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10.アリス姉さん

 アンが署名を終えた紙を手渡すと、ローマンは満足そうにうなずいた。


「結構。出来損ないの娘でも、王家との繋がりとなれば上出来だ。用は済んだ。とっとと立ち去れ」


 ――言われなくてもそうするよ

 心の中でそうつぶやいて、アンは無言のまま書斎の扉へと向かった。

 しかしアンが書斎の扉を開くよりも早く「待って」とアンを呼び止める声がした。声の主はエマだ。


「アン。せっかくだから晩ご飯を食べていって。アンと一緒に食べようと思って、アンの好きなフルーツサンドをたくさん作ったの。だから、ね?」


 アンはエマの顔を見ることなく、小さな声で謝罪した。


「……ごめん。あたし、すぐ家に帰らないと。今夜も仕事だからさ」

「……そう……仕事なら仕方ないわね……」


 泣き出しそうなエマの声を聞き、アンは心の中でまた「ごめんね」と謝罪した。

 

 アンが夕食の誘いを断ったのは、ただただローマンを顔を合わせていたくなかったから。客寄せの仕事など、休もうと思えばいつでも休めるのだ。

 けれどもアンが夕食の席に座ればローマンは不機嫌になる。冷たい言葉を吐きかけられればアンは絶対に言い返してしまう。楽しい夕食の時間が台無しだ。


 アンがそれきり何も言わずに書斎をでると、廊下にはアリスが立っていた。思いもよらなかった顔を前にして、アンは目をぱちくりさせた。


「アリス姉さん、来てたんだ。親父に何か用事だった?」


 アリスはひそひそ声で答えた。

 

「あなたとお父様が喧嘩をしないように、私も本邸に顔を出すと言ったでしょう。それで話し合いは無事終わったの? 一応ばんそうこうと氷嚢(ひょうのう)は持ってきたのだけれど、必要かしら?」


 そう言ってカバンから大量のばんそうこうを取り出すものだから、アンは思わず苦笑いを浮かべた。

 

「この家の人は、本当にあたしと親父の不仲に適応してるよね。ドロシーといい、アリス姉さんといい」


 そのとき背後で扉の開く音がした。ローマンとエマが書斎から出てきたのだ。ローマンは廊下で話し込むアリスとアンを交互に見て、少し声を明るくして言った。


「アリス、来ていたのか」


 アリスはふんわりと笑って挨拶を返した。

 

「お父様。ご無沙汰しております」

「お前が前触れもなく来るとは珍しい。急ぎの用事があったか?」

「ワインの買い付けです。実は次の週末に、モーガン家の園庭で私的な茶会を企画しておりますの。初めてお招きするお客様に、ぜひリーウのワインをお持ち帰りいただきたくて。お父様、オレンジワインの在庫はまだあるかしら?」


 ローマンは少し考え込んだ。

 

「20本程度ならすぐに用意できる。足りるか?」

「お土産用には10本あれば十分。でも20本全ていただいてもよろしい? その場で試飲したい方もいらっしゃるでしょうから」

「ああ、持っていくといい。試飲の場を設けられるのなら、今年の新酒も数本持っていくか? まだ瓶詰めが済んだばかりで市場には出回っていない、貴重な品だ」


 アリスは大袈裟に喜んだ。

 

「あら、それは皆様とても喜びますわ」

「すぐに用意させよう。客間で待っているといい」

 

 すっかり上機嫌のローマンがいなくなった後、会話から弾き出されていたエマが慌てた様子でアンに耳打ちをした。


「アン、お願いだから少しだけ待っていて。フルーツサンド、つぶれないように包んであげるから。今日のお夕飯に食べなさい」


 それだけ言うと、エマはローマンの背を追って廊下を駆けていく。書斎の前にはアンとアリスだけが残された。


「……アリス姉さんは、やっぱりすごいや」


 アンが独り言のようにつぶやくと、アリスはこてりと首をかしげた。


「どうして?」

「だってあたし、親父にあんな顔させられないもん。いつも怒らせてばっか」


 アリスは苦笑いを浮かべた。

 

「お父様は気難しい人だからね。あまり気にしない方がいいわ。家族仲だって人間関係であることに違いはないの。相性が悪いことだってあるわよ」

「そうかなぁ……」


 アリスの慰めを聞くうちに、アンは自分が情けなくなった。

 

 ドレスフィード家よりもはるかに高位なモーガン家へと嫁ぎ、茶会や晩餐会を利用してせっせとリーウワインの宣伝を行うアリス。結婚5年目にして2人の子宝に恵まれ、夫であるモーガン候との仲も良好。

 彼らの結婚が政略結婚であることに違いはないけれど、皆が羨む幸せな家庭を築き上げている。

 

 一方のアンはいまだ独り者。結婚適齢期を迎えているというのに婚約者の1人もいない。手狭なワンルームに住み、夜な夜な繁華街に通う日々だ。


 さらに悪いことに、アンの存在はアリスに迷惑をかけている。数か月に1度、アンの生存確認を行うのはアリスの仕事であるし、アンが元気であることをエマに伝えるのもアリスの仕事だ。

 

 そして今日、アリスはアンのために、自分の時間をつぶしてドレスフィード邸を訪れた。『ワインの買い付け』というそれらしい用事を見繕って、遠方からはるばる駆け付けたのだ。


 シフォンワンピースのすそを握りしめ、アンはしょんぼりとうなだれた。しかし当のアリスは、そんなことは毛ほども気にかけていないのだと言うように、アンの肩をぺしぺしと叩く。


「それで、アン。本題を話してちょうだい。お父様がアンを呼び出した理由は何だったの?」

「ああ……それがさ。あたし結婚するんだって」


 結婚、の言葉にアリスは目を見開いた。


「……それ、本当?」

「正確には結婚はまだしないんだけどさ。あたしの名前で結婚の申し込みをするんだって。お相手はティルミナ王国王室のアーサー第6王子。アリス姉さん、どんな人か知ってる?」


 ティルミナ王国の現国王には5人の妃がいる。5人の妃がそれぞれ子を産み、王子が7人、姫が3人。

 このうち王位継承権者となるのは7人の王子については、初等教育として幼少時に教えられたけれど、名前以外の情報はアンの記憶からすっぽりと抜け落ちていた。


 アンは緊張の面持ちでアリスの返答を待った。

 やがてアリスは重々しい雰囲気で口を開いた。


「アーサー第6王子は『捨てられた王子様』よ。皆そう呼んでいる」

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