第十七話 毎日脱走日和
そのまま誄羅とは別れ、一人寂しく走る車に乗り込み、そのまま家へと舞い戻ってきたわけなのだが、どうも気まずい。いや、美里のことなんだがな。あれきり結局一度も連絡を取らずに、柳瀬家へお邪魔しかれこれ二時間経ってしまっている。ピザが届いたであろうが、そんなので安心する程度だったら元々家出(本人曰く、流浪の旅らしい)に出るはずは無い。
とはいえ、このままずっと家の前で佇むのも、意地を張って家出したが腹が減ってすぐ家の前まで帰ってきて、だが意地が障壁となって素直に家に入って来れない小学生のようで、どこか情けない。大人気ない。
というわけで、十秒以内に家に帰ることを決心し、扉を開く。
そういえば、美里が帰ってきたときも、こんな夜中だったな、と懐かしい過去を思い起こしつつ、靴を脱ぎ廊下を歩いていく。
そして、居間に入ろうとした刹那。
「真治ぃぃ……っ!」
美里がすんごい勢いで、俺に突っ込んできた。あぁ……俗に言う、タックルって奴か。
腹にそれをもろに喰らって、そのままぐうも言えず、なすがままに廊下に倒れこんだ(後頭部殴打はデフォルト)。
「お、おぅっ……な、何がどうしたっ!」
ビックバン並に突然の出来事に、俺はパニックに陥りかけている脳を無理に鎮め、じたばた暴れながら状況理解を試みる。
「ふぇぇぇ……ん……、わぁぁぁ……ん……」
んぬぅ……半身を起こして見ると、俺の胸に見事に美里が収まり、そんな風にくぐもった嗚咽を漏らしていた。となると、さっきのキラータックルは抱きつきだったわけか。とりあえず、俺に殺意を持っていないだけ善しとするか。
かといって、状況が変わる訳でもない。
俺は泣きじゃくる美里の背中に左手を載せて、語り掛ける。
「な、ど、どうした……?」
「ふえぇぇぇん……遅いよぅ……」
ぐいと美里が顔をあげた。その端麗な顔が見事に泣き顔と化し、ぐしゃぐしゃになっていた。目は真っ赤になり、嗚咽は止まらず、鼻水が……ん、息がチーズの臭いがする。
一応、俺は善良な人間を模しているつもりなので、この状況を好転させるには、自ら動かなければなるまい。とりあえず、落着かせなければ──。
「お、遅れたことは謝る。悪かった。マジで悪かった」
背中をポンポンと(震えた)手で叩きながら、子供をあやすように(子供に対してここまで<RUBY>謙る謙るつもりはないが)俺は言った。
すると、体に接していた体温を発す物が離れ、空気が舞い戻ってきた。美里が体を起こしたのである。丁度、俺は廊下にしりもちをつき、美里は正座から脛をずらし尻をついたような体勢で向き合っている。
「し、電話したのに……すぐ切っちゃうんだもん……ぐし」
「……ぅ」
そのままの状態で、美里は目を両手で擦りながら、ぐしぐしとそう言うのを聞いて、俺は狼狽し、同時に後悔した。いくらああいった切羽詰った状況だったからといって、あの仕打ちはいくらなんでも酷いだろうが。俺。
「…………あ、あれは、今では本気で悪かったと思ってる。や、本当だ。ん、だ、だから……な、泣き止んでくれ……」
仮にでも相手は今年二十二歳になる、社会人。そんでもこんな子供に話し掛けるような口調にならなければいけないのは、相手が相手であるがゆえんである。
「ぅん……でも、無事に帰ってきてくれたからもういいよ……ありがとう」
やがて、今だ鼻をぐしぐし言わせながらも大洪水が収まった後、美里はそう言って立ち上がった。別に礼を言われる筋合いは無いのだが、どういえばいいのか分からなかったので、ただ呆然とそれを見、慌てて立ち上がって美里の後についていった。
居間に入り、まず最初に目に入ったのは、空のピザの入れ物の箱。一人で一枚完食したらしい。そんだけ腹が減っていたということか。罪悪感が収穫している最中の麦の様に積もっていく。
「あ……ピザありがとね。美味しかったよん」
美里がそんな俺を案じてか、そう言った。──もしこれが俺の自惚れでなかったら、この姉は全く昔とは変わっていない。意識しているか、していないかの問題ではあるが、恐らく意識はしていないだろう。
やがて、美里はそのピザの箱を片付け始めた。皿も何も出されていない。もしかして、そのまま食ったのか?
「……もぅ。もう泣かないからそんなしょげないでよ」
美里が頬を膨らませてそう言ったのを聞いて、ようやく俺はぼうっとして部屋の中央に突っ立っているのに気づいた。途端に羞恥も沸いてくる。
「……そんなんなら、一個頼みごとしちゃおうかな?」
もはや数分前の大決壊の雰囲気など感じられないノリで、美里がいたずらっぽく微笑んだ。全く、この微笑に釣られる男が何人いることかね。
なんてとんでもなく野暮なことを考えていて、気がつくと比喩ではなく本当に目と鼻の先に美里の顔があった。
「な、なんだよ……」
「ふふん。今日一緒に寝ない?」
ふいと覚醒した。頭が思い。腕も重い。瞼も重い。何から何まで思い。重力が本気を出したみたいだ。それとも彼女が出来て、ハイテンションになってるのか。迷惑が掛かるからやめて欲しい。
瞼を開ける前に半身を起こし、目を擦りつつ瞼を開く。眼球が大気に晒されるのを拒絶するように重い。実際のところ、睡眠不足が問題なんだが。
あの時言っていたとおり、誄羅は登下校時に姿を現さなくなり、その上迎えの車も無くなった。姫翠曰く、事故を起こしたらしいが、定かではない。というわけで、最近の通学手段は徒歩ということに(というか、これがデフォルトなのだが)なっている。したがって、疲れが溜まるのは当然なのだ。
それで尚、睡眠不足というのは、堤防決壊の大洪水後、大震災が発生という無秩序に匹敵する。
……その睡眠不足の要因なんだがな。
俺が寝ていたのは、いつものベッドではない。硬い木の床である。またここで寝ると体中あちこちが痛くなるんだな。弛緩剤でも撒いてあるんかね。
いや、何もこっちの方がいい、とかそう言う理由で、俺はこっちに寝始めたわけではない。そんな趣味は生憎と持っていない。一応、健全な野郎である。
そして、この硬い床で寝る羽目となった理由は、その睡眠不足のもう一つと割合深く結びついているのであって……。
俺はそういった諸悪の根源を半眼でじろりと睨んだ。
それは硬い床に這いつくばるように、それでも気持ちよさそうな朗らかな寝顔を見せ付けている。その体に纏われた美里のパジャマは少しばかりだぶだぶで、手が完全にこんにちはしていなく、それでも違和感が無い。ほとんど無頓着と思われる、冷たい床に流れる長い髪。そして、床に落ちて尚抱きかかえているその枕(俺のもの。なんか似合わんな)。
他の誰でもない、柳瀬姫翠がここに眠っている。
誄羅の言った通り、本当にこの床から数十センチ高く設置された布団に寝るのが嫌いのようだ。かけてあるかけ布団も丁寧に掃われ、その布団には綺麗に落下へと向かう筋が刻まれている。
俺は右手で側頭部を鷲づかみした。
どうしてこうなってしまったのか、それはあの会合の翌日──昨日から始まっている。
確か一回、姫翠が告白云々で車で帰らなかった時があったような気がするが、歩いて学校へ向かうのはあれ以来だ。
翌日、俺はいつも通りに家を出ると、クリーニング屋になってしまったコンビニの辺りで、姫翠が待っていた。寝起きの悪い幼馴染を待っている……という修飾がよく似合う光景だ。
「ん、よう」
「あ、近藤君おはよー」
俺が声を掛けると、姫翠は俺に視線を向けて二コっと笑った。昨日の惨事の後遺症が微塵にも感じられない、晴れ晴れとした笑顔。見事に俺と対照的な体である。いや、監禁は惨事だろうが。
「誄羅はちょっと用事ができちゃったみたいで、先行っててくれって。車はエンジンがやーにゃら言って壊れちゃったから今日は歩き。ごめんね」
「いや……別に構わない。というか、歩きがデフォなんだがな」
誄羅は早速行動開始らしい。今ごろ俺達の死角から、どっかのスパイが使うようなグッズか何か使って俺達のことを観察してるんだろう。好意の人のために、必死になって裏方にまわるとは、あいつもあいつで健気な奴だよな。
「しかしまぁ……今日はこうして普通に登校できて良かったな」
「うん……」
半月ぶりに歩く通学路。だが、こうして姫翠と一緒に歩くのは初めてじゃないか?
春に入り、一応暖かいが朝はまだまだ寒い、中途半端な日差しが白みを帯びている。この通学路を四十分掛けていくのか。重労働だ。だがまぁ、去年一年ずっと通っていたわけだが。
「ねぇねぇ」
そんな思想に耽っていると、姫翠が話し掛けてきた。
「自転車ってあれの事だよね?」
そして、形の良い人差し指をサラリーマン風のおっさんが乗っている自転車に向けた。あんな高尚で不安定な物に乗れない俺は、反射的に背筋に粟立ちを覚える。
「あ、あぁ……」
「んー噂には聞いてたんだけどね。高級なものって言われてたから、都会でも珍しいのかと思ったら、そうでもないんだ、って最近思ったの」
噂で聞いてたって、どんだけお前の住んでた村は疎遠な位置にあったんだよ。自転車も碌に伝えられていないとは、給食が存在しているかどうかも怪しい。未だに疎開してくる子供達を待ってる家もあったのかもしれんな。今じゃ潰れたとか言ってたが。
「……まぁ、車が普通に彷徨してるんだからな。自転車なんて国民の八十%は持ってるだろう」
そんな最新のデータは知らないが。
「へぇ……なんか面白そうだよね」
「面白いというか、娯楽じゃないだろうあれは」
「そうなの? でもやっぱり面白いんじゃないの?」
「さぁな……」
十年位前に、家の前の道路でどったんばったんしていた記憶しかないので、俺にそんなことは分からん。
「今度頼んで買ってもらおうかなぁ……」
随分と時代の流れに機敏なお嬢様だな。感覚は一昔前なんだがな。携帯が畳めない世代くらいか。
昼休み。一応、今の時点で姫翠と一緒に食べているというわけではない。あいつもそれなりにクラスに溶け込んでいて、他の女子群と一緒に昼食を共にしていたりする。遠巻きに眺める分には、ピンク色ストリームで決して目に毒な風景ではない。
「やれやれ。もう中間の時期か」
「……そうだな」
今俺は、窓際の座席二つを占領し、志木と男二人で昼食を食べている。別に志木しか友人らしい友人がいないわけではないのはどうか解って欲しい。他の奴らは購買部だの食堂だのに行っているのだ。この学校は微妙に学年での階位というか、ランクの違いが顕著なので、一年次は上級生が屯している食堂に迂闊に近づけなかったわけであるが、今宵二年に進学したということで、食堂に昼食を依存することにした奴が増えてきたのである。俺もそれに便乗したいところなのだが、相変わらず美里が手の込んだ(日が増すごとに中身の上手さが増していっている)弁当である。しかし、今日はカルボナーラってどういうことなのか。別に愛妻弁当もどきが欲しいわけじゃないが。
「──しかし平和だな」
志木が外の風景を頬杖をついて眺めながらそうしげしげと言った。
「……平和で結構。毎日ゴキブリじゃ飯もまともに喰えないだろう」
「でもそろそろ生物部の活動再開じゃないか?確か一ヶ月部停喰らってたはずだから……」
「……次はフンコロガシか?」
「うちのトイレは水洗のはずだが」
「……そうだな」
なんと平和な会話。これが永劫に──俺が死ぬまで続けばいいのにな。まぁ、単調な毎日も詰まらんから、死なない程度の障害があっても構わんが。……それはいくらなんでも欲張りすぎか。
ふと気がつくと、志木がその眼を皿にして俺を睨みつけていた。
「……おぅ、近藤よぅ」
「…………どうした」
そんな志木に気圧され、俺はちょいと引き腰で返事を返す。相変わらず、こいつの感情の予測はし難い。
「我慢はしなくたっていいんだぜ。俺は別に構わない」
意味深にそう言って、親指で肩の後ろをピィっと指さした。──その先には、姫翠の混じっている女子の輪。
俺は溜息をついた。
「はぁ……死ねってか」
「いや、むしろこのまま放置してたら死にそうだぞ」
「俺今そんなげんなりしてるか?」
「げんなりというよりは、下賎なことを考えてッ……と、何でもない」
「………………そーかい」
このまま話を続けていても、メビウスの輪よりも酷い悪循環を続けることになりそうなので、俺は無理矢理つーんと視線を逸らし、姉特製の(電子レンジだろうが)カルボナーラに箸を突っ込んだ。ここで箸がセットになっているのは、どういう嫌がらせなんだろうか。
さて、それはそれから五分後。俺がちょうど弁当箱の中身を空にして、明日の弁当はもっとまともなのになればいいな、と思いながら弁当を片付けていたとき。
「警告! 生物室より、ネズミが逃走した! 直ちに全校生徒に捕獲を要請する!」
本気で口に何も入ってなくてよかった、と思った瞬間だった。恐らく、液体が入っていたら、目の前のガラスは一瞬にして曇りガラスと化していただろうな。
「ネズミ……」
流石の志木もげんなりとした様子。教室内も、静粛に満ち必死に状況把握に努めている。
分かった。これは例のゴキブリ騒ぎの警告があるバージョンだ。
前回は、平穏な昼休みに唐突に巻き起こったとんでもハプニングによって部停を喰らって業を煮やした生物部の連中が、今度の失態の暁には放送を流せば、刑は軽くなるだろう、と算段を立てたのであろう。狙いは外れていないが、何か欠けているような気がするぞ。
「どうする……?」
「面倒だな……どうせ誰かが捕まえてくれるっしょ」
「ネズミだって……やだなぁ、早く捕まえてくれないかなぁ……」
「っていうか、生物部の連中も学習しないよねぇ」
クラスの連中の士気は限りなくゼロに近かった。無理も無い。俺もそうだから。面倒、それ以外にこの感情の説明はできないだろう。
というわけで、俺は肩を竦めると、机を元の位置に戻そうと立ち上がり、机の縁に手を掛けて──ポンと、肩を叩かれた。いわゆる今の不景気で、社内でリストララッシュが起こるんじゃないかと冷や冷やしているサラリーマンの肩にかかる上司のひんやりとした手とほぼ同感覚。
背中を汗で濡らしながら、振り返るとそこには満面の笑みの姫翠が。
「面白そうだから、行ってみない?」
「な、なんで俺……」
俺は軽く拒絶の意を示し、助けを求めんと志木の方に視線を向けたが。
「や。俺は午睡に勤しまねばならんから、後は任せるとしよう」
そう来ると思ったが、なんだその口実は。意味が分からん。昼休みなんだから、遊べ。
「ねぇねぇ、いこうよう」
姫翠は姫翠で、肩をぐいと握るとぐいぐいと引っ張ってくる。
「……あぁもう!仕方ねぇな!」
昨日UPし忘れて、すみませんでした><