65.目を閉じる余裕もない
「メラニー様、大丈夫かしら……」
「やはりマルクス様がいなくなって心労がたたっているのでしょうね」
「そうよね……」
国王の正妻であるメラニー様が体調を崩したという話を聞いたのは、三日ほど前のこと。
未だ自室に籠もっていらっしゃるメラニー様を見舞うため、エルガさんと一緒に王妃の部屋を訪れてみたけど、部屋に入る前に王妃付きの侍女に面会を断られてしまった。
メラニー様は元々身体の強い方ではない。いつも公の場では王妃として相応しく立ち振る舞い、静かに国王の隣にいる。
メラニー様はマルクス様をとても可愛がっていた。
十歳のときにマルクス様と婚約した私のことも、昔はよく気にかけてくださっていたけれど、私がマルクス様に婚約破棄されて以来、お城に戻ってきてからもちゃんと会話をしていない。
「心配だわ……」
「気持ちはわかるけど、シベルがあまり気にしすぎないようにね」
「ええ……」
「それに、メラニー妃はレオポルト殿下にも冷たく当たっていた方だと聞いているし……」
「……」
呟くように言ったエルガさんの言葉は、私も耳にしたことがある。
レオさんからも、メラニー様とは今でもあまり会話することがないと聞いている。
けれど、メラニー様の心の支えはマルクス様だけだったようなものなのだ。いくら今回のことはマルクス様に非があるとしても、メラニー様の気持ちを考えると、なんだかやるせない。
*
「シベルちゃん、なにか悩み事かい?」
「えっ」
その日の夜。夕食が終わり、レオさんのお部屋でゆっくりとハーブティーを飲んでいたら、隣に座っていたレオさんがふとそんなことを聞いてきた。
「なんだかさっきから元気がないようだから」
「いえ、ごめんなさい」
私ったら、レオさんと一緒にいるというのに暗い顔をしてしまったのね。
レオさんとメラニー様は、お世辞にもいい関係とは言えない仲だ。だから、私がレオさんの前でメラニー様を心配するのは、レオさんにとっては複雑なはずだ。そう思ってにこりと笑みを浮べたけれど、レオさんは私の言葉に被せるように再び口を開いた。
「最近、メラニー妃の体調がよくないようだな」
「……ご存知だったのですね」
「それはね」
いくら確執のある関係だとしても、王妃と王太子。レオさんの耳に入らないわけがないか……。
「メラニー妃のことが気になるのかい?」
「え……っと、その……」
「いいよ。俺に気を遣わないで。シベルちゃんはこれまでマルクスと婚約していたのだし、メラニー妃との関係は良好だったのだろう? そのことと俺のことは関係ない」
「……はい」
レオさんは、きっと全部わかっている。だから、変に否定したり無理に気を遣ったりするのは、確かにかえって話をこじらせてしまうだけだと思い、素直に頷いた。
「すまないね。俺のせいでシベルちゃんにいらぬ気を遣わせてしまった」
「いえ……! こちらこそ、レオさんの前で暗い顔をしてしまいましたね……すみません」
「いや……」
お互い謝罪し合った重たい空気が、レオさんの小さな笑みで和やかになる。
「二人揃って謝ってばかりだな」
「本当ですね」
「それで、メラニー妃には会えたのかい?」
「いいえ……誰にも会いたくないそうです」
「そうか」
だから、レオさんには隠し事などはせずにすべてを正直に話すことにした。
「食事もあまりとっていないそうです。このままではいつまで経っても元気になれません」
「うん……」
メラニー様に元気がないのは、マルクス様とお会いできないからだ。かと言ってマルクス様をこんなに早く王都に戻すという判断がされるかはわからないし、メラニー様をトーリへ行かせるのも難しいだろう。
なにか、いい方法があればいいのだけど……。
「俺も何かいい案がないか考えておくよ」
「レオさん……」
レオさんは、愛人の子として長い間肩身の狭い思いをされてきたのだ。嫌な思いをしてきたのは確かなのに……なんて優しい方なのかしら。
「だからシベルちゃんがそんなに思い悩まないで」
「すみません、レオさん……」
「ううん。俺は君がとても優しい女性だと知っているよ。それがシベルちゃんのいいところなのだから、君にはそのままでいてほしいと思っている」
「レオさん」
そう言って、レオさんは左手を私の背中に回し、身体を引き寄せた。
レオさんの香りがふわりと私の鼻腔をくすぐる。
「それより俺に気を遣ったり我慢されたりするほうが悲しいから、なんでも言ってくれ」
「はい……そうさせていただきます……」
言いながらレオさんのたくましい胸板に頰を寄せ、すりすりしながら大きく息を吸った。
そうですか……。我慢しなくていいのですか。
はぁ……私はこの瞬間が一番幸せです……。
大好きなレオさんの胸の中にいれば、他のことはなにも考えられなくなってしまう……。
「……シベルちゃん、君は本当に可愛いね」
「え……?」
くんくんとレオさんの香りを楽しみながらすりすりしていた私の頭の上で、レオさんの笑い声が聞こえて視線を上げる。
「息が荒いよ」
「あ……っ! すみません、つい……! 失礼しました……!!」
「可愛いって言っただろう?」
「あ……っ」
上を向いた私の頰に、捕まえるように手を添えたと思ったら、すぐにレオさんの唇が落ちてきた。
レオさんの艶のある黒い前髪が私の額にかかる。くすぐったいなんて思う間もなく、すぐにレオさんの高い鼻が私の鼻に擦ったと思ったら、真剣味を帯びた青い瞳が目の前にあって、私の視界はレオさん一色になる。
「……」
「……シベルちゃん」
私が目を閉じるのも待たずに、レオさんは唇を重ねてきたのだ。
そのまま目を開けたままでいる私の名前を呟いたレオさんに、ワンテンポ遅れて今キスしたのだということを理解して顔が熱くなるけれど、レオさんは私を逃がしてくれない。
「好きだよ、シベルちゃん」
「……んむ……っ」
〝私も好きです〟という言葉すら言わせてもらえずに、レオさんはもう一度私に口づけた。
そのせいでなんとも色気のない声が漏れたような気がするけれど、レオさんはそんなことお構いなしというように私に唇を重ね続ける。
やっぱり私は目を閉じるということも忘れてレオさんの伏せられている長いまつげを見つめた。
今度はさっきよりも、この間よりも長くて、一度離れたと思ってもまたすぐにレオさんの唇が私の口を塞ぐのだ。
だから私はこの状況を理解するのと、その唇に応えるのと、興奮するのと、冷静になるのにいっぱいいっぱいだった。