勝ち目
俺は、実母の葬式を200万円の現金書留で片付けることにした。実父の葬式の時から決めていた。なゆたにはその旨を伝えた。
(血管障害も見越して加入してたから成人病の保険が下りるはずだし、ガンが脳梗塞の病因だったならガン保険も下りるだろ。死亡時受取人は叔母に変更してあるから、そのまま受け取ってほしい}
{前にも脳梗塞やってたから、その時は三大疾病の保険で助かったんだよ)
物を買って金を払う時以外にも感謝されることがあるとはな。でも、保険の立て替えも弁護士費用も、結局は金で解決してるもんだし、ありがとうという言葉は受けられない。昨晩も、いや、父親の葬式以降ずっと叔母に介護を投げていたんだ。その資格はない。
それに、母親は何一つ悪くない。
他人と環境を責めるな…自立した人間にとっての常識だが、自立していない人間も多くいる。
俺は何歳の子供まで、どれほど不幸な境遇の人間までを、この言葉の例外として許してやっていいのかが理解できない。
加害者が子供か貧乏人なら被害者にも落ち度を認めているようで、ずっと受け入れられない感覚だ。大抵は被害者のほうがもっと弱い人間であることを知らないのだろう。
かく言う俺も、自分が被害者だとは思っていない。いつも何か悪いことをしてしまい、愛されなくなる恐怖に苛まれてきた。
両親でも祖父母でもなく、子供が怖かった。子供に嫌われないように、弱い奴ができる限られた手段の一つとして、親切心を用いて助かろうとしていた。
でも、歴史の教科書には戦争で勝った名君か、未だに憎まれる独裁者ばかりが載っている。教科書に親切な老婆なんていたか?
これが真実で、全てだ。
俺は、嫌われずに済んだのだろうか?いや、動物にすら宿っているハイティズム信仰によって嫌われたし、自分で環境を変えて敬ってもらうための手段は、最初からなかったのかもしれない。
他人と環境を責めるな…俺は親に言われる前からそうしていた。そして、自分を変えようという啓発が、他人のせいにして生きていいと言っているように聞こえる。
朱夏を迎えて、理不尽な振る舞いと、シラの切り方を覚えても、自分は人を責めていないという自惚れのせいで、根底から変われないでいる。
他人と環境を責めるな…証券会社をうつ病で退職して、自営業でここまでになった俺のための言葉のようだ。
賞も罰も自分一人の責任で全てが片付く世界にいると、他人に無関心でいられるのだ。
俺は楽するために、他人の責任を追わない立ち位置まで距離を置くように逃げ続けている。その他人がママであっても、実母であっても。
利益は得たが、俺は自分を誉めた記憶はない。責めてばかりだ。父親の葬式で傷を負ったのも、その恐怖で母親の葬式に出られないのも、俺が悪い。
他人と環境のせいにするな…病床の母に最後に吐き捨てた言葉となった…
(ガタガタ震えて喪主やられるよりも、200万送られるほうが母親も喜ぶし、親族の面子も保てるだろ。俺がどうやってここまでになったのか想像して楽しんでくれ}
{悪い想像しかできないって)
現金書留の差出人住所は実家を離れた直後に住んだアパートにした。現住所を隠せたし、もし宛先を間違えても転送されてきて回収できる寸法だ。
実母の葬式から逃げた男の葬式には、死神しか来ないだろう。そんな末路も楽しみではあるが、もう少し先延ばしにしておきたい。弱い俺なりにも、助けたい女がいるからな。
実母の死を明かさずに、絵理愛に電話した。それどころじゃない…昨晩の思考が側頭部を締める。
「ヤマト…職場に行けないよ…」
「顔に痕ができたとかじゃないよな?」
「肩掴まれて髪引っ張られたくらいだけど、まだ痛い」
「それなら暴行で訴えられるだろ。弁護士呼ぼう」
「戦う気?あっちも弁護士用意してるみたいだけど」
「小里絵にも接触したところだな。なんて法律事務所だった?登録番号調べてみる」
その法律事務所と所属弁護士達は本物だった。偽物だったならここで一気に叩けたがそうはいかなかった。調査会社もそこまでは汚くないということか。
そればかりか、登録番号がない俺の消費者金融法人の立場が弱くなる。ここで手詰まりか?
「昨日俺が無認可の貸金業だって滑らせたことが向こうの道具にされてるな」
「本当にごめんね…」
「泣くなよ。忠告通りにすぐに廃業しなかった俺が悪い」
パソコンではレートが変動しているが、何が起きているか理解する気になれない。ここに絵理愛がいるなら、謝って抱いてやりたい。
「子供、寝てるのか?」
「昼夜逆転してるのよ。親として情けない」
「父親よりは頑張ってるだろ」
俺は絵理愛の元夫を知りたくなった。絵理愛が嫌がることをしてくる夫人と調査会社だ。遅かれ早かれこのどさくさに呼ばれるはずだ。
結局、俺は会社を休んだ絵理愛と会うことにした。パソコンも閉じていた。
カラオケのキッズルームを平日フリータイムで取って、時間まで過ごすことにしよう。
駅でいきなり絵理愛の長男が叫ぶ。
「こいつやだ!パパがいい!」
子供と犬は嫌いなんだよ。親とか飼い主、世間全体の目に抑えられて下に出ることしかできない相手に対して、自分が強いと勘違いして言い放題、吠え放題だ。
この一言を調査会社が聞いていたら、本当にパパが来るのは間違いない。それを絵理愛が後押しする。
「いい加減にしろよ!」
虐待の証拠を調査会社に提供しそうで俺も焦る。
「外だろ、落ち着けよ」
小里絵にも言われたのだろう。我に帰って拗ねた長男を宥めた。さっさとこの場を去るとしよう。
子供のいいところは、ヒーローと怪獣のソフビでも買ってやればいつまでも遊んでくれるところだ。
「ありがとうは?」
「ありがとう!」
「どういたしまして」
こんな会話、最後にしたのはいつだ?
キッズルームでは、はしゃぐ長男に付き合ってやる。
「おじさんこの怪獣の名前知ってるー?」
さっき買ったの俺だぞ?商品名を答えてやると、不満そうにした。ヒーローのほうは種類が多すぎてついていけない。子供は自分のほうが賢いと証明できると承認欲求が満たされるようだ。わからないと答えるとうって変わって喜んだ。
絵理愛が何も断りもせずに長女に授乳した。何をしているのか見てしまった俺と目を合わせてくる。
「もう少しで離乳だから見るなら今のうちだよ?」
「バカかよ。授乳室くらいあるだろ」
小里絵なら絶対にしないことだ。それも見ている相手が誰かわかる年齢の長男の前でやった。
忠告に来た時は、子供のためのはずだった。それが、今となっては俺に何かを伝えるためになっているような気がする。
元夫のことを知りたい。しかし、子供の前で父親の悪口を言うのはよろしくない。
結局、ただ時間を潰しただけでカラオケを出た。
昼間にはしゃいだおかげで、夜には子供が寝てくれたようだ。俺はパソコンで今日の損失を確認しながら絵理愛に電話した。
「元夫に連絡先バレたらすぐ知らせろよ。証拠集めれば調査会社を叩く手段にできる」
「連絡来たよ。今月はパチスロ上手くいったから4万は出せるって」
「おい…」
「ブロックする気でいたんだけど、離婚直後に養育費貰えたの。それからは断りの連絡ばっかだったけど、今月こそはって思うとブロックできなくてさ…」
絵理愛と元夫の接触はないものだと思っていた。これでは夫人と調査会社の手駒となって元夫が嫌がらせをしてきても、こちらが被害者ぶって調査会社のせいにすることができない。
小里絵が言うように、本当に手の施しようがない女だ。それに、あの長男に好かれる自信などない。別れる運命、中二の時の二人の思いがふと蘇った。
「会ってくるけど、いい?」
「好きにしろよ」
絵理愛は黙って電話を切った。
翌朝、ひっそりと生きていれば遭遇しないと思っていたことが起きていた。
「警視庁練馬警察署の者ですが、山戸田兆さんですね?」
「は?え、なんか悪いことした?」
「山戸田さんの車が外国人に盗難されました。警邏隊が犯人逮捕と車の確保はしましたが、逃走中に駐車場を横切って車に当ててしまったんです。その車の持ち主が山戸田さんと対物保険の話をしたいと言っているのですが、反社会的勢力の構成員でして…」
「いいよ。直接話す」
これが、実母の葬式に出なかった報いだ。勝ち目もへったくれもなくなった。