第44話 温泉の魔力
「そういえば、カエデのことですっかり忘れていましたが」
レンは今日、この集落までやって来た本来の用事を思い出した。カエデと出会ったのは、あくまで偶然なのだ。
「温泉の方の家ですが、どうもありがとうございます」
「いえ。むしろお礼を申し上げるのはこちらの方です」
屋敷の南で見つけた温泉についてである。
ダークエルフの集落に余裕ができれば、温泉の近くに家を建ててもらえるか頼んでみよう、なんてことをレンは考えていたのだが、その建築が早まった。というか、もう作業が開始されている。
レンが無理を言ったわけではない。むしろダークエルフ側の都合というのが大きい。
どういうことかといえば、ダークエルフたちも温泉にハマってしまったのだ。
きっかけは定期連絡のダークエルフたちだった。
およそ十日に一度ぐらいの間隔で、周辺の見回りを兼ねた数人組のダークエルフが、屋敷と集落の間を行き来している。しばらく前に屋敷に来たそのダークエルフたちに、温泉に入っていくよう勧めてみたのだ。
彼らは最初は遠慮したものの、レンが熱心に勧めたこともあり、彼らは温泉へと向かった。そしてどっぷりとハマった。
温かいお風呂の習慣がなかったダークエルフは、初めて温泉に入ると、その気持ちよさに驚愕して感動した。しかもその温泉にはガーガーもいるというおまけ付きだ。
余程気に入ったのだろう。集落へと戻った彼らはその素晴らしさを吹聴しまくった。おかげで集落には、一度温泉に行ってみたいと思う者が続出した。
ちなみにだが、ダークエルフの体臭はほとんどない。人間と同じように汗をかくのに、人間と違って汗をかいても臭わない。彼らが水浴びだけですませ、お風呂という習慣を持たなかった理由の一つだと思われる。
そして次の定期連絡は予定を早め、三日後にはレンの屋敷へと向かった。彼らもまた、温泉へと案内され、そして同じように温泉に感動し、同じように集落へ戻ってその素晴らしさを語った。
「あんなに気持ちよかったのは、生まれて初めてだ」
「すぐ近くにたくさんのガーガーがいた。あそこはこの世の楽園だ」
などという絶賛の声に、いよいよ温泉希望者が続出した。
ダールゼンもそんな彼らの声を無視できなくなり、屋敷との定期連絡を増やすことにした。
人間と違い、ダークエルフは命令に忠実だ。だから序列が上の者が下の者のご機嫌取りをする必要はないのだが、上も下も関係なく、全体のことを考えるのもダークエルフだ。それで全員が幸せになるなら、反対する理由もない。
結果、ほぼ毎日、数人組のダークエルフが集落と屋敷を往復することになった。彼らは屋敷に到着した後で温泉に向かい、そこで一風呂浴びてから集落に帰る、というのがルートとなった。
このように集落では、屋敷への定期連絡がちょっとした旅行のようになっていたのだが、問題も出てきた。
元々、早朝に集落を出て、昼頃に屋敷に到着し、そこから帰って集落に到着するのが夕方から夜だった。ここに温泉に行くことを加えると、帰るのが完全に夜中になってしまう。さすがにこれはしんどい。
せっかく温泉に入ったのに、逆に疲れてしまっては本末転倒だ。だったら、温泉の近くに家を建ててしまえとレンは思ったのだ。もちろん、そこはダークエルフも使う。
温泉に入ってそこでゆっくり一泊し、次の日に集落に帰ればいいのだ。
自分のわがままのために、家を建ててほしいとダークエルフに頼むのは気が引けたが、彼らも家を使うというなら問題ない。
最初、この話をダールゼンに持ちかけたときは、
「家の建築には、喜んで協力させていただきます。ですが、そこを我々も使うというのは……」
と遠慮した答えが返ってきた。
「家まで建ててもらって、僕だけが使うなんてできませんよ。こちらが協力を頼んでいる立場なんですから」
「ですが、我々も使うとなると、他の方たちがどう思うか」
「それはすでに承諾をもらっています」
ロゼたち三人は問題ない。
問題なのは、屋敷にいる他の三人の人間だった。
メイドのバーバラ、執事のマーカス、家庭教師のハンソンに、最初に引っ越しのことを伝えた際は、反対の方が多かった。
三人のうち、バーバラだけは初めから賛成だった。彼女も屋敷が広すぎると思っていたようで、狭い家に引っ越せば、その分、掃除などの仕事も減ると思ったようだ。
マーカスは反対の立場だった。
「この屋敷は、いざというときの拠点でもあります。そこから別の場所へ移るというのは、いかがなものでしょうか」
「はい。ですから申し訳ありませんが、マーカスさんには責任者として、この屋敷に残ってもらえないかと」
引っ越した後の屋敷の管理は、ダークエルフたちに頼もうと思っていた。だが、少なくとも最初のうちは人間の管理者がいた方いいだろう。
また、周辺の村との間にも色々とやり取りがある。現状、それらの仕事は全てマーカスが行っている。領主としての仕事をレンが丸投げしているせいだが、それもあり、彼には引き続きここで働いてもらえないかと思っていた。
「ですが、そうなるとレン様のお世話ができません」
その言葉は半分は本当だが、もう半分はちょっと違うだろうと思った。マーカスにはレンのお目付役でもある。離れて暮らせば目が届かなくなり、レンが何をするか、それが心配なのだろう。
またレンの方も、なにかとマーカスに頼ることもあり、彼を遠ざけるつもりはない。
「別にこの屋敷でずっと暮らしてもらう必要はないと思います。ちょっと大変ですが、新しい家からこちらまで通うとか、週に何日かだけこの屋敷に滞在するとか、やり方は色々あると思います」
それでも、やはりマーカスは反対のようだった。
そしてそんなマーカスよりも強硬だったのが家庭教師のハンソンだ。彼は絶対反対だった。
彼の場合、住む場所を変えるのはどうでもいいようだったが、そこをダークエルフたちが使うのが気に入らなかったようだ。はっきりと、
「狭い家でダークエルフたちと暮らすなど、冗談ではありません。どうしてもと言うなら、私は家庭教師を辞めさせていただきます」
とまで言った。
だが、反対派の二人の説得は簡単だった。
「わかりました。では、とにかく一度だけ、温泉に行ってみて下さい」
と半ば命令して、二人を強引に温泉まで連れ出したのだ。
そして、これで二人はあっさり引っ越し賛成派に変わった。
一発で温泉を気に入ったのだ。
「それほど屋敷の方に顔を出す必要はないかもしれません。新しい家の方でも仕事はできると思いますから」
とマーカスが言えば、ハンソンも、
「ダークエルフと一緒に暮らすのは我慢なりませんが、私はレン様の家庭教師ですからな。引っ越すというなら一緒についていきましょう。ところで、新しい家の完成はいつ頃ですか?」
と前言を翻した。
まさに温泉の魔力、恐るべしである。
だが、考えてみれば当然なのかもしれない。
なにしろ、あれだけ娯楽があふれていた現代日本でさえ、温泉は一大レジャーとして確固たる地位を保っていたのだ。
「たまには仕事を休んで、どこかの温泉でのんびりしたいなあ」
社会人なら、誰もがそんなことを思ったことがあるはずだ。他でもないレンもしょっちゅうそんなことを思っていた。
日本人ですらそうだったのだ。娯楽の少ないこの世界の人々にとって、温泉がいかに魅力的なのか想像がつく。
「屋敷の方々についてはわかりました。ですが村の方々はどうでしょうか?」
説明を聞いたダールゼンは、さらにレンに質問してきた。
「それなんですが、村には知らせないことにしました」
屋敷に近い南の村の住人だけでなく、他の監視村の住人も、温泉があると知ればきっと入りに来るだろうと思った。
しかしそうなるとダールゼンが危惧する通り、きっと村人とダークエルフの間で問題が起こる。
「俺たちが入る温泉に、ダークエルフなんかを入れるな!」
と言い出すに決まっているのだ。
だからレンは村人たちには温泉のことを秘密にすることにした。
独り占めするようで気が引けるのだが、ダークエルフと村人、どちらをとるかといえばダークエルフである。
本当なら村人とダークエルフが仲良く温泉に入ってくれるのが一番いい。領主としても、そのように努力すべきなのかもしれない。
だがレンは、自分には両者を仲裁できるような能力はないと判断した。人付き合いの苦手な自分にとって、この手の問題解決はハードルが高すぎる。だったらもう、最初から問題が起きないようにするしかない。
「それで本当によろしいのですか?」
「はい。ですからダークエルフの皆さんも、他の人間には温泉のことは秘密、ということで」
村人たちが温泉を知らないことはマーカスに確認済みだ。
誰もが北の黒の大森林の方だけを気にして、南のダーンクラック山脈の方は調べようともしなかった。ダーンクラック山脈には魔獣がほとんどいない、という情報だけで十分だったからだ。だから屋敷から一時間ちょっとで行ける距離にありながら、マーカスも温泉について全く知らなかった。
そしてレンが屋敷からいなくなっても、村人たちは気にしないだろう。むしろ、いなくなってくれて向こうもせいせいするかもしれない。
「わかりました。領主様がそこまでおっしゃって下さるのであれば、我々としては反対する理由はありません。ありがたくご厚意に甘えたいと思います」
こうして、新しい家の建築が決まったのが一週間ほど前のことだった。
この時は、ダールゼンが屋敷までやって来て話し合った。
そして早くも次の日には、集落からダークエルフの大工――専門職ではないが、木の扱いに長け、家を建てたことのある者が十名ほど現地に送り込まれた。彼らはすでに木を切り出したりする作業に取りかかっている。
今のところ、決まっているのは家を建てる場所ぐらいだ。
レンも温泉まで行って、作業に従事するダークエルフたちと一緒に、家を建てる場所を選んだ。
全て空き地というかレンの領地だから、温泉のすぐ真横に家を建ててもよかったのだが、それはやめておいた。
レンはともかく、ガーガーたちが他の者を怖がって温泉に来なくなる危険性があったからだ。レンもダークエルフたちも、ガーガーたちを追い出すつもりは毛頭ない。むしろ温泉の優先権はガーガーにあるというのが共通認識だ。
というわけで、家を建てる場所は温泉から三百メートルほど離れた場所に決めた。ちょうど平坦なところがあり、ガーガーたちの反応を見ても、これぐらい離れていたら平気そうだった。
家を建てるに当たって、レンからの希望はたった一つ。
「水道というか、木の樋みたいなのを作って、温泉を家まで引いてもらえませんか?」
それができれば、二十四時間、いつでも家で温泉が入り放題になる。
幸い、温泉の源泉はちょっと高い崖の上にあったから、そこからお湯を引いてくるのは難しくないということで、ダークエルフたちも快諾してくれた。
そして今日、あらためてダールゼンにお礼を言いに集落までやって来たというわけだ。
「家といっても、我々ではちゃんとしたお屋敷を建てることもできず、申し訳ございません」
「いえ、むしろこぢんまりとした家の方がいいですから」
日本で住んでいた家はワンルームマンションだ。生活スペースはそれぐらいあれば十分だった。今の屋敷が広すぎるのだ。しかも元は砦として建てられているから、広いだけで住み心地もよくないし、新しい家の方が小さくても快適になるだろう。
予定では、まずは仮住まいとなる小さな家を建て、その後、増築する形で本格的な家を建てるという手はずになっている。
家は石造りではなく木造のログハウスのような作りになる、そうだ。なにしろ写真どころか図面もないので、完成するまではっきりとはわからない。
だが集落の家を見れば、十分な家を建ててもらえるはずだ。
ただ、この世界の貴族の家は石造りが基本で、木の家はそれより一段下というのが常識だった。
ダークエルフたちは木の家を建てることには慣れていても、今の屋敷のような石造りの家を建てられる者がいない。
ダールゼンはそれも気にして、
「ちゃんとしたお屋敷を建てることもできず、申し訳ございません」
と謝っていたわけだが、レンにしてみれば、家を選べるなら断然、木造の方がいい。ログハウスのような家とか、不満どころかとても楽しみだ。
いずれは暖炉とかも設置したいなあ、などと夢がふくらむが、まずは最初の仮住まいだ。
予定では二ヶ月から三ヶ月ほど。これが早いのか遅いのか判断はできないが、その予定だと引っ越すのは来年の春頃となる。
ちょうどこの世界に来て一年が過ぎる頃だ。
その日が来るのが待ち遠しかった。