には手提げカバン、左手にはずっしりと重たい紙袋――中身はエマ秘伝のフルーツサンドである。ドレスフィード邸でアリスとの会話を終えたアンは、玄関口でエマから紙袋を受け取り、大急ぎで馬車へと飛び乗ったのだ。
ティルミナ王国の西方に位置するリーウの町から、アンの暮らす王都までは馬車で3時間の道のりだ。日暮れどきに馬車から下りたアンは、そのままの足で繁華街へとやってきた。
かかとの高いヒール靴も、繁華街には不似合いなシフォンワンピースも、首元に光るダイヤモンドのネックレスも、ドレスフィード邸を訪れたときのまま。
走りにくいヒール靴を脱ぎ捨てたい衝動に駆られながら、人通りの増え始めた繁華街を駆ける、駆ける、駆ける。
繁華街を2往復もしたとき、アンは人混みの中にクロエの後ろ姿を見つけた。足を止め、息を吸い込み、大声で呼びかけた。
「クロエ!」
人混みの中でクロエはぴたりと歩みを止めた。それからゆっくりと振り返り、アンの顔を見て怪訝な表情を浮かべた。
「……どちら様?」
クロエがそう言うのも無理はないのだ。アンがクロエに素顔をさらしたのは、魔法を解かれたときの一度きり。そのときのアンは化粧もしていなかったし、衣服は男物のシャツとズボンだった。
一方で今のアンの姿はといえば、貴族の令嬢そのものだ。髪はきっちりと結い上げて、顔には濃い目の化粧をほどこしている。
極めつけは可憐の代名詞である薄桃色のシフォンワンピース。クロエが「どちら様?」と首をかしげるのも当然だということだ。
「あたし、アンだよ。アン・ドレスフィード」
アンが丁寧に自己紹介をすれば、クロエは碧い目を丸くした。
「……アン? 本当に? ずいぶん化けたわね」
「ちょっと化けざるを得ない事情があったんだよ。クロエ、この後時間ある?」
クロエは少し考え込んだ後、煮え切らない表情で答えた。
「作れないことはないけれど……」
「じゃあちょっと時間を作ってよ。話したいことがあるんだ。すごぉく大事なこと」
「……私、告白でもされるのかしら?」
「んなわけあるかい。クロエの仕事に関わる話だよ」
クロエの眉がぴくりと動いた。
「それ、どんな話?」
「ここじゃ話せない。2人きりになれる場所へ行こうよ。この近くに行きつけの酒場があるからさ――」
そう言って歩み出そうとするアンの手首を、クロエが掴んだ。
「ちょっと待ちなさいよ。あなた、まさかその格好で酒場へ入るつもり?」
「だって内緒話をするなら宿部屋が一番でしょ?」
アンがあっけらかんと言い放てば、クロエは諭すように声を低くした。
「今のあなたの格好はまるきり貴族のご令嬢よ。通りを歩くだけならまだしも、酒場に立ち入るのはよくないわ。明らかに不釣り合いだもの」
そう言われてしまえばそのとおりだ、とアンは思った。酒場に貴重品を持ち込まない、というのは繁華街の常識だ。むやみと宝飾品を身に着けていては、詐欺師や盗人に目をつけられる可能性があるからだ。一目で貴族の関係者だとわかる格好をしているのも、繁華街ではあまり褒められたことではない。
アンはシフォンワンピースのすそを押さえながら声をひそめた。
「それならあたしの家で話をしよう。ここからなら徒歩で5分くらいだからさ」
アンの提案に、クロエは信じられないことを聞いたと長い睫毛をまばたかせた。
「私を家に招き入れる気?」
「そうだけど……まずいかな」
答えながら、アンはちらちらと周囲の様子をうかがった。日暮れどきの今、繁華街には徐々に人通りが増えつつある。貴族の令嬢感丸出しのアンと、ダイナマイトボディの持ち主であるクロエが一緒にいれば、否が応でも人々の視線を集めてしまう。
周囲から降り注ぐ無数の視線に気がついたのだろう。クロエはアンからふいと視線を逸らし、夕暮れの繁華街を歩き出した。
「あなたが気にしないのなら、それでいいわよ。行きましょう」
***
「どうぞ、入って。狭くてごめんね」
クロエにそう促しながら、アンは耳朶からイヤリングを外した。アリスがアンのためにと買ってくれたダイヤモンドのイヤリングは、可憐なシフォンワンピースによく合っていた。
突然の客人クロエは、ワンルームの入り口に立ち、部屋の内装をしげしげと見回していた。
「綺麗な部屋ね。こぢんまりとしていて居心地がいいわ」
「どーも。アリス姉さんもそう言って褒めてくれるよ」
アンはイヤリングとネックレスを小物入れにしまうと、続いて団子髪をほどきにかかった。
そのときのクロエはと言えば、食卓椅子に堂々と腰かけ右手は頬杖。初めて訪れたアンの家で、ずいぶんとくつろいでいる様子だ。
「アン。私、晩ご飯まだなのよ。何か食べる物ない?」
加えて飯ねだりを始める始末である。
アンはダイニングテーブルに置いた紙袋を指さした。
「その紙袋の中にフルーツサンドが入っているよ。たくさんあるから、どうぞ好きなだけ食べて。自慢じゃないけど、あたしの母親のフルーツサンドは絶品だよ」
「母親? あなた、実家に行っていたの?」
「そう。朝一で王都を出て、さっき帰ってきたばかり。だからこんな格好なの」
アンの説明を聞いて、クロエは不思議そうな表情だ。
「実家に帰るだけのに、なぜそんなにめかし込んでいるの?」
「親父の機嫌を損ねないためだよ。あたしと親父すっごく相性が悪くてさ。すぐ喧嘩になっちゃうの。もう何年も前だけど、あたしがしわのついたワンピースを着ていたらえらく怒られたことがあってさ。スカートが短すぎるって1時間説教されたこともあったっけな。だから今回は、親父の機嫌を損ねないようにアリス姉さんの選んだ服を着ていったんだ」
クロエは気の毒そうにアンの顔を見た。
「あなたも大変なのね……それで、今回はお父様と喧嘩にならなかったの?」
「喧嘩には……ならなかったかなぁ。あたしと親父にしては珍しく、穏便に話が済んだ気はする」
「そう、それはよかったわね」
無難な相槌を打った後、クロエは紙袋から紙包みを取り出した。手のひら大もある紙包みの中からは、みずみずしいフルーツサンドが顔を出す。
いちご、オレンジ、キウイにバナナ。生クリームとともに挟み込まれた色とりどりの果実が「早くわたしを食べて」と訴えているようだ。
アンはごくりとのどを鳴らした。
エマの作るフルーツサンドはアンの大好物だ。まだアンが両親と一緒に暮らしていた頃、誕生日には必ずと言っていいほどフルーツサンドをねだっていた。
父親と仲違いをし家を出てから早2年。その間アンは自宅に帰っていないのだから、当然エマの作るフルーツサンドを見るのも2年越しだ。
魅惑のフルーツサンドを前にして、アンの腹はぐぐうと鳴る。
「あ、あたしも食べる。話は食べた後でいいかな」
「いいけど、食べる前に着替えなさいよ。絹地を汚すと洗濯が面倒よ」
もっともな助言である。アンは大急ぎでタンスの引き出しを開け、数枚の衣類を引っ張り出した。
「浴室で着替えてくる。フルーツサンド、全部食べないでね」
紙袋の中をのぞき込みながらクロエは答えた。
「こんなにたくさん食べ切れるわけがないでしょう。余計な心配してないで、さっさと着替えてらっしゃい」
アンの記憶にある限り、紙袋の中には5つ以上の紙包みがあった。いくらクロエの正体が食べ盛りの青年であるとはいえ、全てのフルーツサンドを食べれば胃もたれを起こすこと間違いなしだ。
フルーツサンドにかじりつくクロエを一瞥し、アンは大急ぎで浴室へと向かった。




