第63話 カルデラ湖
朝から山を登り始めたカンニガル一行だったが、道中でけが人を出すこともなく、順調に山を登っていった。
魔獣への警戒も怠っていなかったが、幸い魔獣が現れることはなかった。それどころか、他の鳥や動物も見なかった。
そして昼過ぎ頃、カンニガルたちは外輪山の頂上までたどり着いた。
「あそこを越えれば、向こう側が見えるはずだ」
そう言うカンニガルの額には汗が浮かび、息も多少上がっていたが、まだまだ足取りはしっかりしている。船で船長に言っていた通り、なかなかの健脚ぶりを見せて、最後の斜面を登った。
山の尾根を越え、カルデラの内側を目にしたカンニガルだったが、その顔には失望が浮かんだ。
「先生、どんな感じ――」
続いて登ってきたディーネも、途中で言葉を途切れさせた。
直径数キロのカルデラ内は、青い水で満たされていた。そこに広がっていたのはカルデラ湖だった。
「空振りだったか……」
残念そうにカンニガルがつぶやく。
「魔群が眠るのは、どこか別の島だったのでしょうか?」
「さてな。言い伝えが間違っていたのか、何か見落としがあったのか……。それらも含めてもう一度調べ直しだな」
気持ちを切り替えるように、カンニガルは答えた。
「それにしてもきれいな湖ですねー」
ことさら明るい声でディーネが言う。カンニガルを元気づけようとしているのが半分、残りの半分は素直に感激しているのだろう。
カルデラ湖は鮮やかな青色だった。静かにたたずむ青い湖は、まさに絶景で、彼らが観光客なら感嘆の声を上げていただろう。
「先生。せっかくですから、近くまで下りてみませんか?」
今いる場所から湖面まで五十メートルぐらいだろうか。カルデラ内の傾斜も緩やかなので、下りていくのは難しくない。
「そうだな。少し観光でもして帰るか」
カンニガルも笑って答えたので、暗い雰囲気が少し明るくなった。
他の助手たちや、兵士たちもカルデラ湖に興味津々の様子で、一行は湖の岸辺まで下りていった。
「本当に青いですね」
ディーネが言う。
近くで見ても湖は青かった。空の反射とかではなく、水自体が青く色付いているようだ。そのため透明度は低く、湖底の様子も全然見えない。
「何か地下から染み出しているのかもしれんな。飲むのはもちろん、さわるのもやめておいた方がいいだろう」
何人かの兵士がビクッと動きを止めた。カンニガルの注意がなければ、湖の水を手ですくい、ゴクゴクと飲んでいただろう。
「ちょうどいい。ここで少し休憩しよう。君たちも食事を取るなり、好きにしてくれ」
そう言ってカンニガルが腰を下ろすと、助手や兵士たちも休んだり、周囲を散策したりと、思い思いに行動し始めた。
カンニガルもカバンから食事を取りだした。硬いパンだった。日持ちするので携帯食としては便利だが、味はよくない。
湖面を眺めながら、もそもそとパンを食べる。
「何を考えているんですか?」
隣にディーネが腰を下ろした。
「この島の言い伝えについて、な」
「外れてしまったのは残念ですね」
「ああ。しかしこれは負け惜しみで言うのではなく、やはりこの島には何かあると思うのだ。船長も言っていたが、昔からの言い伝えには何かの意味があるものだ。この島がはっきりと魔獣の島と呼ばれているなら、その理由がどこかにあるはずだ」
「ですが一通り島の様子は確認しましたよ? 魔獣が隠れているような場所はどこにもありません」
島の沿岸部は船から確認済みだ。そして外からは見えなかったカルデラの内側も、こうして自分たちで確認した。魔獣の姿はどこにもない。
「それはわかっている。だからこそ、どこかに見落としがあるのではないかと考えている」
「あと調べていないのは、この湖の底ぐらいじゃ――」
兵士たちの叫び声が聞こえたのはその時だった。
その兵士の名はルーデスといった。年は三十八才。家は帝都にあり、妻と三人の子供がいる。
彼を含め、今回の調査に同行した兵士たちは、全員が帝国大学院警備隊に所属している。
警備隊はその名の通り帝国大学院を警備するのが仕事で、普段は帝都にある帝国大学院で働いている。
軍事覇権国家の印象が強いザウス帝国だが、学問を広く奨励している国でもある。
学問に力を入れ始めたのは、名君として知られる賢人帝アウレスの時代からだ。
「知とは力である」
ことあるごとにそう口にしていたアウレスは、帝国各地に学校を作り、帝国大学院の前身となる帝国学問所も創設した。
以来、帝国学問所は帝国大学院に変わりつつも、帝国の最高学府として君臨し続けている。
そんな帝国の重要機関を守るため、専門部隊が創設されたのは必然だった。
帝国大学院警備隊は帝国軍の一部ではあるが、最高指揮官は帝国大学院学長となっていて、独自の指揮系統を持っている。
人員は帝国軍からの出向だが、幹部は別として、ルーデスのような下級兵士はほぼ一方通行だ。一度警備隊に出向すれば、引退するまでずっとそのまま、元の部隊に戻ることはほとんどない。
帝国大学院を守るといっても、大学院は帝都にあるから、魔獣や敵国の兵士が襲ってくる心配はない。学生や職員のケンカとか、不審者への対応とか、危ない仕事はそれぐらいだ。
このため手柄を立てて出世したいと思ってるような兵士にとって、警備隊は不人気だった。戦いがなければ、手柄を立てる機会がない。実際、警備隊の兵士は、配属されてから引退まで同じ階級のまま、という者がほとんどだ。
ルーデスも最初に警備隊行きと聞いたときは落胆した。
今から十年以上前のことだ。まだ若く、それなりの野心も持っていた。
だが妻と出会い、子供が産まれ、彼の意識も変わってきた。
確かにこれ以上の出世は望めない。だが仕事は比較的安全で安定していた。贅沢はできないが、慎ましく暮らしていくなら今の給料でも何とかなる。
ルーデスは家族のいる今の生活に満足し、安定を望むようになったのだ。
ところがそんな彼に今回の任務が回ってきた。
「カンニガル教授の調査に、護衛として同行せよ」
と最初に上司から命令されたときは、まだ気楽に考えていた。
帝国大学院の関係者が、調査などに赴く際に、その護衛を務めるのも警備隊の仕事だ。行き先は安全な場所がほとんどで、旅行気分で付き添っていけばいい。
帝国大学院の教授ともなれば、かなりのお偉いさんなのだ。そんな彼らが、わざわざ危険な場所に出かけることは滅多にない――はずだったのだが、今回はその滅多にない危険な調査と思われた。
なにしろ行き先は魔獣の島と呼ばれているらしい。
昔のルーデスなら手柄を立てるチャンスと喜んだかもしれないが、今の彼は恐怖しか感じなかった。
だが噂は噂だったようだ。こうして島に上陸しても魔獣はいなかった。
カンニガルの手前、態度には出さなかったが、ルーデルの内心はニコニコだった。
魔獣がいなかったのだから、あとは帰るだけだろう。
水辺に腰を下ろし、硬いパンをかじっていたルーデルは、子供たちに何かお土産でも買って帰ろう、などとを考えていた。
「うん?」
何気なしに湖の方を見ていたら、水中を何か黒い影が横切ったように見えた。ルーデルはそれを確かめようと立ち上がり、湖の方をのぞき込む。
「どうした?」
隣で座っていた同僚の兵士が聞いてくる。
「いや、なんか水の中を動いたものが見えて。魚かな?」
「どこだ?」
「あのあたりなんだけど……」
ルーデルが指さすが、今は何も見えない。
「何もいないぞ」
「ああ。潜ったのかもしれない」
透明度の低い湖だ。少し潜れば見えなくなるだろう。
もう一度見えないかと思ってルーデルが探し始めると、近くにいた同僚たちも一緒になって探し始めた。
彼らにとっては、ちょっとした暇つぶしだった。
しばらくルーデルは探し続け――それを見つけた。
岸から数メートル離れた水中を、大きな影が泳いでいる。
いた! と声を上げる前に、それは水の中か飛び出しだしてきた。
「――ッ!」
悲鳴を上げる暇さえなかった。
水中から飛び出して来たそれは、水辺に立っていたルーデルに飛びついた。巨大な口を開け、ルーデルの首筋に噛みつき、一撃で彼の首をへし折った。
即死だった。ルーデルは何が起こったのかもわからないまま死んだ。痛みを感じなかったのが、せめてもの救いだろう。
「なんだこいつは!?」
「化け物、いや魔獣か!?」
周囲にいた兵士たちから、混乱した声が上がる。
だが彼らも訓練を受けた兵士たちだった。一人の兵士が剣を抜いて叫ぶ。
「魔獣だ、殺せ!」
すると他の兵士たちも次々と剣を抜いた。まだ混乱しているが、それでもこいつを殺さねばならないと全員が思った。
「ルーデルを離せ!」
兵士の一人が、それに斬りつけた。
それは巨大なトカゲのような魔獣だった。しかも二足歩行するトカゲだ。
胴体は蛇のように細長く、二本の手と二本の足も細長い。立ち上がった時の背丈は一メートル五十センチほどだが、尻尾が長いので体長は二メートルを超えるだろう。頭部には二つの目と、人の頭を丸呑みできそうな巨大な口がある。
兵士の剣は、魔獣の胴体を横薙ぎにしたが、刃はその胴体を浅く傷つけただけだった。
表皮は硬くない。手応えでそれはわかった。しかし剣が滑ったのだ。
水に濡れていたので気付かなかったが、魔獣の体表はヌメヌメとした粘液で覆われていた。それが剣を滑らせたのだ。
「こいつ滑るぞ! 斬るときは刃を立てて――」
言いかけた兵士に向かって、ルーデルの死体が飛んできた。食いついていた魔獣が、首を振って投げつけたのだ。
よけることができず、死体にぶつかった兵士が体勢を崩す。
そこへ魔獣が飛びかかった。兵士の方は防御が間に合わない。
だが横から別の兵士が盾を構えて飛び出し、魔獣に体当たりした。
兵士たちは全員が腰に剣を帯び、背中に盾を背負っていた。その盾を構えて、体ごと魔獣にぶつかったのだ。
魔獣にとっては横からの不意打ちだったが、魔獣は少しよろめいただけで踏みとどまり、逆に兵士を押し返した。
「うわっ!?」
盾を持った兵士が倒れ、その場に尻餅をつく。
魔獣は今度はその兵士に襲いかかろうとしたが、そこへさらに別の兵士が斬りかかった。
「気をつけろ! すごい力だ」
「わかった。みんな無理するな」
「盾を構えろ。こいつを囲め」
離れたところにいた兵士たちも、慌てて駆けつけてきた。
殺されたルーデルをのぞく、十一人の兵士が剣と盾を構え、魔獣を包囲する。
またカンニガルや助手たちも集まってきたが、彼らは加勢することなく、少し離れた所で見ているだけだ。
戦いに関しては素人である彼らが加勢しても、兵士たちの邪魔になるだけだ。
「水棲魔獣か。その可能性を考えるべきだったか……」
魔獣を見たカンニガルが悔しそうにつぶやいた。
考慮すべきだった、と彼は思った。
この時代、魔獣の生態はまだ不明の部分が多かったが、それでも陸に棲む魔獣もいれば、水の中に棲む魔獣もいることは知られていて、後者を水棲魔獣と呼んでいた。
ロドネイ島に来るにあたり、カンニガルもそれは考えに入れていた。
だが彼が考えていたのは、島の陸地に棲む魔獣か、島の周辺の海に棲む魔獣か、そのどちらかだった。
理由は水棲魔獣の生態にある。
水棲魔獣というのは、水の中に棲む魔獣のことだが、基本的には川や池などの淡水に棲む魔獣を指す。対して海に棲む魔獣は海洋魔獣と呼ばれる。
魚が海と淡水で住み分けているように、魔獣も水棲魔獣と海洋魔獣で住み分けている。
水棲魔獣は海にはいないし、海洋魔獣も淡水には棲んでいない。
ただ海洋魔獣が一時的に川をさかのぼって内陸部を襲った、という事例は結構あったりする。しかしその逆、水棲魔獣が海に出たという記録はほとんどない。
だからカンニガルも思い込んでしまったのだ。
水棲魔獣が海を渡り、ドルトネラ湾一帯の街を襲うことはないだろう。だからこの湖にも魔獣はいない、と。
だがそれは間違いだったかもしれないと思った。
もしかすると、このトカゲのような魔獣は、淡水と海を行き来する珍しい水棲魔獣かもしれない。
いや、あるいはこの湖の水が塩分を含んでいるのかもしれない、とも思った。沿岸部の地下水には、塩分が混じると聞いたことがある。
だとすれば、この魔獣は水棲魔獣と海洋魔獣の合いの子かもしれない。
「先生。あの魔獣がロドネイ島の魔獣で、言い伝えにあるように周辺地域を襲ったんでしょうか?」
「まだわからない。だが、もしそうだとすると……」
周辺地域を襲ったとされる魔獣は、単体ではなく魔群なのだ。魔群の眠る島、という言葉が彼の脳裏に浮かぶ。
カンニガルは険しい表情で湖の方を見た。
さっきまではとても美しく見えた青い湖が、今はとても禍々しいものに思えた。