84.母上はきっと大丈夫※マルクス視点
「九十八……九十九……、ひゃく……っ!」
言い終えるのと同時に「はぁーっ」と深く息を吐き、どさりとその場に身を倒した僕の周りで、第三騎士団の者たちが「おおっ」と沸いた。
「すごいじゃないですか、マルクス様」
「ついに百回! おめでとうございます!」
この地に来て、三ヶ月ほどが経った。
毎日屈強な騎士たちに混ざってトレーニングを積み重ねてきた僕は、ついに今、腕立て伏せを百回、続けて行うことができた。
しかしもう腕にはまったく力が入らないし、全身に汗をかいていて、心臓が壊れてしまうのではないかと思うほど激しく脈打っている。
「次の目標は二百回ですね!」
「……っ」
ようやく百回できるようになったところだというのに。
その倍の数を勝手に目標として定めてくる騎士たちに苛立ちを覚えたが、彼らはそれを平気でこなす。
それどころか、あえて負荷をかけているのだから、僕の気持ちなんてわかりもしないのだろうな。
僕がどれだけ大変な思いで百回できるようになったと思っているんだ……!
ああ……早く城に帰りたい。
やはり僕は彼らとは住む世界の違う人間だ。
「マルクス」
なんとか呼吸を整え、身体を起こして休憩していたら、誰かが僕を呼び捨てにした。
王子の僕になんて無礼だと思いながら顔を向けて、目を見開いた。
「リック……!?」
そこには僕の幼馴染の騎士、リックがいたのだ。
「元気にしてたか? マルクス」
リックはあのまま王宮に残っていたのに、わざわざこんなところに来たということは……僕を迎えに来てくれたんだな!? さすが、やはり彼は僕の数少ない友人だ!
「遅いぞ。こんなところ、もう懲り懲りだ。早く帰ろう」
「……なに言ってんだ?」
友を前に無理をして速やかに立ち上がり、額の汗を拭って平気な素振りを見せて言ったが、リックは顔をしかめた。
「……なにって、お前は僕を迎えに来たんだろう? 馬車はどこだ?」
「まさか。そんなに早く帰れるわけないだろ」
「なに!?」
しかし、僕の言葉を嘲笑うかのように鼻で息を吐いて、リックは簡単に否定した。
「殿下は相変わらずですね。貴方の兄上は王太子になっても俺たちにそんな態度は取りませんよ」
「……っ!」
「おっと」
鼻で笑いながら、わざとらしく敬語で話してくるリックに苛つきを抑えきれず、拳を彼の顔目がけて繰り出した。
僕もここに来てからの三ヶ月で、少しは力がついた。だが、それで自分の力を少し過信していたらしい。僕の拳はリックの頰に届くことなく、パシッという軽い音を立てて簡単に彼の手のひらに収まった。
「……くっ」
涼しい顔で平然と僕の拳を掴んでいるリックの手を振り払おうとするも、まるでびくともしない。
その力の差を見せつけられ、余計悔しい気持ちが募る。
「まだまだ元気そうだな」
「……ふんっ!」
リックが力を抜いた瞬間にその手をこちらから振りほどいてやったが、指が痺れている。
こいつ……仮にも王子である僕に……!
「それで、迎えに来たのではないなら、一体なんの用だ」
だが指が痺れていることを悟られないよう平気なふりをして問えば、リックは「ああ、そうそう」と思い出したように手に持っていたバッグから手鏡を取り出して僕に差し出した。
「これをお前に」
「鏡?」
「そう、シベルから」
「シベルが、僕に贈り物を?」
鏡を受け取り、それを聞いた僕の鼓動が一瞬跳ねる。
シベルが僕を気にかけてくれている……? もしかして、離れてみて僕への気持ちに気がついたのだろうか。僕とシベルは七年間も婚約していたんだ……!
「シベルは僕に、なんと?」
「ん? ああ、言っておくがシベルとレオポルト殿下はとても仲良くやってるぞ」
「え?」
「知ってたか? シベルは騎士が好きなんだってよ。たくましい騎士がな」
「えっ!?」
言いながら、小馬鹿にするようにじろじろと上から下まで僕の身体に視線を滑らせるリック。
いくらこの三ヶ月で以前より筋肉がついてきたとはいえ、確かに僕はリックや兄上に比べたらまだまだたくましいとは言えない。だがまさか、シベルが下品で無礼な者が多い騎士が好きだったとは……!
「それで、シベルはレオポルト殿下にメロメロだし、レオポルト殿下もシベルを溺愛している。見ていてこっちが恥ずかしくなるくらい、あの二人は熱い。この前も――」
「わかった、もういい! それで、どうしてシベルが僕に鏡なんか渡すんだ!?」
まさか鏡で毎日自分の身体をチェックしろということか? 兄上のようにたくましくならなければ帰れないわけじゃないだろうな?
しかし、それならなぜ手鏡なんだ。ケチらず姿見を用意してくれたっていいだろう。というか、鏡くらいトーリにもある。ざわざわリックに持たせた理由はなんだ?
イライラしながらリックの話を聞いていた僕だが、彼から続いた言葉にその苛立ちは一瞬で消えることとなる。
「お前がいなくなって、メラニー妃が悲嘆している」
「……母上が?」
リックの顔も、急に真剣味を帯びた。
母上が悲嘆している……。
まぁ、それはそうだろうな。僕は母のことが心配だった。母には僕しかいなかったんだ。
それなのに、僕は母の期待を裏切ってしまった。王都を離れるときは合わせる顔もなかったのだが……。
「それを見て心配したシベルが、隣国の大魔導師、ユルゲン・ヴァグナー様にこの魔法の鏡を作ってもらいに行ったんだ。メラニー妃がいつでもお前の顔を見られるようにな」
「魔法の鏡を……!?」
「もちろんレオポルト殿下と一緒に」
「なんだと……?」
魔法の鏡は、とても得難いものだ。ずっと王宮で暮らしていた僕でさえ、実物を目にしたことはない。そんな貴重なものを、わざわざシベルと兄上が、母上のために!?
「お前のためじゃないぞ、メラニー様のためだ」
「……わかってる。だがそれでも――」
兄上は僕の母を嫌っているだろう。母は露骨に兄を避けていただけではなく、僕を王太子にするために必死で、必要以上に兄に冷たく接し、離れに追いやった。
それに、いつだったか兄に暗殺未遂が起きたこともあった。今だからわかるが、あれはおそらく正妃派の者がやったのだろう。母が指示したというわけではないと信じているが……。
それなのに、兄と、その兄と婚約したシベルがわざわざ隣国に魔法の鏡を作らせに行ったのか……。
「高かっただろう。一体いくらしたんだ」
「……まぁ、そうだな。だが、金で買ったわけじゃないぜ」
「なに?」
「ユルゲン様は俺の師匠なんだが」
「そうか。無償で作ってくれるとは、お前の師匠は随分お人好しだな」
リックは長年魔法を学びに隣国に留学していた。大魔導師ユルゲン・ヴァグナーが師匠とは驚いたが、なかなかやるじゃないか。
「違う。お前はものの価値を金銭だけで計ろうとするな。金で買えるなら、そのほうが楽だっただろうな。だが、要求されたのは〝聖女の加護を付与した魔石〟だ。それも、かなりの数のな」
「なに……? では、シベルが聖女の加護を……。なるほど。それは確かに、かなり価値があるものだ」
「だろう? シベルは聖女の力に目覚めたばかりだから、まだそんなに多くの加護を続けて付与したことはなかった」
「……そうか」
では、シベルはかなり大変だっただろう。それでも、ここに魔法の鏡があるということは、それを成し遂げたということか。
王妃のために……。
そんな話をしながら、リックから受け取った鏡を覗き込んだとき、映し出されていた僕の顔が歪み、ぼんやりと母上が映し出された。
「母上……?」
『マルクス……!?』
すぐにはっきりと、母の顔が鏡に映る。
「母上! ああ……お元気でしたか?」
母の肌も髪も、以前のように艶がない。それに、少し痩せているように見える。
『貴方こそ……元気でやっているの?』
「僕は……元気ですよ。騎士たちに混ざって毎日トレーニングも頑張っています。どうですか? 少しはたくましく見えるでしょう?」
『ええ……そうね。そうだわ……』
やつれている母に、僕は虚勢を張った。
母がどれだけ寂しい思いをしているのかは、一目でわかった。
僕を守れなかったと、自分を責めているかもしれない。だが、今回のことは僕が悪いのだ。母上に辛い思いをさせたくはない――。
「ですから、母上もしっかり食べてくださいね? 僕は立派になって、必ずそちらに帰りますから」
『ええ……ええ、そうね。貴方がしっかりやっているのだから、私もしっかりしないとね』
だから、鏡の前で背筋を伸ばして顎を引き、僕と同じ色をした母の瞳をまっすぐ見つめて強がりを言った。
母を心配させたくはない。その気持ちから、思ってもいなかったことが口から出た。
だが、嘘でもそう口にしてみたら、まるで本心のように、ずっしりと僕の中に覚悟のようなものが落ちてきた。
第一王子である兄も、真の聖女として王太子と婚約したシベルも、若い頃から一人隣国に留学して魔法を学んできたリックも、ここにいる騎士たちも、母上も……。
大変なのは、僕だけではないのかもしれない。
とても深く、そう思った。
だが、母上はきっと大丈夫。
無責任だが、シベルが母の近くにいてくれたら大丈夫だと、思ってしまった。
シベルはもう母の義娘にはならない。だが、それでもシベルが王宮にいれば、母は大丈夫だ。
自然とそう思えた。
これが聖女の力なのか、単にシベルがそういう女なのかはわからないが、本当に僕が立派になって王宮に帰るまで、母を頼む。
心の中で、そう願った。
お読みいただきありがとうございます!
2章は次回でラストです!!