第二十三話 明日晴天なり
──駄目だ。これ以上は処理しきれん。誰か代わってくれ。この無数の雛あられが水道管から湧いてでてくるような、不条理で不可解な物事の連鎖の根本的原因を誰か解明してくれ。
「はろー……ってありゃ…………失礼しましたッ!」
そして、すぐ開いた扉が閉まる。だが、俺は見逃さなかった。その扉からはみ出た顔を──。
俺は顔をしかめるとすぐに走り出して、閉じた扉を蹴るように開いて、逃げる背中を追った。別に誰かに命令されたわけでも、そいつが黒幕だと確信した、とかそういうわけでもない。
俺の脳内で、無数の『何故』が逆流し出したからだ。
「おいっ!」
すぐさま追いつくと、奔走する肩をぐいと掴んで停止させた。そいつは電流が走ったかのように、動きを止める。
「きゃっ……あ……」
そして、ぎちぎちと壊れた人形のように振り向いてきた。俺はその横顔を焼くように睥睨する。
「なんでここに居るんだ?」
「────あら、偶然ねっ!」
「黙れ。質問に答えろ」
「ちょ、ちょっとどうしたの? そんなに怖い顔してぇ……」
おどけてやがる。取り乱した表情を必死に取り繕って、引きつった笑みを浮かべて俺のご機嫌を取ろうとしている。だがこの反応からして、それが山火事に唾を吐いているようなもんだと自覚があるようだ。
目の前の人物を直視したとき、全ての疑問が憤怒へ変わった。
「──何でお前がここに居るんだ?」
「ん……わ、解ったからさ……手を離して、笑って、ね? 真治」
至近距離で手をぱたぱたと動かして、弁解を媚びているのは他でもない──俺の唯一の肉親となった、美里だった。俺の脇を潜り抜けて出発したあの時と、全く同じ服装で、手に何かビニール袋を持っている。何が入っているのかまでは定かではないが。
尚、笑えない。全てを無に返すような、今に至るまでの全ての経緯が無に返されるような、虚脱感を爆発させかねない、そんな瀬戸際に立った気分だ。
──やれやれ、本当に狡猾な女だ……。
あの男のセリフが反芻される。女とは、誰のことを示しているのか分からないが──第一候補が、今目の前に居る美里。
手を美里の肩から下ろして、再三言った。
「何故、お前がここに居る?」
「──……んー、色々事情があってねぇ……」
「事情って何だよ」
「紆余曲折、かくかくしかじか……」
「隠すな。何で、お前はここにいる? あの男と何の関係がある?」
「あの男って?」
「しらばっくれるな! 俺を攫ったあの男だよっ!」
「──あぁ、もしかして、まだ聞いてないの?」
「な、何をだよ」
いくら問い詰めても、しれっとした態度を維持している美里の態度に、疑惑が湧いてきた。どちらかというと、犯罪者の首謀が言い逃れようとしているものよりも、悪戯したことを隠そうとしているようで──。
「ここ、懐かしいよね」
ふいに美里が踵を返して、工場を仰いだ。俺も釣られるようにその建物を視界に収める。
「何がだよ」
「覚えてない? 昔、ホントに昔だけど、よく遊びに来てたじゃん」
「──あぁ……」
気づかないうちに生じていた突っ掛かりが消えた。
ここは幼稚園時代、幼稚園の帰りによく遊んでいた廃工場だ。どういう経緯かは覚えていないが、頻繁にここで何かと遊んでいた記憶がある。その時から、ここは廃工場だったな。幼稚園を卒園してからは、めっきりと来なくなったが。
「……だからか……」
だから、あの殺風景な内部の風景を見ても、ここが工場だと分かったのか。
「まだあったのか……」
「そりゃあるよ。一応、私有地だもんね」
美里が戦争のことを語る老人の様に、しみじみと言った。
「二十年くらい前かな? この工場の経営者の人が夜逃げしちゃってね。その経営者の借金を担当してたのが、お父さんだったの。その四年後……くらいに、抵当云々の関係で、どういうことかお父さんがこの工場を貰っちゃったんだって。それが、丁度真治が生まれた直後。工場の再建に燃えたお父さんは、意気揚揚とここに来たんだけど、四年も放置されてたんだもんね。不良とかそういうのが屯してたんだって。それで、困ったお父さんは私有権を持ってることを示して、お父さんが管理者として君臨する代わりに、この工場を自由にしていい、って契約したんだって、そこの人たちと」
「──つまり、なんだ」
──まさか。
冷や汗が背中を伝った。こんなにも、動悸が激しくなったのは何年ぶりだろうか。
だが、美里が言ってることが正しいとすると──
「あいつは……」
あの中年男は……。
「お父さん。真治と、私の、ね」
あの近藤という苗字に反応したのも、それで頷けるというのか……至極あっさりと疑問の大部分が掃われてしまった。──美里はどこまで何を何故知っているんだ?
「あっ」
美里は、何かに気づいたようにそう漏らすと、くるりと俺の方に向き直って、手を振った。動揺して不安定な理性を奮い立たせて、俺も振り向く。
後ろには、男──俺の親父が立っていた。ポケットに手を突っ込んで、カッコでもつけてるつもりなのか。生まれて初めて見た、その姿。感想は、全く分からん。美里が言わなければ、絶対にこいつから俺や美里が生まれたと信じなかっただろうな。くたびれては居ないが、子供の様な無邪気というか、向こう見ずなオーラがひしと感じられる。──美里と同じ臭いだ。
親父は面白そうに口を歪めて、言った。
「そういうことだ。分かったか?」
「あぁ……分かった。家の生い立ちは分かった」
俺は額を抑えたいのを堪えて呻くように言った。だが、それだけでは、俺の最初に提示した疑問は完全に解消されない。
「だけどな……なんで柳瀬──いや、他の生徒にもストーカーなんてしたんだよ? 何で挙句の果てに俺を誘拐した?」
俺は親父を真正面から見据えながら、捲くし立てたが、親父の姿勢は全く変わらなかった。ただ、虚空を眺めるような目で俺を見るばかりだ。
「え? ストーカー?」
それに反応し、きょとんとした声を上げたのは、美里だった。
「何の話?」
何だ、こいつら……。俺をからかってそんなに楽しいのか?
「真治、大きな誤解をしている様だな」
親父が肩を竦めて言った。
「ここの連中はそのストーカー事件とは一切関係無い。むしろ、追っかけてる側だ」
「はぁ? そんじゃ、なんで俺を──」
「あぁ、その前に、だ。ちょっとしたイベントがある」
俺の疑問の逆流を手で制して、親父が言った。
イベントだと? またスペシャルゲストでも来て、変な辻褄合わせでもするのか? それとも、今までこいつらが語っていたのは全て嘘で、俺を再び捕らえようとあの男たちが集結してくるのか?
「なに、そんな野暮なことじゃねえ。もっと華やかなお涙頂戴のイベントさ」
俺の表情から心境を読み取ったのか、親父がくつくつと笑いながら言った。その意図が読めずに、俺が目を眇めた、その時。
「え?」
親父の背後から、狐に騙されたような顔をした姫翠が現れた。目を丸くした、という慣用句の正確さを改めて実感する。
その姫翠の丸い視線の先には、美里の姿が。こちらは姫翠と違って、さも当然と言わんばかりにどっしりと構えている。
なんなんだ、この差は。というか、姫翠は美里と面識が無かった筈じゃないのか? 家に泊まったときも、丁度美里は遠征中だったしな……。
姫翠は催眠術にでも掛かったように飄々と俺の脇を抜けて、美里のもとに歩いていくと──がばっと抱きついた。こう吶喊しながら。
「師匠ー!」
──口の中が妙に乾くんだが。また幻聴か……それとも──。
「んー、素直な子ね。久しぶりー」
「う、うぇっ、えっ、ど、どこ行っちゃってたの?」
なるほど、感動の再会だ。
姫翠は顔を迷子の子供が親を見つけたときの様に美里の胸に押し付けて嗚咽を漏らし、美里は美里で満更でもないように姫翠の背中を撫でている。俺と絶縁すれば、姉妹としてやってけるんじゃないか、と思えるほど嵌った光景だ。──い、嫌なこと言わすな。
「──お前ら……いつからそんな深い仲になったんだ?」
しかし、その光景があまりにも嵌っていたもんだから、そんな風に漏らす。こんなのドラマでも最近見ないぞ。
まぁ、呟いておきながらも、その理由は大方予想はついてるんだろうけどな。家に帰ってきたあの日の、あの服の汚れ具合に衛生的な常識の欠如──。
俺は精一杯うんざりとした口調で言った。
「姉ちゃんだったのか。その師匠なる暇人は」
初めて俺が存在を聞いたとき、姫翠がおとーさんなんて言うもんだから、ずっと男だと思い込んでいたが、それは発想の裏返しだったわけか。だから、俺がどこに行ってたのか訊いた時、頑なに言うことを拒んだわけか。
俺がげんなりとすると、美里はちょっとバツの悪そうな顔になった。
「暇人って言わないでよね。私が居なかったら、真治は劇的な出逢いはできなかったんだから、ねえー姫ちゃーん?」
「ふえ……?」
唐突に話の担い手にされた姫翠は間の抜けた声をあげながら、美里の顔を見上げ、そのあとくしゃくしゃになった顔を俺に向けて──真っ赤になった。
「何の話だ?」
俺は顔を顰めた。確かに、それは一理あるが、『劇的』の意味するところが分からん。
美里はよしよしと姫翠の頭を撫でながら、童話を語る老人の様に半生を話し始めた。ん、あれか。ミステリーでいう探偵の独壇場か。俺は驚いてその話に聞き入っている警察か。気に入らん。
「んー、私が飛び出していった実のところの理由はね、お父さんのとこに行こうと思ったんだけどねぇ。お前にゃまだ早いって言われて即席で追い出されちゃって。私も若かったからねぇ。拗ねて、死のうと思って山に篭ったの」
「……」
「そ、そんな顔しないでよ。本当にあの時は前が見えてなかったんだもん!」
「ってぇことは」
俺は視線を親父に移した。
「親父はずっとここに住んでたわけか」
「いやな、家賃取るだけで大分儲かって、家に帰るのが面倒になってな」
最悪だ。なんて野郎だ。死んでも俺はこんな奴にならん。
「そしたら、わんわん喚く仔猫ちゃんと表情虚ろの絶望くんが居て……、話を聞いたら随分とお気の毒な身の上だったのね。だから、私がおかーさん代わりになってあげようと……」
親子こぞってその場のノリで生きてきたのか、こいつら。普通、山から下ろすだろうが。
「動転してたからねー。家に変な置手紙も置いてきちゃったし。意外と環境も良かったから、そのまま住んじゃった」
「へぇ、そんで恋愛云々聞かせて、柳瀬が妙な希望を持ってしまたというわけか」
「妙じゃないよ、粋なものだよ」
「どうだか……」
なんというか、嘘臭い演説だったが、姫翠のこの反応からして、多分本当なんだろうな。この感情の掌握に大儀する奴が、ここまでハードな演技できるはずがない。
「そんで、気がついたら、二人とも随分と大きくなっちゃって……ね。流石にこれ以上はマズイ、って思ったもんだから、慌てて山から下りてお父さんのところに連れて行ってみたら、笑って柳瀬さんを紹介してくれたのね」
笑って口に出すほど軽い名前じゃないと思うんだがな。
それを聞いた親父は照れくさそうに口端を割った。
「柳瀬は俺の古い知人の一人だったんだがな、年頃の子供が欲しいとか言ってたもんだから丁度いいと思ってな」
「ば……ひ、卑猥な言い方するなよ!」
──俺はギョッとして反射的に言い放った。だが、親父は悠然と構えて、というかニヤニヤしたままだ。
「事実だ。そんで、男の方はその専属執事として投入した」
「そうして私の肩の荷も降りたんで、家に帰った、っていうね」
常識を凌駕した、とんでもない茶番劇だったわけだな。一応繋がったが……どうもまだ信じられない。
「信じなくてもいいよ、別に。信じても信じなくても今はあまり変わらないもの」
美里は清澄な瞳を俺に向けて言った。姫翠の背中をパンパンと叩きながら。
「よりによって、真治を好きになっちゃうんだもんねー。物好きだよねー」
「……お前、それは相当の侮辱だぞ」
「謙譲語だよ」
「謙りすぎだ」
「いやー、でも姫ちゃんと真治が学校でつるんでるなんて知らなかったなぁ……」
「──そうだよな、俺お前に教えてないし」
「あぁ、それは俺が柳瀬から聞いた」
またそこで親父が出てくるのか。
「どうやって知ったか知らないがな、どうもうちの娘に好きな奴が居るらしい、とか言ってきてな」
どうして、これほどまでにも、このおっさん達にはデリカシーとかいうもんがないんかね。
「まぁ、そんで住民達に訊きこみに走らせたら、随分とまぁ、露骨に付き合ってる奴が居るだとか何とかでな。そいつが近藤真治とかいうもんだから、たまげたもんだ」
住民──工場の床で寝てる奴らか。……確かにあの頃から露骨に付き合ってたな。いや、付き合っていた、じゃないな。──行動を共にしていた?
そもそも、あいつらと関わるきっかけになったのは、姫翠と誄羅双方による双方への告白を中間地点として俺が同日に聞いてしまったもんだから、これを看過するのは人間としてどうかと思う、とかそういうあれで仕方なく……やってたんだからな。どこに姫翠の好意が俺に傾くタイミングがあったんだ?
「匂い……ですよ」
そこで俺の表情から察したのか、ずっと寡黙を守っていた誄羅が口を開いた。
「懐かしい匂いがする、と言ってましたからね。確かに、僕もそんな風に思えましたが、それは貴方が師匠の弟だったから、同じ雰囲気がするという意味だった、ということです。その雰囲気どおり、貴方は当り触りのいい、好青年でしたから、姫様が溶け込むのも時間の問題でした」
その分かりきっていた様な口ぶりに、俺は突っ掛かりを覚えて口を挟んだ。
「でもお前、あの時告白してたよな」
「あれは僕たちと関わるようにするための布石です。それから、計画どおりといっては難ですが、貴方は僕たちと積極的に接してくれるようになりました」
「ってぇと、柳瀬に漏らしたのはお前だったんか」
親父が溜飲が下りたような顔をして、誄羅に訊ねた。誄羅は難なく頷く。
「漏らしたつもりは無かったんですがね。勝手に察されてしまったようです」
「そこで、私達のターンに入ってー成就計画始動っ! てね」
テンションがローになった途端に、一番の厄介者と思しき美里がそこに乱入してきた。雰囲気のギアがハイへと切り替わる。──空気読め。
「色々と不安定な事をして、最終的には真治を攫って身代金受け渡しの時に劇的に告白ッ! てな感じだったんだけど……まぁ、これでもいいよね?」
不安定、とはあの監禁事件とかゴキブリ事件とか、そういうアレの総称なのか?
「分からん。噛み砕いて話せ」
「だから、この事件の仕掛け人は全部私とお父さんと柳瀬さんだったの、分かった?」
そうすると、全部謎が解けるってか。俺が攫われたのが、こいつの告白への後押しだったってか。身代金云々も、柳瀬氏も仕掛け人でタネが分かってるから、警察に繋がることもなく簡単に出来る。そして、そこで何らかのアクションがあって、姫翠が俺に──。
「ま、犯罪は犯罪に変わりないから、別に真治は私たちを訴えてもいいよ。別に抵抗とかしないで素直に牢に入ってあげるから」
「は?」
美里がさっぱりとそんなこと言うから、俺は思わず顔を強張らせた。
「馬鹿かっ! そんなことするわけないだろうが!」
「そう? ……ふふ、ありがとー」
すると、満更でも無さそうに美里は笑った。
「まぁ、色々難はあったけど、これでハッピーエンドね」
そして、美里が姫翠を解放して、パンと手を鳴らした。何がハッピーエンドだ。ずっと俺達は弄ばれてただけじゃねえか。
「そんじゃ、二人とも、向き合って向き合って」
美里はにこにこと笑って、俺と姫翠の肩に手を回した。
「は? 俺?」
「何言ってるの、もともと主人公は真治だったんだからね」
「ひゃぁ……」
そんなこんなで、姫翠は未だ目を白黒させながら、俺の前に立った。散々だな、告白に成功したと思ったら、こんな劇的な展開で。ご愁傷様だ。
そして、美里がばっと手を掲げて叫んだ。
「じゃ、どうぞ!」
「……?」
──沈黙。
美里はあれ? と視線を彷徨させて、それから不安げな顔になった。
「え? え? 何? どうしたの?」
今思えば、あの告白に立ち会っていなかったのは、こいつだけだったな。まだ、告白が完了してないものだと思い込んでたわけか。
「ふふ……」
妖精の様な笑い声が聞こえて、視線を落とすと、姫翠が笑っていた。押し殺すように、それでも抑えきれずにころころと。
そして──抱きついてきた。
前に一回だけ、こうされたような気がするが、今回の抱擁は前とは違っていた。なんというか……飛び込むように、というか、身を預けるように、とかそういうのじゃない。
そして、俺の貧しい語彙の中から引っ張り出して紡ぎ出した結論は、一体化するように──
十六年の生涯の中で、滞納されてきた利息が一遍に舞い込んできた瞬間、俺はいつまで忘れないだろうか。できるのであれば、朽ちて灰になっても、この高揚感を心に宿らせておきたい。
脆く崩れた光を提供してくる、弱弱しいが眩い朝日が視界に入った。まだ、一日は始まったばかりだ。
エピローグへ続く。