第十話 麦の塊の塊
「ねぇー……お料理私がするからぁ……」
「駄目だ。お前は掃除でもしとけ」
「ゴメンってばぁ……もうしないからぁ……」
「駄目だ。風呂でも沸かしといてくれ」
「むぅ……」
まさかの作りすぎ事件により、喰いきれなかったおかずは全て冷蔵庫へ。あぁ……これじゃ九分目オーバーしてるじゃねえか……これじゃ中々冷えないな。電気代も勿体無いしな。さっさと食ってもらうか。六分目が理想なのだが。
しかし、何故かあれだけ作っておきながら、まだ作ると主張するのだ、この非常識の権化は。さっきから何故か駄々をこねている。非常にうるさいんだが……。
今日はあのゴキブリ騒動から三日間を空けた、日曜日である。
まぁ、なんともいつもどおりな穏やかな休日である。始めの一週間がとてつもなく重かったため、なんだか久しぶりにも思える。
あの二人の距離には進展なし。相変わらず放課後の校舎を散策しているようだが、姫翠は告白する気配すら見せず、誄羅も同様である。まるで停滞前線である。
尚悪いのは、姫翠が視線を釘付けするのを卒業して、露骨に話し掛けてくるようになったのだ。姫翠が俺に告白したという噂を信じ込んでいる奴らからしてみれば、どんな風にこれは映るのか。
答えは至極簡単。俺はめでたく彼女の訴えを享受し恋人同士。
冗談じゃない。意味がわからない。どうしてそうなる。本当に物事の表面しか見ない輩が多すぎる。……といったものの、こんな裏があるなんて誰が想像できるものか。
しかし、一つ不思議なことがある。
姫翠は人見知りをするようだ。それはそうだ。ずっと疎外されてきたんだからな。人というものをよく知らずに、自然と警戒態勢に入るのはおかしなことではない。例の大平が告白したというのも、どういう告白形式を使ったか知らないが、恐らく例の外見からしてノックアウトだったのだろう。
昨日に至っては、購買部に昼を買いに行ったとき、売り子のおっちゃんにも畏怖の態度を見せて、うじうじとしていた。結局、俺が買ってきてやったが。
さて、何が謎かといえば、そこまで顔見知りが酷いのに、どうして好意の目でピンポイントで俺に接触してきたのか。いまいちよく分からない。というか、当事者である姫翠がわからなければ、誰にだって分からないのである。
「ん……暇だよぅ」
「んじゃ就活でもしてろ」
「えぇ……働くの……面倒くさい」
美里が暇を持て余してか、執拗に話し掛けてくる。その度にそうやって返答するのだが、その度にこうして自宅警備員の様な事を仰られる。個人的には、貯金にも限りがあるので、きちんと仕事に就いてもらいたいのだが……いかんせん経歴が中卒なのである。一応、県で一番とも謳われる公立高の内定は貰っていたのだが、実際に行って卒業していなければ、ただの紙の盾である。しかし、今思い返してみると、こいつ大分頭良かったんだな。そのくせにいきなり家を飛び出すもんだから、世の中ってのは不条理に満ちているのだと、改めて実感させられる。
「ん……姉ちゃんが働いてくれれば、少しは楽になるんだけどな……」
冷蔵庫の中に詰まった大量のラッピングの掛かったおかずを眺めて、俺はぼやく。てか暇つぶしが料理ってなんじゃい。
「……やっぱり働かなくちゃ駄目なのかな……」
「ん、俺としては、バイトでもいいからしてくれた方が助かる」
ちなみに俺はしていない。何故か? チャリに乗れないからだ。それ以外に何がある。
「……じゃぁさ」
「んー?」
俺は今日の晩は何を出すべきか吟味しながら、無関心な返答をする。
すると、突然背後に圧力を感じた。途端に体の自由が効かなくなる。
「っ!? 何をするっ!」
美里が背後から俺の自由を束縛したらしい。早い話が、抱きついてきたんだ。
「私がきちんと働いたら料理させてくれる……?」
「わ、わ、分かったからっ! そんなん大歓迎だ! 分かったから離せっ!」
とんだ羞恥プレイである。安否の知れてる唯一無二の肉親の感情を弄ぶとは何事。未だに残る得体の知れない変にいい匂いと、温もりでなんだか気が狂っちまいそうだ。
「うん、良い子ね」
美里はなんだかご満悦で俺の体から己の体を離す。どうしてこう、デリカシーがないんだろうな。こいつは。
いつのまにか、美里と俺の立場は逆転してしまったようだ。俺がこいつの要求を叩き落すたびに、こんな奇々怪々な行為をされては敵わない。もしや、こいつ俺の内情を見抜いてしっかりと握っていたりするのか?
「ふふん。どれがいいと思う?」
美里は早くも──とかいうレベルじゃないが、既に就職情報誌を開いて、楽しそうに仕事を吟味し始めている。
「ん……どこでも。続けばそれでいい」
正社員になれればもっといい。
「ふぅん……あ、これ見て、時給三千五百円だっ」
「できれば千円以下にしとけ」
んな都合のいいところ、絶対犯罪に悪用されるっての。というか、そんなことも分からずにお前は出て行ってから今までどう過ごしてきたんだっての。
できれば、安くてもいいから、清楚そうな態度をとっていれば経歴がどうとあれ雇ってくれるようなところがいいな。まぁ、それは要するに時給を安くしなければ会社が持たず、かといって人材云々ほざいているような余裕がないところで、選んでいる余裕が無いところなんじゃないかと思うが。
「……あんまり面白そうなところ無いね」
「お前の面白いと思う要素が分からないからなんとも言えないんだがな……」
……こんな休日の一風景である。平和だと思うんなら、平和だと思うがいい。確かに平和だが、俺の居る場所は、正に戦場真っ盛りの時に襲撃から逃れるために一時的に避難したフィルターに過ぎない。やがて、このフィルターも破壊されてまたあの戦火へと飛び込んでいかなければいけないのだ。 だからこうして精一杯のんびりとして、迎え撃たなければならないのだ。……そういうことだ。
「んーなんかこの家寂しいね。ペットか何か欲しいなぁ……」
やれやれ。三メートル範囲内に居るのに、こいつとは立つ位置が冥王星と彗星並に違うらしいな。
毎日の車での搬送はもはや恒例に。頼んでも居ないのに、例のコンビニの辺り(今はどっかの全国チェーン展開しているクリーニング屋になるらしい)で、毎朝クラクションで呼び止められて、拉致られて、強制搬送である。お陰で毎朝、誰も居ない教室で姫翠と二人きりで過ごすことになり、更にその次に来た奴に、「今日も熱いねぇ……」とかいうはた迷惑な視線を向けられる羽目となるのだ。
かといって、やつらが迎えにくることを想定して遅めに出たとしても、奴らの迎えの時間は俺の毎朝の徒歩を想定しての出発時間とピッタリと重なり確固しているらしく、遅刻してしまうのが関の山である。その上、奴等に機嫌を損ねられるのも困る。
というわけで、俺は現状維持のために、身を呈してこんなことをしなければならないのである。別にこんなこと、と野暮な言い方するほどでもないが。
さて、今日も例の如く、コンビニ(クリーニング屋に変身予定)の付近で、クラクションを鳴らされた。無視しなければ、近所迷惑になるほど鳴らしてこないので、無視しないで振り向いてやると、いつもどおり姫翠が手を振って、俺を誘っていた。
拒否する意味はあるが、俺に対して何の利益も齎さないので、今日も素直に乗車してやる。
既に、この椅子のフカフカ感に慣れきてしまったところだ。
「テストどうだった?」
そんでもって、今日はその話題が飛び出すわけか。やれやれ。
「訊かなくたって分かるだろう。お前どうだったんだよ」
小動物みたいな瞳を俺に向けている姫翠を半眼で見やりながら、そう訊ねる。
「うーん……全然分からなかった……」
それはそうだ。小卒してないもんな。これで俺よりも点数を取っていたら、もはやこいつは人間ではない。未来の国からやってきた、高性能猫型アンドロイドに妙な道具を出してもらったに違いない。
ちなみに、ゴキブリ騒動……一部のやつらは『黒傘の乱』とか意味の分からない名前をつけているあの事件の朝、テスト勉強一緒にしようという旨の会話を交わしていたが、結局施行されなかった。恐らく、誄羅との同棲を隠すためのでっちあげだったのであろう。
「ん……そうか、まぁ留年しないように頑張らないとな……」
「う……ん」
その後、無事にテストは俺達の手元に戻ってきたわけだが、結果はいつもどおりといったところだった。いわゆるアベレージ付近。その下の付近をうろうろしている俺だから、今回はいつもどおりとはいえ、そこそこいっているのかもしれないが。
ちなみに、あの二人に俺はテストについて全く触れていない。
姫翠の落胆の様が酷くって、あんなのにテストの話題なんて出したら、そのまま塵と化して風に煽られてどっかいってしまうんじゃないかってくらい、落ち込んでいた。幸い今回は補習が実施されない(黒傘の乱の影響である)らしい。
小卒してないからな。仕方ないといっちゃ仕方ないが。しかし、師匠とかいう奴も何気に奴等のことを救済してやった、とてーも親切な人とかいうレッテルを貼り付けている割には、かなり残忍で過酷な試練を奴等に与えてたんだな。普通にそんな富豪とのコネがあったんなら、見つけたら見つけたでそのまま山から撤退させて、付近の中学校かどっかに入学させてやればよかったのにな。今考えてみると、いろいろと不都合な点が多いな。
……まぁ、俺が考えずとも、師匠とか言う奴をとっちめてはかせれば、何もせずに真実が耳に流れてくるんだろうよ。なんだか、その内に現れてくるような気がしてならない。ひょっこりとな。
それから二日後の。昼休み。
生物部は部停を喰らったらしく、再び平穏平和安穏な昼休みが訪れた。生徒会報告によると、例の騒ぎで校内に散乱したゴキブリは軽く五千を越していたらしい。推定だろうがな。どうせ。
だが推定でそんな天文学的な(ゴキブリ的な意味で)数字がはじき出されるほどの大騒動であり、それだけの数を生物部はこっそり飼育していたことになる。まったく傘霧とかいう奴……どんな奴なんだろうか。
俺は軽く陰鬱な気分で弁当の蓋を開いた。
別に頼んでも居ないのに、あの料理中毒の美里が持たせてきたのだ。家の中で働いているのだからまだマシだが、いい加減どんなところでもいいから働いて欲しいものである。
昨日と同じ中身。しかも、その四分の三を米で占めているという大雑把さ。
大した金額を与えていないのに、何故かあいつはどこからか大量の米を仕入れてくる。流浪中に知り合った誰かさんから安値で仕入れてもしているのだろうか。
やれやれとため息を漏らしながら、割り箸を割って、食事に掛かる。
そんなときだった。
廊下の方からざわめきが聞こえてきた。俺は無意識のうちに緊張した。
──黒傘の乱の時も、こんな風じゃなかったか?
そういえば、いつもなら居る姫翠が傍に居ない。というか、俺が一人で食べていると、机を引きずって勝手に一緒に食事をすることを要請してくるのだ。未だに人見知りは解消できないらしく、専ら俺と食事及び学校生活を共にしている。
だが、教室内を見回しても、あの鮮やかなやや栗色の髪は見えない。ようやく独立して、購買部に何かを買いに言ったのだろうか。それとも、誄羅に呼ばれたのだろうか。
だが前者はありえない。そんな急に独立するとは思えない。というか、テストショックで塞ぎこんでいるから、そんな余裕は無いはずだ。
かといって、後者であったら、俺も召集されるはずである。胸中を告白しておいて、俺にこそこそ二人で密会するなんて事あるのだろうか。……俺の自惚れであってほしいが、恐らくそんなことはないであろうという願望は情けないが持ってしまう性分であって──とりあえず、そんなことは無いであろうという、俺の自分勝手な見解で確定させてもらう。
というわけで、今この教室内に姫翠が居ないというのはちょいと奇怪である。
……そうでもないか。トイレという可能性もある。どうして、自発的な排泄の要求に応えるのに俺の許可を得てわざわざ行く必要があるのであろうか。
ざわめきが大きくなった。何かが俺の居る教室に近づいてきているような、そんなサラウンド感覚である。
ざわめきを作っている声を、聞き耳を立ててよく聞いてみると、「やべぇ」だとか「大丈夫か?」とか、首輪を嵌めたライオンを連れた奴を見たような感想が多かった。何が起きているんだ……?
しかし、生憎と俺はそんな席を飛び出して見に行くほどの、暇と好奇心を持ち合わせていなかったので、大方誰かしらが購買部で買占めでもしたんだろう、と思って弁当をぱくつき始めた。
……しっかしなぁ。あいつもしたがるくせに、下手くそだ。米はかなりふにゃふにゃだし、おかずにしろ火が通っていないのか、なんか芯が固いような気がするし、味付けが無闇に薄かったり、将来に関わるんじゃないかってくらい濃かったり。というか、なんで肉がこんな甘いんだよ。
「わー、今日もなんか美味しそう」
そんな風に、いちゃもんつけながら(つけない奴がいたら、多分そいつは舌がサランラップで包まれているんだろうな)弁当を食していた俺に、横からそんな見たまんまの感想を述べてきた奴がいた。
そんな奴、他にいない。姫翠である。
「そうでもない。かなり不味い。……って、お前どこに行ってた──」
俺は勤めて仏頂面を作り上げて、そう独り言のようにぼやきつつ、姫翠を見上げて、そんでもって絶句した。
「今日はできたよ、ほらほら」
前者でした。本当にすみませんでした。
しかし、なんで俺が優勝を取り逃した野球監督みたいなコメント述べなければならないんだか。
昨日まで、周囲の身近な人間以外とは、ほとんどと言っていいくらいコミュニケーションを拒んできた奴が、いきなり俺になんの知らせも無く、購買部に行っているとは思えないだろう?そうでもないか……?
「……なんだそれ。祝いか?」
「うん……、駄目かな」
駄目というか、それ以前の問題じゃないか?
俺の予想は大当たりだが、まさか当事者だとは思わなかったな。
姫翠が抱えているのは、あらん限りのあんぱん、カレーパン、メロンパン、焼きそばパン。買占めたんじゃあないんだろうが、それぞれ少なくとも在庫の半分ずつはあるだろうな。有りすぎだ。
俺だけじゃない。それを見たクラスメイトの大半は目を点にしている。そんでもって、その点が円に戻ったとき、それは俺に向けて向けられる。羨望の意を込めて。
「祝いにしろなんでそんな買ってきたんだよ……」
「一緒に喜んでくれるかなぁって。あ、一個あげよっか?」
そう言って差し出されたのは、あんぱん。ありがたいが、貰うとなんだかいけないような気がする。羨望の眼差しが痛い。別に俺は頼んだ覚えも無いし、それ以前にこいつとはただの良き隣人である。変な妄想はしないでほしい。
……だが、まぁ裏を返せばそんなこと想像もつかない有様なんだろうな、きっとあの掲示板は。きっと俺が行ったら、登校拒否になるくらい、地雷で溢れている場所なんだろうな。匿名という名の盾は大きくて固すぎる。
かといって、そんな周囲の目を気にして、姫翠をがっかりさせるような真似をすることなんて、俺には不可能だったから、素直に受け取っておいた。
なんともここらしい、丁寧なんだか大量生産を旨とした雑なんだかよく分からない、遅拙な出来だったが、まぁ腹が満ちると思えばおいしいものだ。結局のところ、受け取っても受け取らなくても俺に対する了見が±どっちの方向にも変化するのは瞭然である。それならば、被害が少なくなるほうの選択肢を取るのは定石である。
というわけで、好奇の目を集めながら、姫翠は大量の小麦粉の発酵したものを消化すべく、食事を開始したわけである。
──しかし二十分後。
俺は、大量のパンを抱えて、誰もいない購買部の前で返品を求める羽目となった。
無論、喰いきれなかったから。というか、結局一個しか消化していなかった。なんたる非効率。
売り子のおっちゃんの顔が、あらん限りを尽くして歪んだのは、俺の目でも確認できるほどだったのは、言うまでもない。
中臣鎌足を「生ゴミのカタマリ」と覚えたのは、皆同じな筈……なんとなく、そんな風に感じます……。
ちなみに、サブタイトルの意図が掴めないのは作者も同様ですので、お気になさらぬよう……。