第五話 今日も明日も安全運転で
「……ただいま」
「おかえり〜」
扉を開けたら異臭が噴出されるんじゃないかと冷や冷やしたが、それは俺の杞憂で終わったようだ。
だが、扉を開けたら、美里が靴磨きしてるってのもある意味ではおぞましい光景だったりする。玄関一杯に靴をぶちまけて、何かごそごそとしている。
「何してんだ」
「え?あのね、さっきこの辺に黒い影が」
「影?」
「うん。もう居ないかなぁ……二時間追っかけてるんだけどね」
「いい加減諦めろ……」
どうせゴキブリだろう。俺だって人間だから、時々ゴキブリが出るのは仕方がない。
「ちゃんと片付けておけよ」
「……了解」
居間に行ったら、「10kg」と表記された茶色い袋が、五つほど積まれていた。
翌日。朝飯は昨日の夜と同じくカレー。食糧危機に関して、心配は無用となったが別の問題が浮上しそうである。
使える金が限られている以上、バスを使うのは愚の骨頂、加え自転車に乗れない俺は徒歩で高校まで行く羽目となる。二十分ほどの通学路だが、一年通っているので苦ではない。むしろ今では愛着がわいてきている。ん、別に身に付けているものではないが。
俺がとぼとぼと歩いていると、後方からバスに追い抜かれる。その窓からは、同じ高校の奴らの顔が見え、俺を見つけると「お気の毒」だとか「ご愁傷様」だとか「お疲れ様」だとかそういう同情及び嘲笑ともとれるなんともいえない表情を浮かべてくるものである。それに対して俺はあっかんべぇ〜をするでもなく、普通につーんときづかない振りをするのが恒例。毎朝、必ず一回はあり多い朝だと三回ほどある。もはや、なれとかそういう域を越えて、習慣になりつつある。
しかし、今日は違った。いや、正確には今日から、か。
いつものように、俺が撤廃作業が着々と進んでいるコンビニの角を曲がったところで、クラクションが鳴った。俺は歩道から一歩も足を踏み出していないので、それは車同士のなんらかのトラブルだろう、と思い、そのまま歩きつづけていたのだが。
うるさい。なんだか既視感があるような気がしないでもないが、まさかのクラクション連打。登校時間とあって、今は早朝。近所迷惑どころか下手すれば人権侵害にもなりかねない暴挙である。
そんな非常識なことをしやがる輩の車を確認しようと、俺は振り向いた。
真っ黒いボディに、長い車体に純度百パーセントの窓、その内側に黒いカーテン。運転手ととれるおっさんは黒スーツに黒サングラス。
……そのおっさんが顔を微塵にも動かさずにクラクションを叩いている。無表情でひたすら叩いている。三歳児が直立不動でカラオケを歌っている光景と並ぶくらい、不気味な光景である。更に朝ときたもんだ。俺の頭がどうかしてるだけならいいんだが。
というか、俺の視線から運転手が見える、というポジションがどうかしてるんだ。これは正に、
俺に用にあるんじゃねえか。
「……」
気まずくなって足を止めると、無骨に光る黒いボディの一部が開いた。そして、そこから現れたのは、
「やっほー」
柳瀬姫翠だった。
正直に吐露すると、どこかそう予想していた節があった。昨日凝視されていたことに加えて昨日のアレが重なってきている。どうか、こいつは俺に固執しているような気がするんだが……これは俺のおめでたさが影響しているのだろうか。
「近所迷惑だ」
しかめっ面で言うと、姫翠はきょとんとした顔になった。
「え?どうして?」
あるべきものが欠如している。
俺は敢えて取り合わず、質問を重ねた。
「何の用だ」
「あ、うんとね。昨日のお詫びに送っていってあげようかなぁって」
あげようかなぁっか。どっかのボンボンが自分の権力を自慢するときに言うセリフと、雰囲気が酷似しているのは気のせいだろうか。
「お詫び?俺なんかしたか?」
思い当たる節といえば、今の暴挙ぐらいなのだが。と、己の記憶を改ざんして皮肉を作り上げる俺って客観的に見ると、めちゃくちゃ厭な奴だよな。
「忘れちゃったかな。ほらさ。昨日ハンドボールの球当てちゃったじゃない?」
目の前で呑気な顔してそういうこいつの方がよっぽど厭味な奴だ。何処まで、俺達の昨日の遭遇は改ざんされていくんだ?もしかしたら、無かったことにするつもりかもしれん。こやつ、できる。
「あぁ……あれか。…………あの程度でこんな待遇か?」
「うん。何か相当痛そうだったし……」
何か、じゃねえ。あれはかなり痛かった。だが……この待遇はやっぱりうますぎる。エビで鯛どころか、シラスで鯨を釣るようなもんだ。
気がつくと、姫翠は手を胸の前で組んで、懇願の姿勢に入っていた。
「乗ってって。ね?」
仕方ないな……ここまで頼まれちゃ。
「……あぁ」
俺は頭をガリガリと掻きながら、渋々と頷いた。
車の中は意外にも広かった。二人がけの椅子が向き合う形で二つ、運転席、というなんとも素人でも想像が容易にできる空間だったが、実際に乗ってみるとやっぱり違う。特に椅子なんてもん、脳内に睡魔の雑魚が居るだけでも、座ってそのまま安眠に入れそうである。ぼふっと沈んで、姿勢がちょいと歪になる。
……さて、そんな庶民の了見なんてどうでも良かった。今、俺の思考が虜になっているもの、それはこの状況が作り出す客観的な事実。可憐な転校生、柳瀬姫翠と状況は歪といえ、一緒に登校しているという事。おい……知り合ってまだ二日目だぞ?なんだこのラブコメ的な展開……ラブコメでもこれはひでぇよな。
しかも密室と等しい走行する車の中、二人っきり。姫翠は肘を窓の淵に置いて、和気藹々と外を眺めている。俺のすぐ目の前で。俺も、そんな風に無邪気に外を眺めていたい気分だったが、生憎と俺には空気を読むスキルを持っているためにそんなことをするなんて愚の骨頂であった。
どうすることもなく、時間と道路が延々と過ぎていく。……お詫びってのは、本当に学校に送迎するだけなのだろうか……。って何を期待してるんだ、俺は……そうに決まってるだろうが。
「あ、ここここ!止めて!」
唐突に姫翠がそう叫んだ。間髪をいれず、すぐに車が止まる。完全に不意を衝かれたわけで、俺は慣性の法則に従って大人しく前につんのめる。あのおっさん……意外と手練れだ。
姫翠はそんな俺を放置して、満面の笑みで扉を開いた。
「誄羅お待たせ!」
……その名前、聞いたことあるぞ。そう昔じゃない、結構最近だ。……。
「……わざわざすみません」
懸念どおりだった。乗ってきたのは例のいい男。その脇には多数の買い物袋が挟まっている。……買い物帰り?今朝だぞ。
誄羅と呼ばれたこいつは、その買い物袋を姫翠の隣の空いたスペースに置いた。そして、視線を俺を向けて、驚いたように眉を寄せた。
「おや……昨日は姫がとんだ迷惑を掛けました」
そんでもって、いきなり敬語。
「は、はぁ……」
俺はこう相槌を打つほか無い。なんとも惨めだ。相手が予想外というか、予想の範疇だったが、万が一もしかすると、という予想だったから、こう反応が鈍る。ん?結果的には予想外だったからか。
誄羅はそれだけ言ったあと、俺の隣に腰を下ろした。まさか、客人の隣に荷物を置くなんてことはできないのであろう。……とはいえ、何故か無駄に緊張する。
どうしてか?それはもう、今の状況を見れば、一目瞭然だろう。
「べ、別にわたしは迷惑掛けてないもん」
「冗談を。鼠駆除に先に乗り出したのは姫様の方じゃないですか」
「だって、あれは本当に鼠だと思ったの!誄羅だって同意したじゃない!」
「僕は姫様に特別な信頼を抱いておりますもので。姫様が太陽が北から昇った、と仰れば僕は信じますよ」
「……そう?」
「無論」
「へへ……ありがとう」
この空間は二人の独壇場。俺は蚊帳の外。仲の良さそうな(あからさまに良いが)会話をただ聞くことしかできない。送ってもらっている身としては、そうでかい顔はできないのだが……。
俺のさっきまで抱いていた空想が音を立てて砕け散ったのを、さっき実感したのは言うまでもない。頭の中では否定していた、姫翠は俺に気がある、というハッピーセンチュリーにも程が有る妄想を、心の底何処かでは是認していたようだ。
今ではこの光景を見ている限り、そんな期待が持てる根拠がどこにあったのかも分からない。俺は完全に空気と同化しているも同然。憮然として窓の外の流れていく光景を眺めるだけ。
失恋とやらはこんなもんなのだろうか。……だとしたら、この経験は一生を生きることに関して、重大な意味を持つぜよ。
「……ってまたそれかい」
どっぷり青色どころか、黒みがかった紺色の水溶液に染まっている俺を、再び姫翠がじっと見ている。何かを必死に思い出そうと苦労している顔で。だが、答えは出ないようだ。是非とも、その答えが出たら教えて欲しいものである。
「……この方に何か心当たりでも?」
誄羅もそんな彼女の様子を訝ったのか、そう訊いた。その表情に嫉妬の色は欠片も見られない。完敗だ……。
「……なんかさ……」
姫翠は依然として冴えない顔をしたまま口を開いた。
「……」
そして、そのまま口を開けて硬直。
「……どうした」
「……名前、なんだっけ」
ほーら、見ろ。やっぱり俺の妄想だったじゃねえか。
「……近藤真治」
しかし、考えてみると、自己紹介する機会なんて無かったよな。昨日は昼休みに大接近……あれの所為で俺は今、名誉的な意味で溺れかかっているのだが、そのときも結局一言も言葉を交わさずに終わった。……。
姫翠は、俺が名前を告げると「OK」といった感じで頷くと、言葉を接いだ。
「ほらさ……近藤君って何か……親しみやすいというか、そういうイメージが無い?」
なんだそれ。俺、生まれてから一度もそんな事言われたこと無いぞ。むしろ、俺的には近づきにいくイメージを持っていると思うんだがな……。
誄羅(苗字だか名前だか知らないが、とりあえずこの呼び方で統一しようと思う)は、眉をひそめてじ〜っと俺の顔を凝視していたが……合点がいったように頷いた。
「よく分かりませんが、その様な気はしますね」
「でしょ?」
「正体は掴めませんが、懐かしいというか、なんだか棘々しいものを感じませんね……」
……懐かしい、ねぇ。
結局曖昧なその視線の正体。発生源の主たちがよう分からん、と言っているのだから、俺にも分からん。
しかし、棘々しいものを感じない、というのは意外だな。つかみ所がない、と言われたことはあるが、それをひっくり返した表現を使われたのは初めてである。
……そんな単純な理由で、誄羅に好感を持ってしまうのか。俺。本当にハッピーバレンタインデーな奴だよな……。とりあえず、誰にも悟られないように注意せねば。
「あ、そろそろ学校に着くよ」
姫翠がそう声を上げた。
窓の外に、見慣れた変色した校舎が見えてきた。他ならぬ、俺達の学校。歩いていくと、大分掛かるが、やっぱり車は速いんだな。十分ほどで着いてしまった。
扉が開くと、外の涼しい空気が肌に当たって心地いい。俺が車から最後に降りると、扉がひとりでに閉じ、そのまま走り去っていった。校門前には、エンジン音の余韻だけが残る。
「さて……今日は頑張っちゃおうかぁ」
姫翠がそう言って、校舎に向かって歩き始めた。
俺はいつも、徒歩で学校に来ると想定して家を出るため、いつも登校時間四十五分前に家を出る。出ていた。
だが、今日はものの十五分でたどり着いてしまった。というわけで、校舎の中は誰もいない。校庭からは運動部の朝練なのか、わーわーと声がしている。
そんな人気の無い校舎。誄羅は、階が違うと言うことで途中で別れている。あんなに親密なのに、違うクラスとは。よくある話だと、同じクラスになるのは当然なのにな。
というわけで、俺は姫翠と一緒に、早朝の人気の無い校舎を並んで歩いている訳である。
……これは、同級生にバレたらまずい光景である。良くない噂話が無数にたって、インターネットの網目の様に複雑に渡っていき、俺に間接的に不埒な災厄が降りかかるに違いない。この高校の奴らは、妙に噂話が好きなのだ。
というわけで、俺にそんな雰囲気に浸る余裕は無い。周囲に絶え間なく気配を巡らせ、誰かいないかアンテナを張って監視。そして、誰かと遭遇したときの対処法を何十と言うパターンを熟考(頭の良い奴だと、何千とかいくんだろうがな)。これを、羨ましい光景だとか言ったやつがいたら、俺はそいつの頭皮をつねってやりたいところだ。
今朝から今に至るまで一つ、とても気になるところがあったが、生憎訊くだけの図太い神経は持ち合わせていない俺だ。
隣の姫翠をちらりと見やると、何故だか楽しげに鼻歌を歌っている。何でこんな能天気なんだろうか……。
「……なぁに?」
視線に気づかれた。
「べ、別に……」
俺は慌てて視線を逸らして、口ごもる。でもよくよく考えてみれば、今このタイミングは正にしこりを解消する絶好の機会なんじゃないか?
「なぁ……」
「?」
「……あの買い物袋は何処行くんだ?」
誄羅が車に乗り込んでくるときに持っていて、そのまま姫翠の隣に載っていたアレの事である。車から降りるとき、彼は手ぶらであった。
「んー。うちって結構複雑なシステムになってるの」
姫翠は人差し指を顎にあてて、考えるように視線を上に逸らす。
「詳細はいえないけど、買い物を朝に済ませちゃうのは、その一環でね。あの買い物袋はそのまま家に直行しちゃうの」
「へぇ……」
俺はそう感嘆詞を打ち、納得しかけたが……
「え?」
何かすざまじい矛盾と言うか、事実に気づきそうになった。
姫翠の顔が「マズイ」色に染まった。誤魔化すようにぱたぱたと両手を振って、色々といってくる。
「わっわっえと、あと、そ、そうだ!今日テストだよねっ!」
姫翠の作戦は大成功。俺の興味はそちらに強制送還されてしまう。
「にゃ……テストは明日だぞ」
「え、えと、自信はっ?」
「…………皆無」
「じゃ、じゃあ一緒に勉強しよう!勉強!皆でやったほうが楽しいでしょっ?」
「あ……あぁ……」
「き、決まりっ!絶対だからねっ」
下手くそな街角インタビュアーみたいに、噛み噛みに言って来たが、何故か断れぬ勢いを感じて、頷いてしまった俺。
勉強……?柳瀬の家で……?俺が……?
脳内思考回路は完全にパニッククラッシュ大喝采。まだ知り合って二日だぞ?何を勘違いしている……俺……。いや、な、な……う……。
そんなこんなで、教室に辿り付いた俺に、とんでもない追い討ちが。
閑散とした教室内には、一つの人影。190あるんじゃないかと思えるその人影は……
一人何かを待ち焦がれるようにそわそわとして、机に着席して文庫本を読んでいる大平だった。似合わないことこの上なし。
……だが似合うとか、そういうことはどうでもよかった。
大平と目があった。そして、その目はつーっとスライドされて、俺の隣に……
大平の顔が徐々に緩んでいく。俺はその劇的な変化の過程を一生忘れないだろう。