第67話 対岸の火事(下)
魔獣が現れたという浜に向かい、街中を走っていたモンダー伯爵は、途中で周囲の雰囲気がおかしいことに気付いた。街がやけに騒がしいのだ。
まだ夜明け前、普段なら街はまだ寝静まっている時間だ。魔獣が出たから多少騒ぎになるのはわかるが、それにしてもそれが大きすぎる。あちこちから叫び声や悲鳴まで聞こえてくるのだ。
ここまで伯爵を案内してきた漁師も、この異常な雰囲気に気付いたのだろう。自然と二人の足が止まった。
「この騒ぎは魔獣のせいか?」
「わかりません。来る時は静かだったんですが……」
漁師も何が起こっているのかわからないようだ。
そんな二人の前に、横道から一人の住人が飛び出して来た。住人は伯爵たちに気付くと、慌てて駆け寄ろうとした。
「助け――」
住人が何かを言い終わる前に、続けて飛び出して来た黒い影が彼に襲いかかった。
地面に押し倒された住人が悲鳴を上げる。
「魔獣!?」
伯爵が驚きの声を上げた。今、目の前で住人に襲いかかっているのは、巨大なトカゲのような魔獣だった。
「お前たちが見た魔獣というのはこいつか?」
「そうです」
答える漁師も魔獣に驚いているようだった。
「浜に出たんじゃないのか!? どうしてここにいる?」
と漁師を問いただすが、相手はわかりませんと首を振るばかりだ。
浜で取り逃がして、ここまで上がってきたのか?
気にはなったが、まず考えるべきは目の前の魔獣への対処だ。
これが一人だったなら、伯爵はすぐに逃げ出していただろう。多少は剣の修練も積んでいるが、一対一で魔獣と戦えるほどの腕はない。
だがここには漁師がいた。彼が見ている前で、襲われている住人を見捨てて逃げ出せば、伯爵の評判は地に墜ちるだろう。
仕方あるまい、と伯爵は剣を抜く。
別にこの魔獣を倒す必要はないのだ。しばらく時間を稼げば、騒ぎを聞きつけた他の住人が助けに来てくれるはずだと伯爵は計算した。
「お前も手伝え!」
と漁師に命じるが、その漁師に魔獣が襲いかかった。
住人を襲っている魔獣ではない。別の魔獣が暗がりから飛び出して来たのだ。
魔獣は口を開けて漁師に噛みつき、噛まれた漁師は大きな悲鳴を上げた。
「領主様、助けて下さい!」
助けを求める声を聞いても、伯爵は動けなかった。
目の前で起こっている事態を理解するだけで必死だったのだ。
「複数の魔獣だと……?」
伯爵は自分が致命的な間違いを犯していたことに気付いた。
街を襲ってきたのは単体の魔獣ではない。魔獣の群れなのだ。
それに気付いた伯爵は即座に逃げ出した。
もはや他人の評判など気にしている場合ではない。
魔獣が一体だけなのと、魔獣の群れとでは脅威がまるで違う。
すぐに街の警備兵や海軍の兵士たちを集めて対処しなければならない。下手すればこの街の存亡の危機だ。
ふと、伯爵の頭にカンニガル教授の顔がよぎった。
ロドネイ島を調べたいと言ってきた教授に、伯爵は反対した。
実のところ、伯爵は魔獣の島という言い伝えをあまり信じていなかった。それでも反対したのは、住民の多くがそれを信じていたからだ。
地元に伝わる伝統や言い伝えなどをないがしろにすると、後で大きな反発を招くことがある。だから反対したのだが、最後は向こうに押し切られてしまった。
彼らは数日前に島へと向かった。そこに今回の襲撃だ。
無関係とは思えない。だがそれを考えるのも後だ。
しかし伯爵の行動は遅すぎた。
住人を襲っていた魔獣が、逃げた伯爵を追ってきたのだ。
元々彼の足は遅かったが、ここまで走ってきた疲れもあってさらに遅くなっていた。
両者の距離はたちまち詰まり、伯爵が背後を振り返れば、すぐ後ろに魔獣が迫っていた。
「ひいッ!?」
悲鳴を上げた伯爵は、反射的に手に持っていた剣を後ろに振った。
剣は魔獣の胴体に当たったが、ぬめりのある表皮で滑り、なんのダメージも与えられない。それどころか無理な体勢で剣を振るったためにバランスを崩し、その場で転倒してしまう。
慌てて起き上がろうとした伯爵が最後に見たのは、自分の頭を飲み込もうと迫る魔獣の巨大な口だった。
マルドーバの街を襲った魔獣の群れ――魔群は、ロドネイ島でカンニガル教授たちを全滅させた魔群だった。
あれから魔群は海を渡り、マルドーバを襲撃したのだ。
街の側から見れば不運が重なっていた。
まず襲撃時間が夜明け前だったこと。まだ寝ていた住民も多く、混乱に拍車をかけた。
さらに領主のモンダー伯爵がすぐに殺されてしまったこと。これで指揮を執る者がいなくなってしまった。
また伯爵が最後に出していた命令も問題だった。
魔獣が一体だけだと思い込んでいた伯爵は、屋敷を出る際に、
「警備兵たちを起こして浜の方に送ってくれ」
と執事に命令していた。
執事はその命令を忠実に守り、すぐに警備隊の隊長を起こしに、彼の家へと向かった。
起こされた隊長は、すぐに準備を整えると、言われた通りに浜の方へと向かった。途中、何軒か警備兵の家に寄ると、魔獣が現れたことを告げ、お前もすぐ来いと命令しておいて、自分は一人で先に向かった。
隊長に起こされた警備兵もまた、慌てて準備して家を飛び出し、これまた途中で何人かの警備兵を起こし――といったように、警備兵たちは起きた者から順番に現場へ急行した。
これは迅速な対応ともいえるが、今回の場合は悪い方に作用した。
結果として各人がバラバラに行動してしまい、組織的な行動がとれなかったのだ。
人間が一対一で魔獣に勝つことはきわめて難しい。警備兵たちは一人、あるいは少人数でいるところを魔獣と遭遇し、次々と倒されていった。
大混乱に陥ったマルドーバの街だったが、その中で唯一組織的な対抗を見せたのが海軍だった。
海軍施設は街の一角に固まっており、宿舎もそこにあった。おかで彼らはまとまって行動できた。
魔獣の襲来を受け、当初こそ混乱したものの、戦闘専門の水兵を中心として防御態勢を整えて魔獣を迎え撃った。
この時、マルドーバの街の人口がおよそ三千人。海軍関係者はそれとは別に八百人ほどいた。
もし襲ってきた魔獣が十体や二十体、あるいは百体ぐらいでも、もしかしたら彼らは撃退に成功していたかもしれない。
だが相手の数が多すぎた。ロドネイ島から発生した魔群は、総数千体を超えていたのだ。
魔獣は数が増えれば増えるほど幾何級数的に手強くなっていく。
超回復を持つ魔獣は、きっちりとどめを刺さねばならない。だが数が増えればそれが難しくなっていくからだ。
この時もそうだった。
人間の側は死ななくても、ある程度の傷を負ってしまえば、それ以上は戦えない。回復にも時間がかかる。
一方、魔獣の側は傷ついてもすぐに回復して戦闘に復帰する。とどめを刺そうにも、他の魔獣が襲いかかってくるので、その余裕がない。
結果、当初は互角に戦えても、どんどん魔獣の優位へと傾いていく。
しかも街を襲っていた魔獣が合流してきたため、相手の数は減るどころか増えていった。
「こいつら、どれだけいやがるんだ!?」
などという声が兵士たちから上がり始め、ついには、
「もうダメだ!」
と悲鳴を上げて逃げ出す者が出てきた。
逃げ出す者が一人現れれば、その恐怖は周囲に伝染する。崩壊まではあっという間だった。
「逃げるな! 踏みとどまって戦え!」
上官が声をからして叫ぶが、一度崩れた態勢を、元に戻すことはできなかった。
そこから先は戦闘ではなく一方的な殺戮となった。
さらに街中から火の手が上がる。
出火元は明かりとして使っていたカンテラか、あるいはどこかの家の調理の火か。この日の風はそれほど強くなかったが、魔獣の襲撃の最中では消火活動などできるはずもなく、火はどんどん燃え広がっていった。
燃えさかるマルドーバの街の様子は、対岸の街ニームからもよく見えた。
「町長起きて下さい。マルドーバで火事です」
家までやって来た部下に起こされた町長のパウルは、眠い目をこすりながらベランダに出た。
「おおっ!」
眠気が一気に吹き飛んだ。
町長の家は高台にあったので、炎上するマルドーバがよく見えた。
夜明け前の空を焦がすように、赤い炎が立ちのぼっている。
「ハッハッハッ! こりゃいい、もっと燃えろ」
大笑いしながらパウルが笑う。
「町長、火事を笑うのはどうかと思いますが」
と一応は注意する部下だったが、その部下も笑いを浮かべている。
今は落ち着いているが、ターベラス王国とザウス帝国は敵国同士。さらにここニームとマルドーバの間にも色々な問題があり、二つの街は仲が悪い。
嫌いな相手の不幸は楽しい、というわけで笑いが出たのだ。
「よし。すぐに船を一隻用意しろ。食料品を積み込むんだ」
パウルが部下に命じる。
「どうするつもりですか?」
「向こうに見舞いとして送る」
影で相手の不幸を笑っても、それを正直に表に出していては町長は務まらない。ここは内心を隠し、相手に恩を売るべきだとパウルは判断した。それこそが付き合いというものだろう。
部下もそれを察したようで、すぐに準備しますと言って足早に立ち去った。
もっともっと盛大に燃えろ、とマルドーバの街を見ながらパウルは思ったが、彼はこの火事が単なる失火によるものだと思い込み、一つの可能性を失念していた。
魔獣の襲撃という可能性を。
魔獣の島、ロドネイ島に関する言い伝えは、ここニームの街にもあり、パウルもそれを聞かされて育ってきた。
だが大規模な魔獣の襲撃はここ数十年起こっておらず、彼も生まれてから今まで、そんな事件を経験していなかった。
たまに海から魔獣が現れることがあっても一体だけで、だから魔群による襲撃まで考えが及ばなかったのだ。
このしばらく後、マルドーバを襲った災難がニームにも襲いかかり、同じように街が灰燼に帰することを、彼はまだ知らなかった。
対岸の火事、という言葉が日本にある。
自分には関係ないことを例える言葉で、
「これを対岸の火事だと思うな。自分たちにも起こることだと思って気をつけろ」
などと注意するときに使われたりもする。
この異世界にも対岸の火事という言葉が存在する。ただしそれは今より後の時代に生まれる言葉だ。
語源となったのが、このマルドーバとニームの惨劇で、意味は「一見すると自分には関係ないように思えるが、実は自分と深く関わっていること」だ。
マルドーバの火事を、自分には関係ないと笑っていたニームの人々だったが、実はそうではなかった、というところから来ている。
「これは対岸の火事というやつだ。気を抜かず注意しろ」
などと、まさに日本語とは逆を意味する言葉として使われていくことになる。
一話前にも書きましたが、これで三章の序章部分は終わりです。
次からはまた、レンとガー太の話に戻ります。