第76話 そういう関係
「す、すみません」
いきなり噛んでしまった。
舌が痛いが、それより恥ずかしさで赤面する。
ヴァイセン伯爵は一瞬、呆気にとられた顔になると、
「はっはっはっ!」
とこらえきれずに吹き出した。
「いや、失礼」
ひとしきり笑った後でヴァイセン伯爵が謝る。
「いえ、こちらこそ。ではあらためましてレン・オーバンスと申します」
「ではレン殿と呼んでも?」
「はい。ヴァイセン伯爵様」
「こちらも様は結構だ」
言いながらヴァイセン伯爵はレンの対面に腰掛ける。
「それにしてもレン殿には驚かされてばかりだな。今の挨拶もそうだし、まさかいきなり訪ねてくるとは思わなかった」
話しながら、最初の印象とまるで違うなとヴァイセン伯爵は思った。
一番最初、部屋に入ってきたヴァイセン伯爵は、レンを見て剛胆な武人だと思った。元よりここへ一人でやって来るような人間だ。大胆不敵な人間を想像していたのだが、一目見て想像通りだと思った。
背は高く、体も鍛え上げられているのが、服の上からでもよくわかった。なるほど、これなら今回の大胆不敵な行動もうなずけると思ったら、いきなりのあの挨拶である。驚かされてばかりだ。
そしてこうして向かい合って話をしてみると、最初の剛胆という印象は消え、穏やか、もっといえばちょっと気弱な青年、といった印象を受けることになった。
静と動の切り替えができているのだろう、とヴァイセン伯爵は一人納得する。
戦士にはこの切り替えが大事だとヴァイセン伯爵は考えている。平素は穏やかに過ごして力を溜めておき、いざ戦いとなれば一気に力を解放する。それでこそ一流の戦士というもので、普段から不必要に気張っているようではまだまだ二流、というのが彼の持論だった。
だがこれはなかなか難しい。特に若いうちは己の力をもてあますものだ。自分の力はまだまだこんなものじゃない、といった気持ちをもてあまし、誰彼ともなく不満をぶつけようとしたり、あせりから暴走したり――ヴァイセン伯爵自身、若いときはそうだった。
ある程度年をとって自分も落ち着いてきたが、このレンという青年、まだ二十歳ぐらいだと思うが、この若さですでにそれを身につけているのか、とヴァイセン伯爵は感心した。
もしそんなヴァイセン伯爵の内心をレンが知っていたら、とんでもない勘違いだと思っただろう。
静と動と言われてもよくわからないし、単にちょっと気弱な性格なだけです、と否定していたかもしれない。また、これはさすがに言うわけにはいかないが、外見は若くても中身は三十歳の日本人である。それなりに落ち着いていても当然だ。まあレンの場合、若い頃から落ち着いていたというか、内向的でおとなしかったのだが。
「突然の訪問になってしまってすみません。ぜひ一度、直にお会いして話しをしたいと思っていたので」
「何か重要な用件でも?」
もしかして追加の借金でも頼みに来たのかとヴァイセン伯爵は思った。前の借金を返さずにまた金を借りに来るというのは感心しない。だがそれを自分で頼みに来るのは大した行動力だ。その行動力に免じて、少しぐらいなら用立ててやってもいいと思った。
「以前にお借りした金貨百五十枚を返しに参りました。またそのお礼も言わなければと思って、こうしてやって来たのです。本当にありがとうございました」
そう言って頭を下げるレンに対し、ヴァイセン伯爵はあきれたような顔をしている。
「金を返すためにわざわざここまで? 一応聞くが、グラウデン王国から、どんなルートを通ってここまで来たのだ?」
「ダークエルフたちと一緒に黒の大森林を通ってきました」
「どうしてそこまで……ダークエルフたちにことづければよかったではないか」
「助けていただいたんですから、やはり自分でお礼を言いにいくのが礼儀かなと思いまして」
最初に予想していたより大変な旅だったが、来てよかったと思っている。
根底にあるのは日本人としての常識だった。この世界の人々の常識では、そこまでする必要はない。
「礼儀か……ここまでされて礼儀と言われるなら、私も礼儀としてその金を返してもらうわけにはいかんな」
楽しそうな笑みを浮かべてヴァイセン伯爵がそんなことを言い出した。
「どうしてそうなるんですか?」
「当然だろう。レン殿にそこまでさせておいて、私が何もせず受け取ったとなれば、それこそ私の沽券に関わる」
要は釣り合いの問題である。
金を借りたレンは、ヴァイセン伯爵に感謝して、それをきっちり返さねばならない。それは当然の礼儀だ。だがレンはわざわざ自分でヴァイセン伯爵の屋敷までやって来た。これでは釣り合いがとれないのだ。
極端な話だが、例えば部下がちょっと小銭が足りないというので、上司が百円貸してやったとする。借りた部下は、後日、返すときにお礼の缶コーヒーでも一緒に渡せばそれで十分だ。これなら釣り合いがとれている。
だが借りたその日の夜、遠く離れた上司の家まで、部下が百円を返しに来たとしたらどうだろう? 誰だってそこまでやる必要はないと思うだろう。
レンがやったのはそういうことなのだ。借りた金を返すのは当然だ。だが返すために貴族本人が黒の大森林を踏破して、ヴァイセン伯爵の屋敷までやって来るのは明らかにやり過ぎだった。
だからヴァイセン伯爵も、はいそうですかと受け取ることはできなかった。相手にそこまでさせてしまったのだから、こちらも何かしなければならない。そうでなければ釣り合いがとれないというわけだった。
だがレンには、そのあたりが理解できなかった。二人の認識の違いは、結局のところ黒の大森林に対する認識の違いだった。レンは黒の大森林を通り抜けるということが、そこまで大きなことだと思っていなかったのだ。
「今回貸した金は、レン殿がそのまま持っていてくれればいい」
「いえ、それは――」
「なあレン殿」
レンが言いかけたのをさえぎってヴァイセン伯爵が言う。
「せっかくここまで来てくれたのだ。これからは我々の間にそういうことは無しする、というのはどうだろう?」
「そういうこと、といいますと?」
「一々貸した、借りたなんて小さいことは気にせず、困ったときはお互い様で助け合う、そういう関係でいこうではないかということだ。レン殿もわかると思うが、貴族同士というのはしがらみだらけで、なかなか腹を割った付き合いはできない」
今のところレンにはそんな実感はない。だが想像はできる。例え異世界でも、そういうややこしい人間関係が存在するのだろう。
「だが我々の領地は隣り合っているが、これまで揉め事などは一切ない。これは奇跡的なことだ」
「間に黒の大森林がありますからね」
今までは隣といっても交流がなかった。交流がなければ問題も起こらない。
「だから私としてはこの関係を大事にして、お互い細かいことは言わずに助け合っていければと思っている。どうかね?」
「私はすでにヴァイセン伯爵に助けてもらいました。そのヴァイセン伯爵からそう言われれば、断る理由はありません。こちらからお願いしたいぐらいです」
助けてもらったことで、元からヴァイセン伯爵に好感を抱いていたレンだが、こうして話しをしてみて、さらに好感度は上がった。人間的に惹かれたといってもいい。
圧倒されるような存在感を持ちながら、穏やかで威圧的ではない。こちらより立場が上のはずだが、偉ぶる様子も一切ない。そんな人物が自分に好意的に接してくれた上、細かいことは気にせず仲良くしていこうと言ってくれたのだ。レンでなくても断らなかっただろう。
「ありがとうと言いたいところだが、実はさっそくレン殿に頼みたいことが一つあってな。話をしているうちにレン殿ならば、と思ったのだ。ずるいとは思うが聞いてもらえるだろうか?」
「もちろんです。なんでも言って下さい。困ったときはお互い様、ですから」
レンは笑って答えた。
「ですが私でお役に立てることがあるのでしょうか?」
「レン殿の配下にはダークエルフがいるだろう?」
「はい」
「今回も何人か引き連れてきたようだが、その中から腕利きで、なおかつ信頼の置ける者を何人か貸してもらいたい」
腕利きと聞いてまず思い浮かんだのがカエデだったが、彼女は色々とまずいだろう。信頼が置けるかというと……信頼できると思うが信頼できない。ヴァイセン伯爵に貸す――という言い方もどうかと思うが――のはダメだ。
後はここまで一緒に来たゼルドだろうか。だが彼には商隊のリーダーとしての役割もある。頼み事の内容にもよるが、彼には商隊の仕事に専念してもらいたい。
別にゼルドでなくてもいいだろう。きっと他にも腕利きのダークエルフはいるだろうし、彼らなら全員が信頼できるといってもいい。北集落のリーダーであるルドリスにお願いすれば、適切な者を選んでくれるはずだ。
「ダークエルフに話せば、すぐに何人か用意してもらえるとは思いますが、わざわざ彼らに頼む必要があるのですか?」
ヴァイセン伯爵なら信頼できる部下も多いだろうに、それをレンに頼むというのがよくわからない。
「レン殿の言うことはもっともだが、今の私は動けないのだ。ところでレン殿はルベル川に魔群が出現したという話を知っているか?」
「いえ、初耳です」
ルベル川というのは、ここターベラス王国とザウス帝国の国境となっている川だったはずだ。
「そうか。現在、ルベル川に千体を超える魔群が発生して、川の両岸の街を襲いつつ、徐々に南へと川をさかのぼっている」
「大事件じゃないですか」
「その通りだ。しかもこのまま魔群が進めば、一週間から十日後には、国境の要衝であるロッシュに到達するはずだ。そしてそこの領主に私の娘が嫁いでいてな。恥ずかしながら、その娘と孫たちの救出をレン殿に頼みたいのだ」
「救出ですか?」
おかしなことを言うと思った。
「まだロッシュの街は襲われてないんですよね? だったら援軍を送るなり、魔獣を討伐する軍隊を派遣すべきだと思うんですが」
「レン殿の言う通りだ」
ヴァイセン伯爵が苦々しい表情で言う。
「私もできることなら自分で軍勢を率い、魔獣討伐へ向かいたい。だが魔獣が現れた場所が問題なのだ。知っての通り、魔獣がいるルベル川はザウス帝国との国境線だ。ここへ軍を派遣すれば、当然向こうも動くだろう。その結果、下手をすれば戦争になりかねない」
魔獣の討伐軍だと言っても、それを相手が信じるかどうかわからない。
「事情は向こうも同じだろう。だからザウス帝国でも討伐軍を送らず、現状はにらみ合いのようになっている」
「でもこのまま放置するわけにはいきませんよね?」
「それも問題をややこしくしている。問題は魔群が最終的にどこへ向かうかだ。魔獣の発生源は北の北氷海。今月初旬、海からやって来た魔群に、ルベル川河口のニームの街が襲われた。それ以降ルベル川に沿って南下を続けているが、このままずっと南へ進んでいけば、やがて黒の大森林に入るだろう」
ルベル川の上流は、あのガングがいる青の湖につながっている。
「元は海洋魔獣だから、どこかの時点で海へと戻るはずだ、と主張する者もいる。もしそうなら、こちらから攻撃をかければやぶ蛇になってしまう」
「だから攻撃せず様子を見ているのですか?」
「あわよくば西のザウス帝国の方へ行ってくれないかと思っている者も多い。一つ確かなのは、討伐軍を向かわせれば、魔群は確実にそちらへ向かうということだ」
ターベラス王国が軍隊を送れば、魔群はそちらへと向かってくる。ザウス帝国国が軍隊を送ればそちらへ向かうだろう。両方が相手の方に行ってもらいたいと考えているから、様子見になっているのだ。
レンは非常事態なのだから、両国が共同して魔獣を討伐すればいいだけなんじゃ? と思ったが、これまでの両国の歴史や関係がそれを許さないのだろう。元の世界でもそういう国家間の対立はたくさんあった。
「そして討伐軍が確実に勝てるという保証はない。最悪なのは魔群を自国の領内に引き入れたあげく、魔群の討伐に失敗することだ。そうなれば被害は甚大なものになる」
「魔群の数は千体を超えるんですよね?」
「そうだ。ここまで大きくなると一万の軍勢でも勝てるかどうかわからん」
数が増えれば増えるほど魔群はどんどん強くなっていく。百体の群れと千体の群れでは、その強さは十倍ではなく、何十倍にもなる。
「そこで陛下は現状で魔獣へ手を出すことを禁じた。ルベル川沿岸の街や村へは避難するように通達も出した。だが豊かな者はともかく、貧しい者は逃げろと言われても簡単には逃げられない。逃げた先での生活のあてがないからだ」
現代日本なら、例えば災害で避難しても、最低限の寝る場所や食べ物は用意される。しかしこの世界ではそんなものはない。例え逃げたとしても、受け入れてくれる場所がないのだ。
「ロッシュの住民も、その多くが街に残ったままだそうだ。領主のダルタニスもそんな領民を見捨てられないと残っている。そして娘も一緒に残ると言い張っている。領主の妻が夫や領民を見捨てて逃げるわけにはいかないと言ってな。見上げた心がけではあるが、やはり父親としてはな……。愚かな親だと笑ってくれ」
「とんでもない。それが当たり前だと思います。しかしそうなると、そのロッシュの街は見捨てるのですか?」
「残念ながらそうなる」
「どれぐらいの人がいるんです?」
「一万人以上の住人がいる。逃げた者もいるだろうが、少なく見ても半数の五千人以上は残っているだろう。後は守備隊がおよそ千名。こちらはそのほとんどがダルタニスと共に残ったそうだ。ロッシュは堅牢な城塞都市だが、相手が千体の魔群となれば、それだけで守るのは難しいだろう」
それだけの住人を見捨てるというのは、レンには納得できなかった。だがレンが納得しようがしまいが、すでに決断が下されている。この国の人間ではないレンに、それをどうにかする力はない。
そしてこの世界は厳しく非情だ。レンも魔獣の恐ろしさを知っている。大のために小を切り捨てることもやむを得ない――そう思う部分もあった。
「ロッシュの街が危険だというのはわかりました。では救出というのは、その娘さんを無理矢理連れ出してこいということですか?」
「それができればいいのだが、おそらく娘は最後の最後まで動かないだろう。誰に似たのか頑固な娘でな。だがロッシュの街が魔群に襲われ、いよいよ陥落するとなれば、さすがの娘も逃げるしかない。そこでの救出を頼みたいのだ。当然ながら危険で困難な任務になる」
「お話はわかりました。ですがそんな任務なら、やはりヴァイセン伯爵の部下から、信頼できる者を選んだ方がいいのではないですか?」
「私もできればそうしたい。なんなら私自ら行ってもいいと思っている。だがそれができないのだ。すでに国王陛下よりルベル川に人を近づけてはならないという命令が下された。さっきも言ったように魔群を刺激しないためだ」
そこまで聞いて、なぜヴァイセン伯爵がわざわざ自分に頼んできたかわかった。
「だからこそダークエルフというわけですか」
「レン殿は我が国の貴族ではないから、陛下の命令に従う必要はない。ダークエルフも我が国の領民とは認められていない。だからレン殿が配下のダークエルフを送り込んでも、陛下の命令に逆らったことにはならない。詭弁ではあるが」
「僕がロッシュの街に誰かを送り込むのは問題ないというわけですね。そして娘さんとお孫さんを助け出す、と」
ヴァイセン伯爵が言ったように、これは命がけの任務になるだろう。はたしてそれができる者がいるだろうかとレンは考えたが、すぐに適任の者が見つかった。多分やれるはずだ。
「わかりました。その頼みは僕が引き受けます」
「やってくれるか。ではすぐに適任のダークエルフを選んでくれ」
「いえ、救出にはダークエルフではなく僕が行きます」
8/13 追記
ちょっと先の79話を書いているときに気付いたのですが、ヴァイセン伯爵との会話で重要な部分が抜けていたのを追記しました。
なぜロッシュの街の救援に行かないのか、そのあたりの部分です。
最初は書いていたんですけど、その後で修正しているときに抜けてしまったみたいで……
すみませんでした。