第66話 対岸の火事(上)
予定より長くなってしまった三章序章部分もこれで終わり、と思ったらこれまた予定より長くなってしまったので上下に分けます。
次でこの序章は終わって、また主人公のレンとガー太の話に戻ります。
十一月六日早朝。港町マルドーバ。
カンニガル教授の一行を乗せた船が出航してから、四日目の早朝のことである。
まだ日の出前だったが、漁師たちの朝は早い。
朝の寒さに身を震わせながら、寝床から出た漁師たちは、夜明け前の暗い道を歩いて、港にある自分たちの漁船へと向かった。
「うー、寒いな」
などと言いながら、ランタン片手に家を出たバッテラもそんな漁師の一人だった。
彼は漁師一家に生まれ、物心つく前から漁師の仕事を手伝い、そのまま漁師となって今年で三十八になった。
今日までそうだったように、明日からもずっと漁師を続けていくだろう、とバッテラは当たり前のように思っていた。
海岸沿いの道を歩き、自分の船へ向かっていたバッテラは、海から上がって来る人影に気付いた。
「おいあんた、大丈夫か!?」
バッテラは慌ててその人影の方へ駆け寄った。
このあたりは砂浜になっていて、夏場は泳いで遊んでいる子供たちも多い。だが今は十一月だ。今日のような寒さで海に入れば命に関わる。
誰か間違って海に落ちたのか? と思いつつ、バッテラは持っていたランタンでその人影を照らしたのだが、
「えっ?」
思わず絶句してしまう。
その人影は人間ではなかった。一つの頭に二本ずつの手足、という点では人間と同じで、だからこそバッテラも間近に寄るまで人間だと思っていたのだが、ランタンの光に浮かび上がったその姿は、どう見ても人間ではない。
それは二本足で歩く巨大なトカゲのような姿をしていた。
あまりのことに混乱してしまい、バッテラは動くことができなかった。
そんな彼に向かって、それは大きな口を開き――左肩のあたりに噛みついた。
「ぎゃあああああッ!」
バッテラの絶叫が響き渡る。
夜明け前の静かな時間だったため、その声は遠くまで聞こえた。
近くにいた漁師たちが、何事かと駆けつけてきた。彼らも最初は誰かがケンカでもしているのかと思ったのだが、すぐに魔獣に人が襲われていることに気付く。
「魔獣だ!」
「誰か武器を持ってこい!」
魔獣と知っても、漁師たちは恐れるそぶりを見せず、それどころか積極的に戦おうとした。
元より漁師たちの気性は荒い。しかも漁に出る時は海洋魔獣に襲われることも覚悟しているし、実際に襲われて戦った者もいる。並の兵士よりも度胸や腕っ節は上で、魔獣が出たからといってひるむ連中ではなかった。
「誰か、領主様にも知らせてこい!」
わかった、と答えた一人の漁師が、街中の方へ走っていく。彼が向かったのは、この街を治めるモンダー伯爵の屋敷だった。
息を切らして屋敷へと駆けつけた彼は、門の扉をドンドンと叩いた。
「伯爵様! 魔獣が出ました!」
そうやって叩き続けていると、すぐに扉が開いた。
そこに立っていたのは屋敷の執事、そして寝間着姿のモンダー伯爵本人だった。
伯爵はちょっと小太りな中年男性だった。とはいえこの時代、男が太っているのは豊かさの証とされていたから、よほど太っていない限り肥満などのマイナスイメージはなく、恰幅がよいと好意的な目で見られている。
「魔獣が出たというのは本当か?」
モンダー伯爵はいきなり訊ねた。
「はい。浜の方で海から上がってきました。今、みんなで退治しようとしてますが」
「わかった。ちょっと待っていろ」
伯爵は執事と一緒に家の中に入ると、しばらくしてからまた出てきた。寝間着姿から動きやすい服に着替え、腰には剣を差していた。
「念のため、警備兵たちを起こして浜の方に送ってくれ」
と執事に命じてから、漁師に命じる。
「魔獣が出たところまで案内しろ」
「はい。こっちです」
漁師は来た道を走って戻る。
伯爵もそのあとに続いて走ったのだが、すぐに息が上がった。
「待て、もう少し速度を落とせ」
「すみません」
漁師がペースを落とす。それでも伯爵にはきつかったが、どうにか遅れずについて行く。
まったく、よりによってこんな時間に出るとは! と伯爵は心の中で文句を言う。寝ていたところを叩き起こされて、伯爵はかなり不機嫌だった。
だがそんな本音を表に出したりはしない。モンダー伯爵は、領民に優しい、話のわかる領主として通っていたからだ。
それは伯爵の人柄で自然とそうなったのではなく、彼が苦労して築き上げてきたイメージだった。
ここ港町マルドーバは、昔から漁師町として栄えてきた。だがザウス帝国の領土となってから、帝国はこの街を軍港としても整備してきた。
港を大きくし、海軍関係の施設も建てて、人も送り込んできた。
そのおかげでマルドーバは昔よりも発展したが、同時に漁師を中心とした昔からの住民と、海軍関係者を中心とした新しい住民との間で、もめ事も頻発するようになった。
そこで領主として送り込まれたのがモンダー伯爵だった。
領主といっても、この街がモンダー伯爵の領地になったわけではない。ここは帝国の直轄地で、モンダー伯爵はそこを治める帝国の役人として赴任したのだ。
実はモンダー伯爵家は家名だけの没落貴族で領地も持っていなかった。伯爵も幼い頃から貧乏暮らしを送っていたが、いつか家を再興させるのだと勉学に打ち込み、帝国政府の役人として働いてきた。
小さい頃から苦労してきたおかげで、伯爵は人付き合いも上手くなった。俺は貴族様だぞ、などと偉ぶっていては生きていけなかったので、自然とそういう処世術を身につけたのだ。
ここの領主に伯爵を推薦してくれたのは、そんな彼をよく知る貴族だった。
「モンダー伯爵なら、あの難しい土地を上手く治められるかもしれません」
と言ってくれたのだ。
強権的なイメージが強いザウス帝国だが、なにも全ての領地で圧政を敷いているわけではない。敵対者には容赦しないが、素直に服従する者にはけっこう寛容なのだ。ましてここはターベラス王国との国境地帯でもある。平穏に統治できるなら、それに越したことはなかった。
領主として赴任したモンダー伯爵は、見事にその期待に応えてきた。
住人には気性の荒い漁師が多かったが、伯爵は積極的に彼らの集まりに出かけたりして、友好関係を築いてきた。
海軍側とも話し合いを欠かさず、住人との利害関係を調整し、もめ事が起これば仲裁に走り回った。
川の向かい側、ターベラス王国のニームの街との交渉も、そつなくこなしてきたつもりだ。
普段の行動にだって気を配ってきた。まじめで働き者、それでいて堅物ではなく話のわかる領主様――といった人物像を作り上げてきたのだ。
ここに来てから多少の贅沢を覚え、多少体は太ってしまったが、これぐらいは許容範囲だろうと思っている。
全てはお家再興という夢のためだ。ここで功績をあげれば、褒美としてどこかの領地をもらえるかもしれない。どんな小さな土地でもいい、自分の領地を治める貴族に返り咲きたい、という夢のために彼は努力している。
今だってそうだ。
本心では、魔獣の一体ぐらいなんだ。お前らで対処しておけ――などと思っていても口や態度に出したりはしない。逆に、よくぞ知らせてくれたと住民をねぎらい、こうして出現場所へ向かっている。
こういうときに現場に駆けつけ、一緒に汗を流してこそ、住民たちの信頼を得ることができるのだ。
そう考えれば今回の事件も悪くないと伯爵は思った。
魔獣が海から上がって来るような事件は、数年に一回ぐらいの頻度で発生している。魔獣は脅威だが、領民達も慣れたもので、一体だけなら彼らだけで十分対処可能だ。
今から行っても、すでに魔獣は倒されている可能性が高い。だがそれでいいのだと伯爵は思った。ちゃんと現場に駆けつけてきた、という事実こそが大切なのだ。
もしかしたら何人か犠牲者が出ているかもしれないが、その時は葬式に出て哀悼の意を表し、見舞金も出してやれば、慈悲深い領主様だと評判も上がるだろう。
などと、伯爵はすでに事件が終わったあとのことを考えていた。