第68話 授業風景
温泉近くに建てられた新居にレンが引っ越したのは今年の二月、まだ冬の頃だった。
それからレンにとって異世界で過ごす二度目の春夏が過ぎ、今日は十一月一日。
屋敷の増築は今も続いていた。
建ててくれたダークエルフたちは、残念ながら大きな屋敷の建築経験などがなく、正確な設計図も書けなかったため、大まかな感覚で増築を重ねていった。
結果、今の大きくなった屋敷は、全体的に乱雑な感じになってしまっていたが、レンはとても気に入ってた。これは個人的な好みの問題だが、やはり木の家はいいと思う。日本人としての感覚だろうか。
そしてレンが唯一希望していた、温泉からお湯を引いてくる木の樋も完成した。これで家の中でも、いつでもあったかい温泉に入れるようになった。
広くなった屋敷だが、それに伴うように屋敷の住人も増えていた。
執事のマーカス、メイドのバーバラ、家庭教師のハンソンにレンを入れて人間が四人。
カエデ、ロゼ、ディアナ、リゲルのダークエルフ四人。
これにガー太を加えて計八人と一羽が屋敷の住人だったが、ここに新しくダークエルフの子供が五人、増えていた。
子供が増えたのは、黒の大森林にある集落の人口が増えた影響だった。
半年前の密輸ではガングの襲撃で大きな被害を受けたが、その後に行われた三ヶ月前の密輸は成功し、これでダールゼンは集落への移住者を増やすことを決めた。
街で暮らしているダークエルフたちは、貧しい生活を送っている者がほとんどだし、なにより彼らにとって世界樹の側で暮らせることは大変な幸せなので、集落への移住を希望する者はいくらでもいた。
ただ集落も貧しく、多くのダークエルフを受け入れることはできなかった。逆に集落の者が出稼ぎに出ていたのだ――レンがこの世界にやってくるまでは。
しかし状況は変わった。
密輸などによって収入が増え、しかもそれを継続していける見通しも立ってきた。
以前、集落防衛戦の後で移住者を受け入れたことはあったが、その時は防衛戦で多数の死者が出ていたため、差し引きすれば集落の人口は微増にとどまった。
それがここ半年で移住者を増やし、集落の人口は百数十人から一気に三百人以上に倍増した。
ここまで急激に人口が増えると、人間社会なら様々な問題が噴出していただろうが、そこは序列が絶対のダークエルフ、集団としてのまとまりは保たれているようだ。
その中には親子連れや孤児もいたため、子供たちが学校でもあるレンの屋敷にやってくることになった。ただあまり小さい子供は面倒見切れないため、十歳以上の子供たちだけにした。上限はひとまず十八歳とした。
大人の――それも特に美人の――女性が苦手なレンにとって、このあたりがギリギリ許容範囲なのだ。
ダークエルフの美女たちに囲まれての授業とか、普通の男なら天国だろうが、レンにとっては冷や汗が流れるような状況だ。緊張しすぎて勉強など無理だろう。
増えた子供は五人だけだったが、授業の手間は大幅に増えた。
これまでのロゼたち三人は、レンが一年以上勉強を教えてきた。他人に教えるどころか、一緒に勉強したこともないレンにとって、手探り状態の先生役だったが、それでも三人の学力はある程度把握している。
新しく増えた五人は何も知らない状態なので、1から勉強を教えていかないといけない。個別に対応するのは大変だし、レン一人だと手が回らない可能性もあった。
だがここに心強い助っ人が加わってくれた。
「起立、礼、着席」
まるで日本の教室のような声が響く。
屋敷に広い部屋を造ってもらい、今はそこを教室として利用している。
机に座って授業を受けるのはダークエルフの子供たち。号令したのはロゼで、その声に合わせて全員が一糸乱れぬ動きで立ち上がり、一礼、着席する。
教壇に立つのはレン――ではなく仏頂面のハンソンだった。レンは子供たちと一緒に机に座っている。
「では授業を始める。全員、昨日出した課題はやって来たか?」
「はい!」
子供たちが元気に答える。
「当然だな。ダークエルフでも言われたことぐらいはできるか」
不機嫌そうにハンソンが言うが、それが本心ではないことをレンは知っている。
彼はレンの家庭教師だったが、ダークエルフを毛嫌いしていて、これまではレンが頼んでも子供たちに勉強を教えてはくれなかった。
そんな彼の心境が変化したのは、新しい屋敷に移ってきてからのことだ。彼が移ってきたのは数ヶ月前、温泉目当ての引っ越しである。
だが実はこの引っ越し前にも一悶着あったのだ。
最初は温泉を気に入ったハンソンだったが、その温泉にダークエルフたちも入浴すると聞いて怒り出したのだ。
「ダークエルフどもと一緒の温泉に入るなどとんでもない!」
そう言い出して、レンにダークエルフたちを温泉に入れないように願い出てきたのだ。当然ながら断ったが。
いいか悪いかを別にすれば、ハンソンがそんなことを言い出すのは理解できた。元の世界でも、例えば黒人を差別する白人は、決して黒人と一緒の風呂には入らない、なんて話を聞いたことがあった。
裸で入るお風呂は、差別意識が表面化しやすい場所なのだろう。
だからハンソンも一緒の温泉が嫌だと言い出した。
しかしこれは困ったことになったと思った。温泉で釣って引っ越してもらう予定だったのに、その温泉に入らないというなら、きっと引っ越しも嫌だというだろう。
最悪、ハンソンには前の屋敷に残ってもらうことも考えていたが、そうなると色々と不便だっただろう。
どうしようかと悩んでいると、ハンソンの方から妥協案を提示してきた。
「ダークエルフと一緒の温泉などまっぴらごめんですが、幸いなことに温泉は広いし、湧き出している湯の量も多い。ダークエルフが入った汚れた湯に入るのは嫌ですが、ある程度の時間をおけばお湯も入れ替わるはずです」
そう言ってハンソンはダークエルフの入浴時間を制限するように言ってきた。
時間を分けるというのも、差別意識を感じてあまり気持ちのいいことではなかった。だが元々最低でも男性と女性で入浴時間を分けるつもりだったので、ここにハンソン専用の入力時間を、一日に一時間とか二時間ぐらい作ってもいいだろう、とレンの方も妥協した。
ダークエルフ嫌いのハンソンが自分から妥協案を出してきたのは、やはりそれだけ温泉が魅力的だったからだろう。あったかいお風呂に入ることも難しいこの場所で、毎日入れる温泉というのは、とんでもないご褒美なのだ。
これでハンソンも引っ越しを承認し、ここに来てからずっと一人の入浴時間を楽しんでいる。
ちなみに残りの二人、執事のマーカスとメイドのバーバラは、ダークエルフたちと一緒の温泉も特に抵抗ないようだ。
マーカスは兵士時代の経験で、他人と一緒の風呂も慣れていて、それがダークエルフたちでも平気らしい。ただ好んで一緒に入ろうとはせず、できる限り一人で入っているようだ。口では平気と言っても、心のどこかで抵抗があるように思える。
バーバラの方はもっと積極的で、今ではダークエルフたちの女の子と一緒に温泉に入り、髪や体を洗ってあげるのも自分の仕事だと思っているようで、彼女たちの身だしなみに気を配っている。
そんないきさつを経て引っ越してきたハンソンだが、屋敷ではダークエルフの子供たちと顔を合わす機会が増えた。前の屋敷は無駄に広かったため、その気になればダークエルフと顔を合わさないようにするのは簡単だった。だがこの新しい屋敷は前と比べれば狭く、必然的に顔を会わすことが多くなる。
最初、ハンソンはダークエルフたちを完全に無視していた。
だがダークエルフの方はそうではなく、
「先生、おはようございます」
などと会う度に笑顔で挨拶してくる。
たかが挨拶、されど挨拶である。
特に子供たちに笑顔で挨拶されているのに、それを無視し続けて、何も感じない人間というのはそんなにいないだろう。
またハンソンがダークエルフを嫌っているのは、彼らを差別するのが当たり前の世界で生きてきて、自然とそうなったからで、個人的な恨みがあるわけではない。そんな彼がダークエルフの子供たちを嫌い続けるというのは、なかなか難しいことだった。
最初は些細な変化だった。挨拶をされても完全に無視していたのが、「ああ」とか「うむ」とか短くても返事を返すようになった。
それを見たレンは、あらためて彼に頼み込んでみた。もちろん、心境が変わったんですか? などと聞いたりはしない。そんなことをすれば、彼が意固地になってしまう可能性があった。だからそういうことは言わず、あくまで低姿勢でお願いしてみた。
「先生。子供たちも増えてきて、僕一人じゃ手が回りません。嫌なのはわかりますが、どうか手を貸していただけませんか?」
「そこまでお困りですか?」
「はい。とても困っています。ですからどうか」
「……わかりました。他ならぬレン様の頼みです。そこまで言うなら力をお貸ししましょう」
これまでのことを考えると、非常にあっさりとハンソンは承諾してくれた。
「ダークエルフなどに勉強を教えても、それが何の役に立つのやら」
などと文句を言いつつ、ハンソンは教壇に立っているが、言葉とは裏腹に授業態度は熱心だ。
レンもロゼたちに勉強を教えていたからわかるのだが、教える側にとって一番うれしいのは、生徒たちがやる気を出してくれることだ。その点、ダークエルフの子供たちは全員がまじめで勉強熱心だ。先生として、これ以上にうれしいことはないだろう。
ダークエルフは子供でも序列を持ち、命令には忠実に従う。今いる子供たちの中で序列が一番高いのはロゼで、これは五人増えても変わらなかった。まじめなロゼが、まじめに勉強しろと言えば、全員がまじめに勉強する。ハンソンがやる気になるのも当然だろう。
彼は今も一人で温泉に入っているが、男子生徒と一緒に温泉に入る日も近いような気がする。
一方、唯一まじめに勉強していないのがカエデだった。赤い目と呼ばれる特別なダークエルフの彼女だけは序列を持たず、ロゼの命令にも従わない。レンが言っても無駄で、
「えー、やりたくない」
と言って勉強してくれない。
おかげでロゼはいつも腹を立てている。自分の命令を聞かないのはともかく、レンの命令を聞かないのは何事だ、と。
多分、もっと強く言えばきいてくれるとは思う。
だがレンは誰かに強制的に命じるのが苦手で、カエデにもあまり強く言えなかった。
他人に対し強い態度を取らないのは美徳ともいえるが、性格の弱さともいえる。レンの場合は後者だろう。
ただカエデにはダークエルフすら凌駕する圧倒的な身体能力があるから、勉強せずとも、そちらを生かしていけばいいか、とも思っていた。
そんなカエデのことはともかくとして、他の子供たちの勉強については、レンの仕事はずいぶん楽になった。
今は文字の読み書き、社会(地理、歴史)などの勉強をハンソンが教え、レンは算数を教えている。さらに算数の授業ではそろばんも導入した。レンが先生となって、全員に使い方を教えて練習させている。
そろばんはすぐに効果を発揮するような道具ではないが、長い目で見ればダークエルフに多大な恩恵を与えるはずだ。何しろ電卓が発明されるまでは最強の計算機だ――とレンは思っている――し、暗算能力も鍛えられる。
この国にも並べ板と呼ばれる計算道具があるが――こちらは石などを並べて計算する――レンの見たところ、利便性はそろばんの方が上だ。
今まで集落のダークエルフたちは、計算をほとんど必要としない生活を送ってきた。商人と食料を取引するときなどに、足し算引き算が必要だったぐらいだ。
だが密輸を行うようになってから、計算の需要は高まっている。
例えば今は原価の七割を報酬としてもらっているが、最初、ダールゼンはこの七割という考え方が理解できなかった。だからレンはまず割合という考え方について教えるところから始めた。
そのかいあってダールゼンはどうにか割合について理解してくれたが、報酬の計算は今もレンが行っている。
一番いいのはダークエルフが自分たちできっちり計算して管理することだが、今の集落にはそれができる人材がいないのだ。
外部から数字の扱いに長けたダークエルフを連れてくるか、自前で人材を育成するしかないのだが、実は将来有望な人材が一人いる。
リゲルだ。
最初から算数の得意な子だな、とは思っていた。ロゼやディアナと比べて明らかに理解が早かったからだ。そして勉強を教えていくにつれ、その思いはどんどん強くなっていった。
教えたことをすぐに理解していくのだ。
レンの教え方はかなりいい加減なところがある。教科書がないので、教えていく順番がバラバラなのだ。
確かあんなのがあったな? よし、じゃあ次はそれを教えよう――みたいな感じだ。レンも思い出しながらやってるので、どうしてもそうなってしまう。
だがリゲルはそれをどんどん吸収していった。
分数、小数、図形の面積や角度、円周率、代数、方程式――自分でもどこまで正確か不安に思いながら教えていき、この頃ではついに教えることがなくなってきた。
そろばんについてもそうだ。
今ではそろばんでも暗算でも、リゲルの方がレンより早くて正確なのだ。長いブランクがあったとはいえ、あっという間に追い抜かれてしまった。
リゲル以外は、まだそろばんの足し算、引き算の練習中だが、彼はかけ算まで楽々こなす。ちなみに割り算は教えていないというか、教えられない。やり方を思い出そうとがんばったが無理だった。やった記憶はあるのだが……。
本当にリゲルに数学的才能があるのか、経験の乏しいレンでは判断できないのだが、それも含めてもっとちゃんとした先生の元で数学を学ばせたいとも思う。
数学に関しては、レンの方がハンソンの知識を上回っているので、彼の教えは期待できない。だったら別の先生を、と思ってもダークエルフが差別されているこの世界では難しい。最初のハンソンがそうだったように、
「ダークエルフなどに勉強を教えるなどバカげている」
などと拒否されるのは目に見えている。
そういう差別意識はすぐには消えないだろう。だったら後はもう高額の報酬で呼んでくるしかない。
「俺は依頼人がダークエルフでも気にしない……受けた仕事をこなすだけだ……」
みたいなことを言うプロフェッショナルな先生を捜すのだ。いや、本当にそんな先生がいるかどうかはわからないが。
だがそれをやるなら先立つ物が必要だ。
幸い今の集落には密輸という収入源があるので――これからも上手くいくという前提に立てば――高額な報酬を用意することも可能だ。
稼いだお金をどう使うか、選択肢は色々あるが、先生を雇うというのは有効な使い道ではないだろうか?
だがその前に、さらにやっておかねばならないことがあった。
借金の返済だ。
ガングに襲われて商品を失った際、ターベラス王国のヴァイセン伯爵からお金を貸してもらっている。しかも無利子無期限で。
その言葉に嘘はなく、三ヶ月前の前回の密輸のときも、向こうからは借金についてなにも言われなかったそうだ。
そして今回。すでにマルコからの商品は届き、ダークエルフたちの商隊は出発準備も整っている。これが成功すれば、前回の儲けと合わせて借金を全額返済できる。
向こうが無利子無期限でいいと言っても、それに甘えるつもりはない。できるだけ早く返さねば。
そして返済の際にはきっちりとお礼を伝える。
他の誰でもなく、レンはそれを自分の口から伝えたいと思っていた。すなわち、商隊に同行して黒の大森林を抜け、ターベラス王国まで行こうと考えていた。
2018年 8/10追記
感想欄で、家庭教師のハンソンが、平気でダークエルフと一緒の温泉に入るのはおかしいのでは? といった感じの指摘をいただきました。
その辺のことは私の頭から抜け落ちてたんですが、確かにその通りだと思ったので、それに関連する部分を追記、修正しました。