嗅覚:林田満彦の場合
もう、秋ね。
薫がそう、柔らかな笑顔を浮かべながら小さな声で呟いて、そっと僕の手の甲に自分の掌を重ねた。
「そう? まだ日中が暑いから、秋っていう実感湧かないけどな」
「でも、キンモクセイの匂いがするでしょう? あの香りがすると、秋だなって思うの」
キンモクセイ。
聞いたことがあるような、ないような。そう答えたら、薫は肩を竦めて
「みっちゃんは男の子だからかな。絶対知ってるよ、キンモクセイ」
と笑って言った。なんだか馬鹿にされたみたいで恥ずかしくなってむくれたら、薫は軽やかに
「ごめんね、みっちゃん」
なんて、耳元で囁いてから、わざと、ちゅっとリップ音を残して僕から離れた。
「……誘ってるの?」
「うん、誘ってるの」
悪戯っぽい笑顔でそんなことを言われたら、もう辛抱堪らなくなった。
みっちゃんは、男の子だからね、単純で、気持ちのいいことが好きなんだよ。なんちゃって。
窓を開けているだけじゃ、まだまだ暑い真昼の部屋で、僕は薫をゆっくりベッドへ横たえた。少しだけ風が吹いて、カーテンが揺れる。一瞬、かすかに甘い香りがした気がして、薫の首筋に顔を寄せれば、人工的に甘い香水の匂いがした。
***
「キンモクセイはね、人工的にはあの香りを再現できないのよ」
デパートの化粧品売り場を通り過ぎる時、キンモクセイの香りと書いた香水が売っていたので、
「買ってあげようか」
と尋ねたら、薫はゆるゆる首を振ってそんなことを言った。
薫は、匂いにこだわりがあるようだったから、僕はそれ以上に何も言わなかった。
春は、ジンチョウゲの香りがするからもう春ねと言った。
夏は、クチナシの香りがするからもう夏ねと言った。
「冬は?」
と、ある時、聞いたら、
「冬は寒いから外にでないもの。でも、そうね」
冬は、みっちゃんの香りがする。
するりと首に細い腕が回されて、薫のいつもの香水が甘く鼻先を掠めた。なんでもないように、耳元に唇を寄せて、
「こうやって、ね? 寒いからみっちゃんに引っ付いて暖を取ってるでしょう。そうしたら、みっちゃんの香りがして、もう冬ね、って思うの」
「そんなこと言ったら、冬しか僕に引っ付いてこないみたいじゃないか 」
照れ隠しに吐いた言葉は、子供みたいに不貞腐れたようだった。薫のクスクス笑う声を聞いて、ますます自分の発言の幼稚さが嫌になる。
「可愛い、みっちゃん」
「男に可愛いは褒め言葉じゃないぞ」
怒らないで、なんて怯えてるとはおよそ思えない、からかうような声で言う。それで、僕は薫を怒れなくなる。馬鹿みたいだな。
なあ、薫。薫にとって、僕の香りは冬の象徴なのかもしれないけど、僕にとって君の香りは季節を感じさせるものじゃあないんだよ。
「薫は、官能の匂いがするよ」
「……それは、褒め言葉なの?」
どうだろうね、としてやったりの笑顔で見詰めれば、彼女は
「意地悪ね」
なんて、心にもない台詞を吐いた。
***
「オレンジの雨が降ったみたいだと思わない?」
雨上がりに、買い物に出かけた時にぽつりと薫が言った。彼女の視線を辿ると、地面に細かな橙色が散らばっていた。
「あれが、キンモクセイよ、みっちゃん」
「あんなに小さな花なんだね、キンモクセイって」
鼻腔を擽る甘い香りは確かに嗅いだことがあるから、やっぱり僕はキンモクセイを知っていたみたいだ。
「もう覚えたよ、キンモクセイ」
「みっちゃんは酷い男ね。散った姿を記憶するなんて」
悲しそうな声で薫は言った。そうかなあ。
薫がそう言うなら、そうなのかもしれない。それでも、僕の脳内には地面に散らばるキンモクセイが焼き付いてしまったのだから、どうすることもできないよ。
「みっちゃんには、綺麗な姿だけを覚えていてほしいの」
「……薫と、キンモクセイは別だよ」
当たり前のことを言った筈なのに、薫はゆるゆると首を横に振るのだった。
***
ある秋、薫は忽然と僕の前から姿を消した。何の前触れもなく、さよならも言わずに。
もしかしたら、全部、自分の妄想だったのかもしれない。あんなに愛おしいと思った人は、自分が作り出した虚像だったのかもしれない。
無理矢理そう、思ってしまおうと思ったのに、
「キンモクセイだ」
僕の嗅覚が、それを許してくれない。僕は、キンモクセイの香りを知っている。この匂いが、キンモクセイだと、もうわかってしまう。
薫は確かにいた、そして、いなくなった。
それが、僕にとってどれ程、辛く苦しいことか。
だから、僕は嗅覚を失いたい。もう、この喪失感を思い出したくない。
きっと、あの甘い香りをキンモクセイだとわからなくなれば、僕はやっと彼女を、薫を忘れられる筈だから。
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