ちょっとした笑い話
代車を用意したものの、家を出ることはない。
小里絵に心配されているが、連絡する話もない。
ママが受けたショックは甚大だ。結局カフェもミヤちゃんに任せていて、とうとう閉店も視野に入ったという。そんなママとの通話が今の一番の癒しだ。
「ママ、お願いがあるんだけど、絵理愛を責めないで」
「そう…」
ママのトーンが少し下がった。
「ごめんね。あの子にはちょっと妬いちゃうところがあるから。
ねぇ、私ってやり直せたのかな?」
「なんの話?」
「私のこと、許してもらえたのか心配なの。ヤマちゃんとえりちゃんが会ってすぐ、なんかヤマちゃんよそよそしくなったじゃない。私、なんかしちゃったかなって…」
「あの時、ママが俺を止めなかったことに絵理愛が怒ってたんだよ。俺なんかが一人で貸金業をはじめたら、こうなることを見抜いてた。見抜けなかったママより、自分のほうが俺に合うって素振りもしてきたよ」
「それが私との違いだったのね。
あさりママにも言われたな。今ならあなたも傷付かないって確信してるけど、私が説教された時のこと、聞いてくれる?」
「…よろしく」
「あの時、あさりママにね、ママをやりたいのか、風俗嬢をやりたいのかって聞かれてびっくりしちゃった。
私があなたにしていることは、キャバ嬢と同じで煽ててるだけだって。折角若いお客さんに慕ってもらってるのに、その子が間違えた時に叱れないなら、ママは務まらないって言われたの。
当然のことだけど、私があなたに片思いして他のお客さん達を蔑ろにしたら他のママにみんな流れるって言われちゃった。お客さん達が若い風俗嬢にはない私の教訓を買いに来てるのに、それを提供できないなら、熟女風俗で稼げばいいって」
「個タクの小宅のおっちゃんと大泉の小泉さんは顔で買いに来てると思うけど」
「確かに!あの人達はいつも褒めて褒めてだもんね!」
あさりママとは一度会っているが、ニヒル系中二病独特の若さや脆さを見抜かれて、いきなり厳しいことを言われた。思い返せば、俺という若い男があきらママをママとして成長させる役目を担っていることを伝えたかったのかもしれない。
「あなたもさ、キャバ嬢の煽てじゃ満足しなかったじゃん」
「自尊心低いし世の中ある程度見限ってるからね。
対等に見てもらえるか、俺の資産を利用して中身は捨てる人間かは見破れるよ。基本的に俺より先に金の話をしたらアウト。相手が営業職なら仕方ないけど、客引きみたいに外見で選んでくるのは論外だね」
「そうよ、えりちゃんは?」
「絵理愛は、初カノの名義を貸してくれたから、いきなり金の話をされたって思うことができなかった」
「わかる。あなたは人を見たら泥棒と思う前にその人を客観的に見るもんね。見限ったって言っても、人を信じることができる人間になりたがってたよね。それを見てて、本当は叱られたいのかなって思うようになったの。
でも、嫌な思いをさせてもっと甘えられるママに流れたらどうしようって思って、あさりママに説教されてからも、あなたが私と家族のために不倫してくれない強い人だって知ってからも、怖くて、私があなたを信頼してあげられなかった。
その結果として、私より若いえりちゃんがあなたを叱って、あなたがそれに納得して、私のママとしての役目も、恋人としての役目も失ったって思った…」
ママとの利害に囚われていた俺は、確かに叱られたかった。でも、絵理愛に何を言われても、ママを忘れなかったのは、叱られなくても買いに行く価値があったからだ。それは、自尊心がボロボロの男を認めてくれた恩義だ。
「それに、えりちゃんはね、最初にカフェに来た時からお水の子の何倍もあなたを気にかけてた。捕まえてやろうって目までしてた。恨みかと思ったくらいに。
あんまり聞きたくないけど、えりちゃんがどんな素振りしたのか気になるわね…」
「目の前で授乳はじめた時はぞっとしたよ」
「そうだったんだ。でもぞっとしたなんて言わないの!完全にパパとして認めてなきゃやらないわよ。パパか…私ももうヤマちゃんなんて子供みたいに呼べないわね。ヤマトって呼んでいい?」
もう、ヤマちゃんではなく、あなただった。それは尊厳を認めてもらった呼び方だ。それから、より近しい呼び方をしたがっている。別に結婚してるわけでもないし、セックスしたこともないけど、相手がママだから勘違いしてるだけで、味方というのは結婚もセックスもしないのが当然だ。
そんな味方の中で唯一の存在になりそうな女が、俺をヤマトと呼んでいる。
「ヤマトのほうがしっくり来るけど、絵理愛が許してくれるかわかんないね」
「えりちゃん…今独りぼっちでしょ?ヤマトに助けてもらいたいはずよ」
調査会社に身元がバレてからは皆して人と関わらない行動を選んでいたが、それぞれが特に絵理愛を避けていた。
「ママに見せびらかすつもりじゃないけど、ちょっとカッコつけてみるよ…」
絵理愛が電話に出ない。無視されても仕方ない。恐る恐る小里絵から日曜に元夫と会う約束をしていることを聞いた。
(何時に遊園地行くんだ?}
(車出してやろうか?}
元夫への対抗心だと思われそうだが、単なる心配だ。絵理愛は喜んでいるだろうか?でも、どうせ会ったら今更なんのつもりだってキレるだろうな。小里絵にまで呆れられて、長男に追い回されて、長女にギャン泣きされて、内心ぐちゃぐちゃなんだろう。
返信してほしい。
でも、とうとう絵理愛から俺に連絡することはなかった。
俺を求めているのは、絵理愛じゃない。大西の債務者達だ。家族や弱い奴に無心してきて、とうとう首が回らなくなった話す価値もない連中が、同情すべき弱者の皮を被って俺の電話を光らせる。どうせそうだ。
俺も弱い。世間的には強い人間の部類だが、それがいつまで続くかもわからなくなってきた。データを改竄していた大手の株を売って以降、勝った試しがない。あれから仕事がかなり遅くなっている。
日曜になって、11時半に不意にかけた電話が絵理愛につながった。泣いていないが、声は聞き取り辛い。ここまで弱っていたんだな。
「ヤマト、バイバイ…」
「結局元鞘に納まるのか?」
「違うよ。独りになるの。怖かったの。ずっと、みんなが」
「何が独りになるだよ。迎えに行くから待ってろ」
「だから、いいって。怖かったんだよ、ヤマトに見栄張って、大事だって言った息子が。大きくなって、どんどん悪い時のパパみたいにしつこくなってきて、暴力も痛くなってきて。
だから、遊園地に置いてきたの。
ありがとね。おもちゃ一つで私を無視してくれるって教えてくれて。息子は大丈夫だよ。娘も一緒だし、13時にはパパが迎えに行くから。
私は保護責任者遺棄で警察に連れてってもらうから、迎えはいらないよ」
「黙ってろ!あと動くな!俺にできることはやらせてくれ。でも、何ができたとしても、絵理愛が前科を背負うほどの価値は俺にはないからな」
「なんで自分の話になるわけ?気持ち悪いんだよ。死ねよ…」
別れの言葉は、これくらいでいいのかもしれない。ただ 、本当にこれを最後にしたくはなくて、気が付くと代車の鍵を握っていた。
15年以上も前に、別れる運命だと決めた女に、過ちを指摘されたんだった。あの日絵理愛が歌った卒業ソングを思い出す。また会おう、希望がある歌だった。
俺は焦りながらも、希望を抱いているから走っている。渋滞を避けて住宅地に入る。居住者用車両以外通行禁止の標識があるが、絵理愛を過ちから救うことを理由に侵入していく。
カーラジオから流れてきたのは、失恋ソングだった。奇遇にも、この曲も絵理愛があの日歌っていたやつだった。
カーブミラーに車が見えたが、相手が一時停止だからと速度を緩めなかった。すると、その車が前進してきた。俺のブレーキは間に合わなかった。
五人乗りのセダンから、きっちり五人の男が降りてきた。
「あーあ…」
人生で一番長い溜め息だった。長く、細く、口笛が出そうな高さだ。
今までの全てが過去になっていく。嫌な奴と、失敗も。どうせそいつらに笑われたって、俺は知らずに済むから、関係ないことなんだ。
それでも、気が晴れない。これからやり直せたかもしれないことは、消えてくれない。
「悪いね。いくらで済む話?」
「ヤマちゃん、お金だけで解決しないことも世の中にはいっぱいあるんだよ?」
親切に振る舞い、弱いものいじめを憎んだ少年は、青春を終え、朱夏になって、ヤクザに常識知らずだと説教されている。
「ちょっと話しようよ」
「登録番号ある弁護士ちゃんといるの?」
「いるってば。お代は弾むけど、ヤマちゃんなら大したことないよね?」
「じゃあ…お願いしようか…」
俺は凹ませたセダンに躊躇わずに乗った。代車は、五人のうちの二人が乗ってどこかへ行ってしまった。
やっぱり来てほしい…セダンに乗ってから数分して、ふとそんな連絡が絵理愛から来ていないか確認する。
何に期待したのだろうか。来ているわけがない。とうの昔に別れた女の夢を見た朝みたいに、俺の愚かさに呆れる。
今、決別したはずだろ?もう、過去なんだよ…
俺はつい項垂れてしまった。こいつらに頬を伝うものは絶対に見せられない。しかし、胸が攣る動きは隠せなかった。
「どうしたのヤマちゃん?なんか面白いことでもあった?」
「ああ、ちょっとした笑い話だ。俺にも、愛している女がいるんだ…」