04『褪せた銀色.4』
月ヶ瀬菜々、16歳。ここから少し離れた夕川高等学校に籍を置く、高校1年生。
顔立ちは年相応ではあるが、長く伸びた黒髪や所作の所々に出る丁寧さが大人びた雰囲気と育ちの良さを醸した。
「パッと見、異常は無いね。キーも、レバーも・・・・なんの問題もないね」
月ヶ瀬菜々の所有するサックスは実に見事なものだった。
日頃の手入れを怠っている様子など微塵もなく、どこを見てもピカピカの鏡のような仕上がりだ。
それは発音に必要なパーツのそれぞれにも言えることで、一見、修理するところなどどこにもない。
勿論、詳しいことはオーバーホールしなければ分からない。が、僕は一つの確信に近い考えを持っていた。
「となると、音色が今までとは変わったんだね?」
月ヶ瀬菜々が小さく、しかし力強く頷いたのを見て、僕は丁寧にサックスをケースに戻す。
彼女は複雑な表情をしていた。
「失礼だけど、少し簡単な確認をさせてもらうね。マウスピースとか、発音に関係するパーツを変えたかな?」
首を横に振り「いいえ」と答える。
「指を怪我したとか、風邪をひいたとか身体になにか異常は?」
同じように「いいえ」と答える。
一つ一つ、可能性を潰していく。しかしこれらはあくまで形式的なもの。僕が抱いた仮説に誘導するための流れ。
「スランプ、に心当たりは?」
月ヶ瀬菜々の体が少し強張った。本人は隠そうとしたのだろうが、普通の振る舞いが優麗過ぎたためにそのほんの僅かな強張りが目立った。
僕は、物の修理に自身も興味もある。修理の方法が検討付かない物も、積極的に弄る。だがそれはあくまで趣味の範疇で、店主としてできない依頼は請けないようにしている。残念ながら、今回の依頼は僕が解決できない部類だと思えた。何より、今回のサックスに、僕が直す部分は無いのだ。
「月ヶ瀬さん、申し訳ないけど――」
「まて、宗一郎」
芯の通ったマホの声に、僕の言葉は止められた。月ヶ瀬菜々がマホに視線を向けたので、姿を僕以外にも見せている、つまり人間のフリをしていることがわかった。
「ど、どなたですか」
月ヶ瀬菜々の疑問にどう答えようかとあたふたしたのもつかの間、マホは視線をサックスの本体に向けたまま適当に答える。
「む。私は雨木マホ。コイツの姉だ」
「な!? 何言って――」
僕の糾弾はマホの真剣な眼差しに再び止められた。
「ちょっとこい、宗一郎」
何を言っても無駄だと言うように、先立って母屋の廊下へマホが歩く。その糸は月ヶ瀬菜々に聴かせられない何かがあるのだと雄弁に語る。
「ご、ごめんね。姉・・・・が勝手に出しゃばってきて、少し待ってもらえるかな」
月ヶ瀬菜々は訝しむも小さく頷く。
廊下を少し進んだ先、ちょうど作業場から視界が切れる場所に、体重を壁を預けるように待っていたマホが口を開いた。
「この依頼、請けるんだ。宗一郎」
唐突な一言に、僕は同様を隠せなかった。なぜなら、マホがこの様に何かを強く指示してきたことは今までになかったからだ。
「理由を聞く前に、僕が出来ない修理を請けないようにしてる事を知った上でそう言ってるんだね?」
「そうだ。詳しい事情は後で説明するが、請けろ」
僕は頭を悩ませる。ここまで強くマホが言うのなら、それなりの理由があるのだろう。
確かにあの銀髪の九十九神があんな表情をしているのは、僕としても気になる。しかし、仕事で引き受ける以上は責任と信頼が伴ってしまう。
「・・・・わかった。少し月ヶ瀬さんと話してみるよ」
「難しい事だとは分かっている。だがあの銀色のを放ってはおけないんだ」
最後にそれだけ言われて、僕は作業場へ戻った。
そこには、ソワソワした様子の月ヶ瀬菜々がこちらを眺めながら座っていた。
「お待たせしました。今回の依頼なんだけど、請けさせてもらうよ」
その言葉に月ヶ瀬菜々の表情が晴れる。
「ありがとうございます・・!」
そんな明るい声音とは裏腹に、僕は真剣に、慎重に言葉を選ぶ。
「全力は尽くします。だけど正直、月ヶ瀬さんが満足行く結果になるかはまだ分からない。なんていうか・・・・僕ができることを全部やっても、直るかは分からないんだ」
「・・・・原因が私にあるかもしれない・・と言いたいんですよね」
僕の言わんとした事が彼女にもしっかりと伝わっているようだった。むしろ、僕にそう言われて当然だと思ってるような節があった。
僕がうなずくと、月ヶ瀬菜々はテーブルに置かれたお茶を一口飲んだ。
「私の・・原因なら・・・・それでいいんです。修理して・・その結果何も変わらなかったら、私は自分だけに向き合える」
月ヶ瀬菜々は独白のように言葉を続ける。
「色々な楽器店に修理を依頼しました。でもどこも軽く見てもらっただけで異常はなし。メンテナンス以上の事はしてもらえませんでした」
視線をサックスに落とした。その視線の慈しみは尋常ではなかった。
「自分の街の楽器屋を全部回って、それでも駄目で、最後の店の店主がここを教えてくれました」
これで駄目だったら流石に諦めが付きます。そう言葉を結んだ。
「安心しろ、若き演奏家よ」
再びマホが会話に割って入る。その隣には銀髪の九十九神もいた。
「スランプ、調子が悪い、気のせい。そんな陳腐な言葉で片付けさせはしない。少し時間は掛かるかもしれないが、この雨木骨董品店が修理してみせよう」
マホは僕の肩をがっしりと組み、僕の肩越しに顔を並べた。表情は非常に自信満々でニッコリとしている。
「そう・・ですか・・安心しました・・」
銀髪の九十九神はいつの間にか月ヶ瀬菜々の座るソファーの背もたれに体重を預け、体を向こうへ向けて立っていた。
「用紙も書けてるみたいだし、今日の所は一先ず終わりかな。今週の金曜日までに修理の準備をしておくから、当日僕の方からサックスを受け取りに行くよ。土日の二日間、預かることになるけど大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です。ですが、金曜日であれば私がこちらに届けに来ます」
「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらおうかな」
話も詰め終わり、僕は依頼用紙を作業場の机の上においた。時計を見るとすでに8時を指していて、夜の深さも増していた。
「宗一郎、彼女を駅まで送ってやれ」
「そうだね」
片付けを初めていた月ヶ瀬菜々はマホの言葉に首を横に振った。
「大丈夫です。母に送迎してもらうので」
その受け答えにマホが「できた娘だな」と零す。軽く挨拶をしたあと、月ヶ瀬菜々は戸を開けて深々と頭を下げた。それに合わせて隣の銀髪の九十九神も軽く頭を下げる。
その表情は最後まで暗いままだ。
二人――厳密に言えば一人だが。を見送って僕は店のシャッターを閉める。
「それじゃあ、マホ。詳しい話を聞かせてもらうよ」
マホは長くなるとだけ言って、母屋の方へと僕を誘った。