第39話 ガーガー温泉
このところ、レンにはハマっているものがあった。
ほぼ三日に一度の間隔でそこへ出かけており、今日も行くつもりだった。
「リゲル。今日だけど――」
「はい! お供します」
わかっていますとばかりにリゲルが答えた。
今日は彼がレンのお世話係だった。すなわち、三日に一度というのは彼がお世話係の日を意味している。
これから向かう場所には、いつも二人で行っている。男同士の方が都合いいのだ。
「じゃあ今日も温泉に行こうか」
レンは笑顔で言った。
その温泉を見つけることができたのは、ガーガーたちのおかげだった。
だいたい一ヶ月ぐらい前のことだ。まだまだ暑かった九月初旬。その日、レンはガー太に乗って散歩がてらの見回りを行っていた。ロゼたち三人も一緒だ。
数日おきに、気晴らしと魔獣への警戒を兼ねて、屋敷の周囲を見て回っている。
いつもは屋敷を出たら北の方へと向かっていた。北には黒の大森林があるから、警戒するならそちらである。
だがこの日は、
「いつもと違う方へ行ってみようか」
などと言って南の方へと向かってみた。
屋敷の北には人跡未踏の黒の大森林が広がっているが、南にも同じく人の侵入を拒む大地が広がっている。
ダーンクラック山脈。
大陸西方最大最高とされる巨大山脈だ。
この目で見れば、それが決して誇張ではないことがよくわかる。
元いた世界で、レンが実際に見たことがある一番高い山は富士山だった。外国旅行はしたことがないので、それ以上高い山は写真などでしか知らない。
ダーンクラック山脈の山々は富士山よりもはるかに高い。そんな高い山がいくつも連なってそびえ立っているのだから、すごい迫力だ。山脈というか、巨大な壁のように見える。
屋敷のすぐ南は、もう山脈の裾野といっていいのだが、まだまだ傾斜は穏やかで、山というより丘陵地帯に近い。道もそれほど険しくないので、レンたちはのんびりと歩いていった。
周囲はそれほど警戒していなかった。何度もガーガーの群れを見かけたからだ。
「いっぱいいますね」
ロゼたちがうれしそうに言う。相変わらずガーガーが大好きなようだ。
ダーンクラック山脈には魔獣がほとんどいないと言われている。
この世界では山や森など、人が行かない場所が魔獣の巣窟になりやすい。グラウデン王国とザウス帝国の間にあるガスパル山脈も、黒の大森林ほどではないが魔獣の多い危険地帯として知られている。
それでいけばダーンクラック山脈が魔獣の巣窟でもおかしくないのだが、なぜかここは魔獣が少ない。険しすぎて魔獣も棲まない、などと言われているが詳しい理由は不明だ。
そして魔獣が少なく、人も住んでいない土地ということで、山脈にはたくさんのガーガーが棲息している。
ガーガーと出会った際、レンとガー太だけだと、ガーガーは向こうから積極的に寄ってくる。数が多いと囲まれて動けなくなったりして、最後はガー太がいい加減にしろ、とばかりに鳴いて追い払ったりしている。
だがロゼたちが一緒だと、そこまで近付いては来ない。ある程度近くまで来ると、そこで警戒した様子で止まってしまう。
ロゼたちはとても残念そうなのだが、彼女たちの方から近付くとサッと逃げてしまうのでどうしようもない。
この日もそうなるだろうと思っていたのだが、ちょっとガーガーたちの様子が違った。
ロゼたちを怖がってか、ある程度までしか近寄ってこないのは一緒だったが、なんだか「ついてこい」というそぶりを見せたのだ。
「ついて来いって言ってるみたいだけど……」
「行きましょう!」
ロゼが即座に賛成する。ガーガーの誘いに危険はないと思っているようだ。レンも同感だったし、興味もあったのでガーガーたちの後についていくことにした。
そうやってしばらく歩いたレンたちは、思いもよらなかった場所に到着した。
「おおっ」
「うわあ……」
レンやロゼたち三人の口から、思い思いに感嘆の声が上がった。
そこは広い泉だった。しかもわき出しているのは水ではない。水面からはもうもうと水蒸気が上がっている。
「天然の露天風呂だ」
レンは興奮していた。まさかこんな近くに温泉があるとは思っていなかったから当然だ。
温泉は二段に分かれていた。レンから見て奥の方が一メートルほどの崖になって、その上でお湯が沸き出している。そしてお湯は滝となって崖を流れ落ち、下に溜まってちょっとした池のようになっている。広さは東西、南北ともに百メートルぐらいだろうか。まさに巨大な天然露天風呂だ。
「領主様見て下さい。ガーガーがあんなにたくさんいます」
興奮したようにロゼが指さす。
彼女の言う通り、温泉にはたくさんのガーガーがつかっていた。猿が温泉に入るように、ガーガーたちものんびり温泉に入っているようだ。ざっと見て数百羽はいるだろう。レンも一度にこんなにたくさんのガーガーを見るのは初めてだった。
ここはガーガーたちの温泉なのかもしれない。
「これを僕に教えてくれたの?」
「ガー」
ここまで案内してくれたガーガーたちに訊ねると、羽をバサバサと動かして、そうだとばかりに返事をしてくれる。
レンは温泉のふちまで行ってしゃがみ、そっと湯に手をつけてみた。
「ちょっとぬるいかな……」
とつぶやいた後で、すぐに思い直す。
ここは端っこだ。源泉に近付けばもっと熱くなるだろう。お湯が沸き出しているのは崖の上だが、上の方にガーガーはいない。滝となって落ちている周囲にもいない。あそこまで近付くと熱すぎるのかもしれない。
せっかくここまで来たんだし、一回入ってみようかな、とレンは思った。実のところレンはあったかいお風呂に飢えていた。
屋敷には井戸があったが、お風呂を沸かすとなると大量の水を使うし、手間暇もかかるしで、いつもは水浴びですませていたのだ。
レンは特に風呂好きというわけではなかったが、日本にいた頃は毎日お風呂に入っていた。向こうでは当たり前のことだが、こちらではそれが贅沢なのだ。だからこの温泉に入りたくて仕方なかった。
「せっかくここまで来たんだから、僕は温泉に入ってみようと思うんだけど、リゲルも一緒に入ってみる?」
「はい。ご一緒します」
レンが誘うとリゲルはうれしそうに答えた。
「待って下さい領主様。リゲルと一緒に入るというなら、私たちはどうすればいいのですか?」
「うん。先に僕たちが入るから、ロゼとディアナは交代でその後入るってことで」
「でしたら私たち二人が領主様と入って、リゲルがその後でもいいのでは?」
「いや、よくないだろ」
何を言い出すんだと思った。
「男女に分かれて入るのが当たり前でしょ」
「確かに私もリゲルと一緒に入るつもりはありませんが――」
あ、そこはやっぱりダメなんだと思った。男女別という常識はあるんだと安心したのだが、ちょっとそれは早かった。
「ですが領主様と一緒に入るなら、問題ありません」
「僕も男なんだけど、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいですが一緒に入りたいのです」
真顔でそんなことを言われ、一瞬言葉に詰まる。
ふとディアナの方を見てみると、彼女は顔を赤くして恥ずかしそうに、
「私も……一緒に入りたい、です」
なんて言う。
本気なのかと思ったが、まず間違いなく本気だろうと自問自答した。
最初に彼女たちが屋敷に来た頃、夜這いをかけられたことを思い出したのだ。
あの後でレンがはっきりダメだと注意したから、以後彼女たちがそういうことをしたことはないが、どうやら誘惑するのをあきらめていなかったようだ。
正直、全然心が揺らがないといったら嘘になるのだが……
レンの頭にお風呂に入るロゼやディアナの姿が思い浮かんでしまい、慌てて邪念を振り払う。
「やっぱりダメ。お風呂は男女別に入るのがルールだから、僕とリゲルの二人で入ります」
ふと混浴という言葉が頭をよぎったが、ややこしくなるので黙っておく。
というわけで最初は男二人で入ることとなった。ロゼとディアナは少し離れた所で待機だ。
さっさと服を脱いで全裸になる。タオルもないので丸出しだが、大自然の中で全裸というのは、素晴らしい解放感があった。なんだかくせになりそうな気がする。
ゆっくりとお湯に入るとやっぱりぬるかったが、滝の方へ向かって歩いていくと、思っていた通りどんどんお湯が熱くなっていった。ただ思っていた以上にお湯は熱かった。
最初は奥の崖まで行って温泉の滝に打たれてみようか、なんて思っていたのだが、熱くて滝の下まで近寄れない。もしかすると崖の上にある源泉の温度は百度近いのかもしれない。それが滝などで冷やされて、入れる温度になっているのだ。
露天風呂はだいたい膝から腰ぐらいまでの深さだった。一部、胸ぐらいまでの深いところがあったので、リゲルに注意しておく。
レンはちょうどいい湯加減と深さのところへ移動して、手足を大きく伸ばしてくつろいだ。
「あー、極楽、極楽」
思わずそんな声が出た。
「ゴクラクとはなんですか?」
どうやらそのまま日本語で極楽と言っていたようだ。
「とんでもなく幸せってことだよ」
とリゲルに説明すると、彼も大きくうなずいた。
「はい。僕もとても幸せです。こうやってお湯に入るのは初めてなんですけど、こんなに気持ちいいなんて知りませんでした」
言われてみれば、集落へ行ったときに水浴びをしているダークエルフを見たことがあっても、お風呂に入っている様子はなかった。彼らにお風呂の素晴らしさを伝えてみるべきだろうか。
「それにガーガーがたくさんいますから」
レンが温泉に入ると、ガー太も一緒に入ってきた。ガー太はレンの横でのんびり湯につかっているが、そうやって一緒に入っていると、他のガーガーたちが寄ってきて囲まれてしまう。
だからリゲルの側に寄った。彼が一緒にいれば、ガーガーたちは一定の距離から近付いてこない――と思ったら、温泉でいつもよりリラックスしているのかなんなのか、ガーガーたちはすぐ側まで寄ってきた。
もはや温泉に入っているのか、ガーガーたちに入っているのか、よくわからない状態だが、リゲルは大喜びだった。
恐る恐るガーガーの羽などにさわっては、感動の笑みを浮かべている。
「ダークエルフは本当にガーガーが好きなんだね」
「世界樹のお使い様ですから」
もしかするとガーガーが臆病で、中々近寄れないのも人気に影響しているのかな、と思った。希少価値が上がるというか。
こうして二人と一羽は温泉を――その中の一人はガーガーも――満喫して温泉から上がった。ちょっと長湯しすぎてレンもリゲルも少しのぼせていたぐらいだ。
彼らの次にロゼとディアナが温泉に入ったので、レンたちは少し離れた所で、寝っ転がって待つことにする。
二人も温泉を楽しんでくれるだろうと思っていたのだが、しばらくするとロゼから声がかかった。
「領主様! ガーガーが逃げていくのですが」
こちらから見ることはできないが、どうやら彼女たちだけだとガーガーは近くに来てくれないようだ。
「やはり領主様も一緒に――」
「だからそれはダメだって」
二人が温泉から上がった後で話を聞くと、とても気持ちよかったとうれしそうではあったが、やはりガーガーが逃げてしまったのが不満そうだった。
どうしようもないとあきらめてもらうしかなかったが。
こうして一ヶ月ほど前に温泉を見つけて以来、レンはリゲルと一緒に三日に一度の温泉参りを続けていた。
屋敷から温泉までは徒歩で一時間ちょっとだが、これはダークエルフのリゲルが歩く速度に合わせているから、人間ならもっと時間がかかるだろう。
ガー太がリゲルも乗せてくれればもっと早いのだが、相変わらず乗せるのを嫌がっているのでしょうがない。
時間がかかるのは大変だが、やはり温泉の魅力にはあらがえなかった。一人でガー太に乗って行けば早いので、それで毎日入りに行こうかとも思ったのだが、リゲルに悪いのでやめておいた。
悪いといえば、ロゼとディアナの二人には少し悪いと思っている。一緒に入ることができないので、彼女たち二人は留守番だ。もちろん二人には
「好きなときに、自由に行っていいよ」
と言ってあるのだが、遠慮しているのか、あまり行こうとはしない。
でもしょうがないよね、と思いつつ、今日もリゲルと温泉に行こうとしたわけだが、そこへ呼び止める声がかかった。
「あの……レン様」
遠慮がちに声をかけてきたのはディアナだった。