第56話 ガング
新居に引っ越しした次の日、新しい荷馬車が屋敷に到着した。
朝起きて、五人で新居から屋敷へ移動し、朝の授業が始まったところで、荷馬車が到着したとの報告を受けたのだ。
ハンソンに授業の中断をお願いして、レンは庭へ出た。
「立派な馬車ですね」
新しい荷馬車は二頭立てで、大きさは今までの荷馬車とあまり変わらない。だが新しいからきれいだし、全体的に作りがしっかりしているように見えた。
御者はダークエルフで、さらに護衛のダークエルフが四人いた。
「ここまで、あなたたち五人で来たんですか?」
「はい。我々だけです」
リーダーらしいダークエルフが、一仕事やり遂げた、といった顔で答えた。
専用の荷馬車を使い、ダークエルフだけで荷物を運ぶ――これまでよりも一歩前進だなとレンは思った。
「そういえば、この荷馬車の代金ってマルコさんが全額払ったんですか?」
ふと気になったので聞いてみた。買うとは聞いていたが、誰が金を出すかまでは聞いていなかった。いくらするのかはわからないが、二頭立ての荷馬車は決して安くないはずだ。
「折半、ということになっています」
リーダーのダークエルフが答えてくれた。
「ただ、今回は全額をマルコ様が出し、我々は取引の度に返済していく、という取り決めになっています」
これからも順調に取引が続いていけば、すぐに元は取れるだろうと思った。そのための先行投資だ。
「では領主様。荷馬車をしばらく置かせてもらってもよろしいでしょうか?」
「ええ。適当なところに止めておいて下さい」
今回から、荷物の積み卸しはレンの屋敷でやることになった。ここで荷物を降ろし、向こうから運んできた荷物を積み込んでジャガルへ戻る――というのが一番効率的だが、今回は初めてなので持って帰る荷物がない。
「商隊が帰ってくるまで、荷馬車はここに置いておくんですか?」
「いえ、すぐに戻ります。マルコ様からは、別の運送の仕事をやってもらいたいと言われています」
商隊が戻ってくるのは、およそ二ヶ月後。それまで無駄に遊ばせておくつもりはないようだ。
荷馬車に乗ってきたダークエルフたちは、今日はこちらで温泉に入って一泊し、翌日にジャガルへと戻っていった。
また集落からもダークエルフがやってきて、荷物を引き取って帰っていった。
後は道中の無事を祈るだけだ。
商隊を率いるリーダーは、これまで通りゼルドが努めていた。
ただ今回は十五人と数が多い。前回が六人だったから倍以上に増えた上、経験者はゼルドを入れて四人、後の十一人は初めてだ。だがあまり不安はない。
数ヶ月の訓練で、全員の実力や性格は把握している。ターベラス王国まで行ったことはないものの、一週間近く黒の大森林の中を探索する訓練も行い、これなら大丈夫だと判断した者を選んだ。
確かにこの方が合理的だったなとゼルドは思った。
基礎からしっかり訓練するというレンの方針に対し、ゼルドも最初は懐疑的だった。ダークエルフだから懐疑的に思っていても、命令には従い、しっかり訓練を行ってきた。
そして多少の時間はかかったが、使える人材を確保することができた。
今までのやり方を否定するつもりはない。少数の優秀な人材を育てるなら、今まで通りの実戦的なやり方の方がいいと思える。だがある程度の実力を持った者で、数を揃えるなら、こうしてしっかり訓練するやり方が適していると思った。
「全員、荷物はしっかり持ったな?」
「はい!」
「では出発する」
荷物の量は増えたが、それ以上に人数が増えたため、一人あたりの負担は減っている。ただし、人数が増えると魔獣を呼び寄る危険性が高くなる。
このあたりは経験則だが、少ない人数ではあまり変わらず、二十名を超える集団になったあたりから、明らかに魔獣に襲われる回数が増えると考えられていた。そのため一回の商隊の人数は、今回のように十数名が限度だろうと考えられていた。それ以上増やせば、危険の方が大きくなる。
集落を出た十五名は、まずは渡し場へと向かった。
黒の大森林を抜ける最初の難関が、青い湖へと流れ込むこの大きな川だ。
レンの発案により、浮き橋を架けることが計画されているが、人手が足りず、まだ完成には至っていない。
今はバゼのつるを結びつけたイカダで対岸まで渡っている。乗った者がつるを引っ張ることで、イカダは進む。
かなり大型のイカダを作ったので、十五人でも一度に乗ることができた。
ダークエルフは泳げない者がほとんどだから、イカダに乗って顔を強張らせている者が多い。ゼルド自身、何回乗っても慣れずに怖い。
全員が乗ったところで、ゼルドは大きく手を振った。
それに答える者は、少し離れた高い木の上にいた。
枝の上に作られた見張り台に、一人のダークエルフがいて、彼はゼルドに答えるように大きな赤い旗を振った。
これは青い湖に棲息する大魔魚ガングを警戒するためのものだった。
やり方は次の通りだ。
現在、渡河地点から青い湖の河口側に向かって、三つの見張り台が作られている。
渡河地点に近い方を一番、続いて湖の方へ二番、三番とすると、まず渡河の準備ができたのを確認し、一番の見張り台が大きな赤旗を振る。
それを確認した二番が赤旗を振り、続いて三番も赤旗を振る。
三番の見張り台は青い湖の様子を確認し、ガングがいなければ赤旗を下ろし、今度は大きな白旗を振る。それを確認して、二番と一番も白旗に変える。
一番が白旗を振ったのを見て、イカダは川を渡り始める。
問題がなければそれでいいが、もしガングが川に近づくなど、異常があれば三番は白旗を下ろして赤旗を振る。それで二番、一番も赤旗に変え、それを見たイカダは即座に渡河を中止、元の岸へと戻る。
河口にガングが出現して川をさかのぼり始めても、渡河地点までは距離があるから、逃げる時間は十分ある。
一見すると以上のやり方で問題ないように思えるし、レンもこれで大丈夫だろうと思っていたのだが……
この日、三番の見張り台に上がっていたのはグレイクというダークエルフだった。
見張りのダークエルフたちは、商隊が出発する前に集落を出て、見張り台に上がって待機しておく。グレイクも三番の見張り台に上がり、青の湖の方を警戒しつつ、二番に赤旗が揚がるのを待った。
やがて二番の見張り台に赤旗が揚がり、グレイクも手順通りに赤旗を揚げ、それを大きく振って合図する。そしてもう一度、青の湖を確認する。
河口付近にガングの姿はない。だが少し離れた所に巨大な魚影が見えた。間違いない。ガングだ。
ここでグレイクは少し迷った。安全だと判断するには少し微妙な距離だったが、ガングには河口に近寄る様子はなく、大丈夫だろうと思い、白旗を揚げることにする。もちろん、河口に近付くならすぐ赤旗に変えるつもりだった。
白旗を大きく振り、二番の見張り台が白旗に変わったのも確認した。
ガングが水面に浮上したのはその時だった。
鉄砲魚という魚がいる。口から水を出して、葉っぱにいる虫などを落として食べる魚だ。ダークエルフたちも知らなかったが、ガングはこの鉄砲魚と同じようなことができた。ただその威力は桁違いだったが。
水面に顔を出したガングは、まず口にの中に水を吸い込んだ。
ここでグレイクは浮上したガングに気付いたが、
「?」
何をしようとしているかまではわからず、不思議そうな顔でガングの様子を眺めるしかなかった。
そしてガングが水を発射した。
ドンっという音と共に、水面にはガングを中心とした円形の波が立つ。水の初速が音速を超えたため、ソニックブームが発生したのだ。
例え水であっても、それだけの高速で発射されればすさまじい運動エネルギーを持つ。そしてその運動エネルギーは、着弾の際の破壊力となる。
水は見張り台が作られていた木に命中したが、その衝撃で木は粉々に吹き飛んだ。見張り台もバラバラになり、そこにいたグレイクも吹き飛ばされた。
グレイクは何が起こったのかもわからなかった。衝撃波を受けて、痛みを感じる間もなく即死していたからだ。
こうして三番の見張り台が破壊されたが、二番の見張り台にいたダークエルフは、その瞬間を見ていなかった。彼が白旗を揚げ、一番の見張り台にも白旗が揚がるのを確認している間に、三番の見張り台が破壊されたからだ。
水の発射による衝撃音を聞き、何かあったのかと三番の見張り台の方を見たときには、すでに見張り台は消え去っていた。
見張り台がなくなったのだから、そこで揚げられていた旗も消えていた。だが距離があったため、見張り台が破壊されたことまでは確認できなかった。彼にわかったのは、旗が消えたことだけだ。
なぜ旗が消えた? どうすればいい? と彼は混乱した。
手順では、赤旗が揚がれば、白旗を下ろして赤旗を揚げることになっている。しかし旗が消えたとき、どうするかは決めていなかった。
ちょっと気の利いた人間なら、何かあったかもしれないと思い、赤旗を振っていたかもしれない。
だが命令に忠実なダークエルフは、忠実すぎるために白旗を下ろすことはなく、何があったのかと三番の見張り台の方を注視し続けた。だが見張り台に新たな動きはない。白旗も赤旗も揚がらないままだ。
そしてその間にもガングは動き続けていた。渡河地点の方へと、川をさかのぼっていたのだ。
「ん?」
ふと何かの気配を感じ、見張りのダークエルフが川の方を見た。そこにあったのは巨大な魚影――ガングの姿だった。この時点でガングは二番の見張り台があった場所を過ぎ、さらに上流へと泳ぎ続けていた。泳ぐ速度は速く、魚影はみるみる小さくなっていく。
「そんなバカな!?」
見張りは白旗を投げ捨て、慌てて赤旗を持つと、力の限りそれを振った。間に合ってくれと願いながら。
二番の見張り台の旗が赤旗に変わったので、それを見た一番の見張り台でも、白旗が赤旗に変わる。
この時、一番にいた見張りのダークエルフには余裕があった。三番、二番、一番と順序通りに旗が変わったと思っていたからだ。例えガングがこちらに向かっていても、河口からなら時間がかかる、と。
「渡河は中止だ! 戻るぞ」
イカダに乗っていたゼルドは、赤旗が振られるのを見て即座に命じた。だが、この行動にも問題があった。
すでにイカダは川の三分の二ぐらいを渡っていたのだ。普通の人間なら、このまま急いで渡るべきと判断しただろう。
だが渡河の手順では、赤旗が振られれば即座に渡河を中止し、元の岸へ戻ることになっていた。ダークエルフらしく、ゼルドはその命令に忠実に従った。
全員でつるをたぐり、イカダは元の岸へと戻っていく。半分の地点を過ぎ、三分の一の地点を過ぎ、あと少しというところまで来て、ゼルドは下流の異変に気付いた。
川の水が盛り上がっていたのだ。まるで、何か巨大な物体が、川の中を進んでいるかのように。
「ガングだ!」
ゼルドは声を張り上げた。
「急げ!」
なぜここに!? 早すぎると思ったが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
部下たちも必死の形相でつるをたぐったが、それよりもガングの方が早かった。
イカダまで五メートルほどの距離に近付いたところで、ガングは水面を割って飛び出した。空中を飛んだ巨体が、イカダめがけて落ちてくる。
「飛び込め!」
泳げないダークエルフにとって、その命令は自殺に等しかった。だがこのままイカダに乗っていては助からない。一か八かの賭けだった。
叫ぶと同時に、ゼルドはイカダから岸に向かって飛んだが、まだ距離があったので届かない。そこへガングが落ちてきた。
他の部下はイカダに乗ったままだった。命令に従わなかったわけではない。恐怖と驚きで動くことができなかったのだ。いかに命令に忠実なダークエルフといえども、自分の感情まではコントロールできない。
部下たちは驚愕の表情で、自分たちに向かって落ちてくるガングを見上げることしかできなかった。
ガングの巨体がイカダの上に落ち、着水の衝撃で巨大な水柱が上がった。