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冬の海の告白

作者: 藤阪つづみ

 叔母に呼び出された時点で、大体の察しはついていた。

「この方なんてどうです。造船業を営んでいる方なのですが、真面目で誠実だと聞きますよ。年もまだお若いし」

「そうですね」

 目の前に広げられた写真。眼鏡の痩せこけた青年が、あまり体に合っていないスーツを着込んで椅子の隣に立ち、虚ろな目で固まっている。律子はため息をついた。

「あれこれと選り好みしたところで、結果なんて似たようなものでしょう。どうだっていいですよ」

「まあ。では、この方でよろしいのね」

「誰であろうと、たいして変わりませんから」

 こうして、私はまだ見ぬ彼と婚約した。



 彼——武島松藏と会ったのは、式の当日である。写真で見たとおり、ガリガリに痩せていて、不釣り合いな黒ぶちのぶ厚い眼鏡がよく目立っていた。律子は静かにお辞儀をした。彼は何も言わずに「うん、うん」と頷いていた。

 聞くところによると、事業を成功させたのは彼のお父さんで、彼はただの後継ぎに過ぎないということらしかった。ははあ、どうりで頼りない面構えなわけだ。

 彼はどうやら一人息子らしく、両親に溺愛されているらしかった。特に彼の母親からの愛情はすさまじいものがあり、私は少しずつ彼そのものから距離をおくようになった。

 子が生まれてからも、その距離は縮まる気配がなかった。私はそれでいいと思っていた。好きで嫁いできたわけじゃなし、家から叩き出されるようなことでもないかぎりは、時の流れに身を任せようと考えていた。

 ところで、生まれた子は男だった。義父の要望で子は正造と名付けられた。義母は正造をたいそう気にかけ、こまごまと世話を焼いた。そのせいかどうか、義母は松藏に構うことがなくなった。私はこれといって気にしなかったが、どうやら彼はこれを気にしていたようだった。あるとき、彼は言った。

「律子さん、僕は必要でしょうか」

 夕食の最中に急にそんなことを言うものだから、私はあやうく茶碗を取り落とすところだった。そばにいた下女もぽかんとして彼の顔をまじまじと見た。私は言った。

「ばかなことを。武島造船の社長はどなたです。ねえ」

 下女に目配せをすると、彼女も慌てたように付け加えた。

「ええ、ええ。この家は、旦那様あってこそでしょう。まったく急に、何をおっしゃるのか」

 下女のほうは私と違い、本心からそう言っているようだった。しかし彼は、そんなにも必死な彼女の訴えにもたいして動じず、「そうか」とだけ呟いて、再び箸をとっただけだった。

 そのときこそ何とも思わなかったが、粘着質な母の存在を失ったことは、彼にとって大きな出来事だったらしく、その後も何かと隙をみつけては私にくだらないことを尋ねるようになった。

 律子さんは今、暇ですか。

 律子さんは今、何を考えていますか。

 律子さんは今、どこへ行きたいですか。

 私はその都度、何も考えることなく返事をしていた。



 そしてその年の冬、彼は突然、こんなことを言い出した。

「海へ行きませんか。きっと律子さんは海へ行きたいにちがいない。そうでしょう」

 外出が嫌いで、あらゆる誘いを嫌がる彼からは考えられない言葉である。私は答えた。

「別に行きたくはありませんが、あなたが行きたいのならば、そうしましょう」



 一週間後、彼と私は、特に何も語ることなく、冷たい風が吹き荒ぶ砂浜を静かに歩いていた。砂浜というのは随分と歩きづらく、私は何度も足をとられた。こんな真冬に海へ来て、彼はいったい何をしようというのだろうか。しかし一方で、この突き刺さるような風と荒い波を楽しんでいる自分がいるのも、また事実だった。

「すみませんでした」

 ふいに彼が口を開いた。

「こんな寒い中の海に来ても、しかたがありませんでしたね」

「あなたが来たかったのならば、それでいいじゃありませんか」

 そう返すと、彼は心底不思議そうな顔をした。

「これは、僕が望んだことなのでしょうか」

「そうですよ。他に誰が望んでいたんです」

「すると、僕が一方的にあなたをここに連れてきたのですか」

「そうでしょう。何か考えがおありだったのではありませんか」

 彼は黙って足を止めた。私も足を止めて彼を見つめた。彼は言った。

「僕は、自分で何かを望んだことがないのです。だから、望むということがわからない。しかし、あなたが海へ来ることを望んでいないというのならば、僕が望んでいたということになる」

「難しいことを仰いますね」

 私はそう口に出してから、ある考えに行き着いた。

「もしかすると、あなたは自分でやりたいことを決められないたちなのですね」

 すると彼は、とてつもなく困った顔をして言った

「ああ、そうなのかもしれない。なぜなら、今まで自分で何かを決めたためしがないから」

 そうして、こう続けた。

「だけど、海へ来たら問うてみたいことはありました」

 彼は、なんでもなさそうに続けた。

「僕のことは、好きですか」

 なんだ、そんなこと。



「ええ、好きですよ」

 私は、いつも通りの真顔で答えた。

 彼の表情もいつも通り、何を考えているのかわからない、とぼけたものだった。しかし、普段に比べてどことなく機嫌がよさそうに見えたのは、気のせいではなかったかもしれない。

 これが、彼と私の、最初で最後の、遠出の思い出となった。

 彼が病に倒れたのは、海から帰ってきて一ヶ月後だった。

 半年もの闘病生活ののち、彼は、はじめて会ったときよりもさらに痩せこけた身体を横たえて、静かに旅立った。



「律子さん、ちょっと」

 幼い正造を抱いた義母が、私を手招いた。

「なんでしょう」

 義母はコルク栓の瓶をよこした。

「あの子の机の引き出しから出てきたの。心当たりはあるかしら」

 中には丸めた小さな紙と、二つの二枚貝と一つの巻貝の殻が入っていた。海で記念に持って帰ったのだろうか。

「半年前に行った海の土産でしょう」

 義母が何かを言う前に、私はそれを持ったまま部屋へ戻った。

 瓶の中の紙を取り出すと、やはりそれは、手紙だった。



 律子さんへ

 僕のくだらない願いを聞いてくださりありがとうございました。

 能力もない、両親の言いなりになることしかできない僕を好いてくれているのは、あなたくらいです。

 その言葉だけで、僕は今までで一番救われたような気がしました。

 いつか年をとったとき、密かに持ち帰ったこの貝殻とともに、この手紙をあなたに渡そうと思います。

 武島松藏



 拍子抜けするほど短い手紙だった。

 私は、これを見てはじめて、人生ではじめて後悔した。

 こうなることがわかっていれば、あんなにおざなりに済まさなかったのに。

 彼の悩みも訴えにも、真剣に耳を貸したのに。

 私は貝殻を握りしめ、人知れず部屋で泣いた。


end

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